第11話:冒険者の日々
白いパンだ。
ヘルガが朝いちばんに焼いたもので、両手で包むとまだほんのり温かい。指で押すと、ふかりと沈んで、ゆっくり戻ってくる。表面には艶があって、香ばしい匂いがする。
代金は、オークの分け前から払った。ヘルガは「一個でいいのかい」と聞いたが、一個でいいと答えた。
カナメはそれを布に包んで、路地裏へ向かった。
食堂の裏手にある洗い場では、朝から湯気が上がっていた。大きな桶がいくつも並び、女たちが鍋や皿をごしごし擦っている。その端っこで、小さな背中が二つ、並んで働いていた。
「よう」
声をかけると、鍋を擦っていたヤナが顔を上げた。
「カナメさん! どうしたの? お仕事見つかった?」
「おう。お前のおかげで仕事が見つかったぜ。ほら、これ」
カナメが包みを差し出すと、ヤナが布をめくった。白いパンが出てきた。ヤナの目が丸くなり、水桶を置いて寄ってきたイヴァンが、ごくりと喉を鳴らした。
「ギルドのおかみさんが焼いたらしいんだ。やるよ」
「……そんな、何もしてないのに、貰えないよ……」
「何もしてねえわけじゃないだろ。ギルドを教えてもらった礼だ」
ヤナは、少し黙った。
パンを見下ろして、何か考えているような顔をした。それから、顔を上げた。
「……じゃあ、もらう。ありがとう、カナメさん」
「おう」
カナメは、少しだけ胸を張った。
「俺、冒険者になったんだぜ。冒険者になりゃ、こういうのも食えるんだぜ」
「ほんと!?」
「おう。お前もなるんだろ、冒険者」
「なる!」
ヤナの頬が、ぱっと赤くなった。
「姉ちゃんには無理だって」
「無理じゃないって言ってるでしょ!」
イヴァンが言い返す前に、ヤナはパンを二つに割った。大きいほうを弟の手に押しつけ、小さいほうを自分で持つ。
イヴァンは、手の中のパンをしばらく見つめていた。それから、恐る恐るかじった。
「……やわらかい」
小さな声だった。
それきり、黙々と食べはじめた。ヤナも、ひと口ずつ大事そうにかじっていた。
「これからまた任務なんだよ。山賊捕まえに行くんだ。東門で待ち合わせさ」
カナメは得意げに腕を組んで、それから、首をかしげた。
「……東門って、どこか知ってる?」
姉弟が、揃ってパンをかじる手を止めた。
「井戸のある広場を右。まっすぐ行ったら、大きい門。すぐにわかると思うよ」
「……そっか。また世話になったな。助かったぜ」
カナメが頭を掻くと、ヤナはにっと笑った。
「ふふ……じゃあ、またお礼まってるね」
*
「遅えぞ」
東門の脇で、ルカが腕を組んで待っていた。
「道に迷った」
「この町に来て何日目だよ」
「三日か、四日かな?」
エリシュカが呆れた顔をし、ラデクは何も言わずに歩き出した。
街道を東へ進む。空は晴れていて、風が気持ちよかった。
しばらく歩いたところで、ルカが右腕をぐるぐる回しはじめた。
「なあ、なんか体が軽くねえか」
「軽い!」
エリシュカがすぐに食いついた。
「私も! 朝起きたとき、びっくりした。魔力の巡りが全然違うの。ライトスピアなら、三発くらいは余裕で撃てそう」
「身体強化の乗りがいいんだよな。前は意識して乗せてたのが、勝手に乗る感じっていうか」
「オーク一体分だ。こうもなるさ」
ラデクが、前を向いたまま言った。
「格上を倒したんだ。流れ込んでくる量も多い」
「だよな!」
ルカが嬉しそうに拳を握った。それから、カナメのほうを振り返った。
「カナメはどうだ? どれくらい増えた?」
「何が?」
「何がって……感じないのか?」
「……何を?」
「マナを!」
「全然。そもそもなんだよマナって」
三人が、揃ってカナメを見た。
「お腹のあたりとかに、あるでしょ。あったかいのが」
エリシュカが、信じられないという顔をした。
「ミレナにも同じこと言われたな。わかんないんだよな、それ」
「倒した相手のマナってのは、周りにいるやつに流れてくるんだよ。お前もあの場にいたんだから、ちょっとは来てるはずなんだけど」
ルカが、頭を掻きながら言った。
「たしか、サキュバスは精気を吸うことで伸びると聞くな。それ以外の手段は効果が薄いのかもしれない」
ラデクが言った。
カナメは、森でミレナに言われたことを思い出した。精気を吸わないと、サキュバスは強くなれない。
「ああ、そういうことか。じゃあ、あんまり増えてねえんだろ。たぶん」
「お前、それでオークの前に立ってたのかよ」
ルカが、深々とため息をついた。
「立ってたな」
「信じらんない……」
エリシュカが額を押さえた。
*
商隊が襲われたのは、街道が森に入ってすぐの、緩い坂の途中だった。
片輪の外れた荷車が、道端に押しやられていた。壊れた木箱がいくつも転がり、中身の布地が泥に汚れて散らばっている。積み荷のほとんどは持ち去られたらしい。
ラデクは荷車の周りを一周してから、道端にしゃがみ込んだ。
地面に掌を向けて、短く唱える。
「ヴェス・クラリス――足跡に光を、道筋に導きを」
淡い光が、地面に沁み込んだ。
カナメは目を凝らした。
泥の上の、踏み荒らされた跡。それまでただの汚れにしか見えなかったものが、うっすらと浮かび上がって見えた。靴の形。踵の向き。茂みの手前で折れた枝の、白い断面。草が倒れている方向。
「……五人だな」
ラデクは、浮かび上がった足跡を一つずつ指でなぞった。
「この大きいのが一人。歩幅が広くて、踏み込みが深い。重いものを担いでる。残りの四人は、これと、これと……一人、右足を少し引きずってる。森の中を、北へ抜けてる」
「そこまで分かるのかよ」
「分かる分は分かる」
ラデクは立ち上がり、膝の土を払った。
「光らせても、ないもんは見えない。見えたもんをどう読むかだ」
それだけ言って、茂みの中へ分け入っていった。
カナメは、光の消えかけた足跡を見下ろした。
これを読んで、人数と、重さと、怪我まで分かるのか。
すごいもんだな、と思った。
*
追跡は、午後いっぱいかかった。
ラデクは時々立ち止まって地面を確かめ、また歩き出す。ルカはその少し後ろで周りを警戒し、エリシュカとカナメが続いた。誰も、余計なことは喋らなかった。
日が傾きかけたころ、ラデクが手を上げた。
木々の向こうに、煙が見えた。
森の中の、小さな空き地だった。古い炭焼き小屋が一軒、半分傾いて建っている。その前で焚き火が燃えていて、男たちが五人、車座になって酒を回していた。周りには、商隊から奪ったらしい木箱と樽が積まれている。
笑い声が聞こえた。
五人のうち、一番体の大きな男が、樽に腰かけて杯を傾けていた。脇には、柄の長い斧が立てかけてある。
「頭はあれだな」
ラデクが、茂みの陰で声を潜めた。
「酒は入ってるが、斧からは手の届くところにいる。周りの四人も、得物は手元に置いてる」
「正面から行ったら、散るな」
ルカが、剣の柄に手をかけながら言った。
「森に逃げ込まれたら、一人二人は取り逃がす」
「俺がおとりになる」
カナメが言った。
三人が、カナメを見た。
「は?」
「あいつら、男ばっかだろ。俺がふらっと出てって話しかけりゃ、たぶん全員こっち見る」
カナメは、焚き火のほうを顎で示した。
「見た目はいいんだろ、俺は」
ルカが、黙った。
ラデクも、黙った。
「えっ」
エリシュカの声が、ひっくり返った。
「一応自覚あったんだ!?」
「そりゃ、俺だってそのくらいはわかる」
昨日、ギルドにあった鏡で初めて自分の顔を見たのだ。そこに映った美少女に度肝を抜かれた。
どおりで男がチラチラとこちらを見るわけだ。いまだに自分でも、自分の顔を見るたびに気恥ずかしくなる。
「……魅了とか、使うなよ」
ルカが、低い声で言った。
「使えねえって。知ってんだろ」
ラデクが、少し考えてから頷いた。
「おとりは悪くない。ルカは左、俺は右から回る。エリシュカは、あの木の陰から閃光を」
「合図は?」
「カナメがしゃがんで、靴紐をいじったら撃て」
ラデクは、カナメを見た。
「お前はその瞬間に目を閉じて、顔を伏せろ。俺たちも、背を向けて待つ」
「分かった」
「全員、焚き火のほうを向かせとけ。こっちに背中を向けるやつがいたら、閃光が効かない」
「任せとけ」
*
カナメは、茂みをかき分けて、空き地に出た。
わざと、枝を踏んで音を立てた。
男たちが、一斉に振り返った。
「よ」
カナメは、片手を上げた。
「こんなとこで何してんだ? 道に迷っちまってさ」
五人とも、ぽかんと口を開けていた。
一人が、手にしていた杯を落とした。酒が地面に染みていく。誰も、それを拾おうとしなかった。
「お……おい」
一人が、隣の男の肘を小突いた。
「なんだありゃ」
「べっぴんだな」
「見りゃ分かるよ」
「なんでこんなとこに……」
頭らしい大男だけが、樽に座ったまま、目を細めてカナメを見ていた。斧の柄に、手が伸びかけている。
だが、そのうちに、男の一人がにやにや笑いながら立ち上がった。
「なんだよ姉ちゃん、迷子か? こっち来いよ、火にあたってけって」
「酒もあるぞ。いい酒だ。盗ってきたばっかの」
「お前、余計なこと言うな」
どっと笑いが起きた。四人が、ぞろぞろと焚き火の向こう側に集まってくる。頭の大男も、ため息をついて斧から手を離した。
全員が、焚き火越しに、カナメを見ていた。
背中は、全部森のほうを向いている。
「いいのか? じゃあ、ちょっとだけ」
カナメは、焚き火に向かって歩き出しかけて、足を止めた。
「あ、悪い。靴紐ほどけた」
しゃがんだ。
目を閉じて、顔を膝に埋めた。
森の奥で、エリシュカの声がした。
「ルクス・フルゴ――光よ、瞬き、視界を奪え」
瞼の裏が、真っ白になった。
悲鳴が上がった。
*
カナメは目を開けて、立ち上がった。
男たちが、顔を押さえてよろめいていた。焚き火の向こうで、一人が両手で目を覆って膝をつき、一人が闇雲に腕を振り回している。
一番手前の男が、目を押さえたまま、ふらふらとこちらへ歩いてきた。
カナメは、その足を払った。男が前のめりに倒れる。腕を背中に捻り上げて、膝で押さえた。
左の茂みから、ルカが飛び出していた。剣は抜いていない。柄頭で、腕を振り回していた男のこめかみを打つ。男はそのまま崩れ落ちた。
右からは、ラデクが滑り込んでいた。膝をついていた男の背後に回り、首に腕を回して締め上げる。男は二度、三度もがいて、静かになった。
ほんの数呼吸のことだった。
三人が倒れた。
だが、残りの二人のうち、樽のそばにいた大男が、もう顔を上げていた。
目は真っ赤に充血している。それでも、閃光から立ち直るのが、ほかの連中よりずっと早かった。
大男は、斧の柄を掴んだ。
両手で握り、頭の上まで振りかぶる。
カナメの首筋が、ぞくりとした。
何かが変わった。
構えが、さっきまでと違う。肩の力の入り方。足の踏ん張り。斧を握る手。全部が、ぎゅっと一点に絞られていく感じがする。
空気が、重くなった。
理由は分からない。ただ、あれはまずい、と体が言っていた。
「ルカ、なんか来るぞ!」
「分かってる!」
「スラッシュ――ブレイクッ!」
大男が吼えて、斧を振り下ろした。
刃が地面を叩いた。
そこから、地面が裂けた。
斧の刃の延長に沿って、まっすぐ一本、亀裂が走る。土と小石を跳ね上げながら、ルカの足元めがけて。
ルカが横へ跳んだ。亀裂は、ルカのいた場所を通り過ぎ、その先の木の根元で止まった。
すぐ脇で、最後の一人の山賊が、短剣を抜いてラデクに飛びかかっていた。ラデクはそれを半身でかわし、手首を取って捻る。
「カナメ!」
ルカが左へ、カナメが右へ回った。
大男が、カナメのほうを向いた。斧を横に構え直す。
横薙ぎが来た。
カナメは、上体を思いきり後ろへ反らした。
鼻先を、斧の刃が通り過ぎていった。風で、前髪がふわりと持ち上がる。
反らした体を、腹で引き戻す。そのまま、地面を蹴って踏み込んだ。
大男は、空振りした斧に体を持っていかれていた。顎が、がら空きだった。
右足が、高く上がった。
爪先が、大男の顎を真横から蹴り上げた。
大男の首が、がくんと揺れた。目の焦点が一瞬ずれ、膝がわずかに沈む。
「ルカ!」
言うまでもなかった。
ルカは、もう踏み込んでいた。剣を握ったままの右拳を、大男の脇腹に叩き込む。
拳が当たった瞬間、ルカの腕がわずかに膨らんだように見えた。
大男の巨体が、浮いた。
そのまま炭焼き小屋の壁まで吹っ飛び、腐りかけた板を突き破って、中に転がり込んだ。
しばらく、何かが崩れる音が続いた。
それから、静かになった。
ラデクのほうを見ると、最後の一人が地面に組み伏せられ、両手を背中で縛られているところだった。
*
五人を縄で縛り上げ、焚き火の前に並べて座らせた。
頭の大男は、小屋の残骸の中から引きずり出された。顎を押さえて呻いているが、骨までは折れていないらしい。エリシュカが一応様子を見て、「大丈夫、生きてる」と言った。
ラデクが、並んだ山賊を指差しながら数えはじめた。
「俺は二人。お前らは一人ずつと、二人で一人……つまり一・五人だ。俺の勝ちだな」
「ふざけんな!」
ルカとカナメの声が、揃った。
「俺がぶっ飛ばしたろ!」
ルカが、壊れた小屋の壁を指差した。
「あれ見ろよ、あれ! 一人と数えていいだろ!」
「その前に俺が蹴ったからだろ! 顎揺れてなかったら、お前の拳なんか当たってねえぞ」
「当たってたよ!」
「当たってねえよ!」
「じゃあ、やっぱり頭は〇・五ずつだ」
ラデクが、涼しい顔で言った。
「やっぱり俺の勝ちだな」
「頭一人と雑魚一人を同じに数えんなよ!」
「数は数だ」
ラデクは、珍しく口元を緩めていた。どう見ても、楽しんでいた。
「……ちょっと」
エリシュカが、杖を抱えたまま割って入った。
「閃光撃ったの、私なんだけど」
「エリシュカは別枠だ」
「別枠って何!?」
「全員の目を潰したんだぞ。五人分だ。数えたら勝負にならない」
「……それはそれで、なんか嫌なんだけど」
エリシュカは口を尖らせた。
ルカとカナメは、まだ頭の大男の取り分で揉めていた。ラデクは、その横で縄の結び目を確かめている。
「……こんなにあっさり終わるなんて」
エリシュカは、ぽつりとこぼしてから、空を見上げた。
日は、もう沈みかけていた。
「ほら! いつまでやってんの! 日が暮れるよ!」
*
それから、十日あまりが過ぎた。
ヴェラは、執務室の机の上に、報告書を並べていた。
街道の山賊、五名捕縛。依頼主の商会からは、礼状と、追加の謝礼まで届いた。
商隊の護衛、二件。いずれも、被害なし。片方の商隊長は、次もあのパーティに頼みたいと名指しで依頼してきた。
北の廃坑に住みついた大鼠の群れの駆除。予定の半分の日数で完了。
古い街道沿いの、崩れかけた見張り塔の調査。地図の修正と、内部の安全確認。報告書は、ラデクの丁寧な字で、要点が過不足なくまとめられている。
ヴェラは、一枚ずつめくりながら、所要日数と、怪我人の有無と、依頼主の評価を確かめていった。
どれも、文句のつけようがなかった。
オーク討伐で、三人のマナが大きく伸びたのは確かだ。だが、それだけで仕事がうまくなるわけではない。判断に迷いがなく、役割の分担に無駄がない。依頼主との受け答えも、前より落ち着いている。
そして、どの報告書の隅にも、小さく一行。
同行、使い魔一。
ヴェラは、報告書の束を揃えて、机の端に置いた。
まだ一流ではない。熟練と呼ぶにも、もう少しかかる。だが、もう一段上の仕事を任せても、いいだろう。
次は、少し遠出の護衛か。あるいは、ほかのパーティが二の足を踏んでいる、東の湿地の調査あたり。
ヴェラは、少しだけ口元を緩めた。
*
昼食を取りに、食堂へ下りた。
隅の卓で、黒髪の少女が、当たり前のような顔で鹿肉のスープをすすっていた。
「カナメちゃん、芋もうすぐ揚がるよー」
ニカが、頭の上の耳をぴこぴこ動かしながら通り過ぎていく。通りがかった冒険者が「よう、カナメ」と声をかけ、少女は匙を持ったまま「おう」と片手を上げた。
休憩室の窓際の長椅子は、いつの間にか、あの少女の寝床になっていた。誰が許したわけでもない。気がついたら、そうなっていた。
魔物である。しかも、サキュバスである。
「いやぁ、ルカくんたち、調子いいねぇ」
背後から、のんびりした声がした。報告書の束を手にしたクラウスだった。
「それは、喜ばしいことです。……部長、あれ」
ヴェラは、食堂の隅を指差した。
クラウスは、少女をしばらく眺めてから、頷いた。
「馴染んでるねぇ」
「なんで冒険者ギルドのど真ん中でモンスターが馴染んでいるんですか……」
少女が、こちらに気づいた。匙を持った手を、ぶんぶん振る。
「ヴェラさん! 今日のスープ、うまいぞ!」
「……それは楽しみですね」
ヴェラは、小さく手を振り返してしまってから、その手を見下ろした。
どうして、こうなったのだろう。




