第2-2話 狐獣人 リコ
リコは川辺にしゃがみ込んだ。
十七歳の狐獣人。一般の狐獣人の毛並みは黄色だが、リコの毛並みは白銀だ。
整った顔立ちをしているが、本人はあまり気にしていない。
むしろ目を引くのは、その体つきだった。細身だが弱々しさはなく、引き締まった脚としなやかな腰は、長い距離を走り込んできたことを思わせる。村一番の俊足と言われるだけのことはあり、その脚力こそがリコ最大の武器だった。
今も川辺へ来るまで、誰よりも速く草原を駆け抜けてきたばかりだ。
そんなリコは、手ですくった水を口に含むと、すぐに顔をしかめた。
「……変っす」
冷たく、透明な水。見た目はいつもと変わらない。けれど、味が違った。
舌の上にざらりとした感触が残る。まるで小石や鉄を舐めたような、嫌な後味だった。
「うえぇ……」
思わず水を吐き出した。
昔はもっと柔らかい味だった。山の湧き水のような、透き通った味だったはずだ。それが今では、何かが混ざっているような気がしてならない。
リコは水面に鼻を近づけた。獣人の嗅覚は人間より遥かに優れている。だが、その鼻をもってしても匂いの違いは分からなかった。
「まあ、一応汲むっすけど……喉が渇くのは嫌っすからね」
リコは持ち歩いている革袋に川の水を汲んだ。毎日の日課だった。
「川上の鉱山っすかね……」
上流へ目を向けると、遠くに鉱山の建物が見えた。最近になって採掘量が増え、作業範囲も広がったと聞いている。
その時だった。
「……あれ?」
川辺に横たわる小さな影を見つけた。
野ラピット。この辺りに生息する、ウサギによく似た小動物だ。リコは近づいて指先でつついてみたが、反応はない。
死んでいた。
リコの狐耳がぴくりと動き、胸の奥がざわついた。
「なんか変っす……」
周囲を見渡す。そして、いるはずのものがいないことに気づいた。
「スライムがいないっす」
以前は川辺に透明なスライムがたくさん住んでいた。ぷるぷると身体を揺らし、日向ぼっこをしたり、水辺を漂ったりしているのが当たり前だった。
なのに、今は一匹もいない。
リコは不安になった。
「関係あるっすかね……」
嫌な予感がした。根拠はない。それでも、この川はおかしい。絶対に何かがおかしい。
リコはそう確信していた。
※
「信じてほしいっす! あそこの川の水は良くないもので汚れてるっす! めっちゃまずいっす!」
村の広場に少女の声が響いた。夜の涼しい風が吹き抜ける中、集まった村人たちの表情は冷ややかだった。
「絶対におかしいっす! 舌がビリビリするっす! いつもの川の味じゃないっす!」
リコは両手をぶんぶん振りながら、必死に訴えた。
村人たちは顔を見合わせ、ため息を吐く。
「リコ、またなのか」
重々しく口を開いたのは、村長だった。
村長は熊の獣人で、リコを頭一つ以上見下ろすほどの巨躯を持っていた。茶褐色の毛に覆われた太い腕を組み、深い皺の刻まれた顔でリコを見下ろしている。
「またじゃないっす! 今回は本当に危ないっす!」
リコは即座に反論した。
「だから、何度も言っているだろう。お前の両親が亡くなった後も、村で面倒を見てやっている。構ってほしいからといって、嘘をついてよい理由にはならん」
村長は眉間を押さえた。
「嘘じゃないっす!」
リコは思わず叫んだ。狐耳がぴんと立ち、尻尾もぶわっと膨らむ。
「この前なんて、野ラピットの子供が川の水を飲んで倒れてたっす!」
「たまたまだろう」
「たまたまじゃないっす!」
「なら、証拠はあるのか?」
「うっ……」
言葉に詰まった。
証拠はない。だが、リコには分かるのだ。舌に残る感触も、いつもとは違う味も、この村の誰よりも敏感に感じ取れる。
「私は毎日飲んでるけど、何ともないよ」
犬獣人のおばさんが口を開いた。
「私もだ」
「俺も何ともないな」
次々に同意の声が上がり、リコは唇を噛んだ。
そうなのだ。誰も分かってくれない。違いに気づいているのはリコだけで、だからいつもこうなってしまう。
「ほら、また始まったわ」
誰かが小さく呟いた。
「白い狐獣人はよく嘘をつくっていうのは本当ね」
「また変なこと言い出したのか?」
「昔から変わった子だったからな」
ひそひそと交わされる声が耳に入る。リコは聞こえないふりをした。
慣れている。慣れているはずだった。それでも、胸が痛かった。
白銀の毛並みを持つ者は珍しく、狐獣人ならなおさらだ。この辺りではリコしかいない。だから余計に目立ち、噂になり、周囲から浮いてしまう。
両親が生きていた頃は、まだよかった。けれど二人が亡くなってからは違う。村にいても、笑っていても、どこか自分の居場所がない。そんな感覚がずっと続いていた。
「リコ」
村長が冷たい声で言った。
「これ以上、村を混乱させるなら出て行ってもらう」
その言葉に、広場が静まり返った。
「――っ!」
胸が締め付けられる。
分かっていた。いつか言われるかもしれないとは思っていた。それでも、まさかこんな形で言われるなんて。
リコは拳を握り締めた。狐耳が垂れ、尻尾もしゅんと下がっていく。
誰も助けてくれない。誰も信じてくれない。
悔しかった。悲しかった。
だけど、それ以上に腹が立った。
「知らないっす! 後でみんなお腹が痛くなっても、知らないっすからね!」
そう言い残し、リコは走り出した。
次の瞬間、足元で青白い光が弾ける。
雷魔法。
電流が筋肉を駆け巡り、世界が一気に遅くなる。風が背後へ吹き飛んだ。
「うおっ!?」
「速っ!?」
村人たちの驚きの声が遠ざかっていく。
リコは走った。草原を抜け、街道を駆け、風よりも速く。誰にも追いつけない速度で、ひたすら前へ進んだ。
「むぅぅぅぅぅっ!」
涙が滲む。
信じてもらえなかったことが、両親がいないことが、居場所がないことが悔しかった。
全部、全部、悔しかった。
けれど、走りながらふと思い出したことがある。
数日前に聞いた噂だ。
『異世界の賢者が現れた』
『見たこともない魔道具を操る』
『王ですら認めた大賢者らしい』
王都中で話題になっていた。正直、半分くらいは嘘だと思っている。
でも――。
「その人なら……」
リコは顔を上げた。
「その人なら、分かるかもしれないっす」
村人たちが信じてくれなくても、自分を知らない人なら、偏見を持っていない人なら、話を聞いてくれるかもしれない。
そして何より、リコの勘が告げていた。このまま放っておけば、もっと悪いことが起きる。
「待ってるっす! 異世界の賢者!」
狐耳を揺らしながら、リコは王都へ向けて全力で駆けた。
その先に、自分の運命を大きく変える出会いが待っているとも知らずに。




