第2-1話 挿話 希代の魔導士の伝説
千年の昔、人類は魔族に支配されていた。
大地は蹂躙され、都市は焼かれ、人々は明日を迎えられる保証すらないまま、怯えながら生きていた。空を見上げれば魔物が飛び、夜になれば誰かが消える――そんな時代だった。
それでも、人類は滅びなかった。
自由を求める意思がそうさせたのか、あるいは世界がまだ人類を見捨てていなかったのか。
一人の男が現れた。
あらゆる魔法を使いこなす希代の魔導士。どの属性においても、彼に並ぶ者はいなかった。
そして、その傍らには一人の少女がいた。
ミラ。
人類最後の王族の血を引く姫君であり、同時に人類最強の魔法剣士。卓越した剣技と魔法を併せ持ち、幾度となく仲間たちを救ってきた少女だった。
二人は旅の途中で出会い、幾度もの死線を潜り抜けてきた。今では互いに、誰よりも信頼できる仲間となっている。
さらに、彼らにはもう一匹の仲間がいた。
巨大な白銀のフェンリル。
かつて魔族に傷つけられ、瀕死の状態だったその獣を、男は見捨てなかった。自らの命を削って治療し、死の淵から救い出したことで、以来フェンリルは男を主人と認め、その傍らに付き従っている。
――人類最後の希望。
彼らは、そう呼ばれていた。
そして今、長い旅の果てに、その終着点へ辿り着いていた。
目の前にそびえるのは、黒き巨大な城。
魔王城。
天空を覆うように巨大な尖塔が伸び、その姿は城というより、世界そのものへ突き刺さった巨大な槍のようだった。
昼だというのに空は薄暗く、厚い雲が渦を巻いて太陽の光を拒絶している。風は吹かず、鳥の鳴き声も虫の羽音すら聞こえない。まるで世界から命だけを切り取ってしまったかのような静寂が、辺り一帯を支配していた。
男は眉をひそめる。
旅の途中で数え切れないほどの魔族の拠点を目にしてきたが、ここは明らかに違っていた。
城壁は黒曜石のような光沢を放ち、その表面では血管を思わせる赤黒い筋が脈動している。まるで城そのものが一つの巨大な生物であるかのような錯覚すら覚えた。
城門の上には巨大な人骨が幾重にも積み重ねられていた。人間だけではない。獣人、エルフ、ドワーフ、竜種――あらゆる種族の骸骨が組み合わされ、悪趣味な王冠のように飾られている。
それは、魔王による支配の歴史そのものだった。
ここへ辿り着けなかった者たち、自由を求めて散った者たち。その亡骸が、長い年月にわたって晒され続けている。
「ひどい……」
ミラが小さく息を呑んだ。怒りとも悲しみともつかない声だった。
傍らのフェンリルも低く唸り、全身の毛を逆立てている。野生の勘が告げているのだろう。ここは、生き物がいていい場所ではないと。
城から流れ出す魔力は瘴気となって周囲を覆い、草木は枯れ果て、大地は灰色に変色していた。数キロ手前から鳥一羽見かけなかった理由も、今なら理解できる。
生命そのものが拒絶されている。
それが魔王城だった。
その時――。
「……あ」
不意にミラが足を止めた。
「どうした?」
男が振り返る。
ミラは答えず、荒れ果てた大地の一角へ歩いていった。
そこには灰色の土と砕けた石、それに枯れた草があるだけで、男には何もないように見えた。
だが、ミラはその場へしゃがみ込む。
「見て」
その指先には、小さな白い花が咲いていた。
枯れ果てた大地の隙間から、ほんの数枚の白い花びらを伸ばしている。
「こんな場所に……」
男も思わず目を見開いた。
「すごいわね」
ミラはそっと花へ顔を近づけ、小さく息を吸った。その表情が、ほんの少しだけ緩む。
「甘い匂い」
「匂うのか?」
「ええ。ほら」
男も隣へしゃがみ、白い花へ顔を近づけた。
瘴気と焼けた土の臭いに混じって、かすかに甘い香りがする。本当に弱く、注意しなければ気づかないほどの小さな香りだったが、それでも確かにそこにあった。
「私、この花好き」
ミラが呟いた。
「こんなところでも咲けるから?」
「それもあるけど」
ミラは首を横に振る。
「いい匂いだから」
あまりにも単純な答えに、男は少し笑った。
「姫君らしくない理由だな」
「何よ、それ」
「もっとこう、高潔な理由でもあるのかと思った」
「花を好きになるのに理由なんていらないでしょう?」
「それもそうか」
ミラは白い花を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、小さく口を開く。
「ねえ」
「ん?」
「全部終わったら、こんな花がどこにでも咲く世界にしたい」
男はミラを見る。
「どこにでも?」
「ええ」
ミラは立ち上がり、荒れ果てた大地を見渡した。
「ここも、私たちが通ってきた焼けた村も、魔族に壊された街も。道端にはこんな花が普通に咲いていて、子供がそれを摘んで家に持って帰れるの」
白い花が、彼女の足元で小さく揺れている。
「朝になったらご飯を食べて、仕事をして、夜になったら家族のところへ帰る。明日も同じ日が来るって、みんなが当たり前に思える世界」
「…………」
「そんな世界なら、この甘い匂いがどこにでもするでしょう?」
男は何も言わなかった。
ミラは隣に立つ希代の魔導士へ視線を向ける。
「私はね、そんな世界を作りたい」
「王族だからか?」
「違うわ」
ミラはすぐに否定した。
「私が、そういう世界で生きたいから」
それから少し考え、男へ笑いかける。
「あなたも一緒にね」
男が目を丸くした。
「俺も?」
「当たり前でしょう。ここまで付き合わせておいて、魔王を倒したら『じゃあ、さようなら』なんて言わせないわよ」
「ひどい話だ」
「嫌なの?」
男は答えず、足元の白い花へ視線を落とした。
「……悪くないな」
「でしょう?」
ミラが笑った。
荒れ果てた世界には不釣り合いなほど、明るい笑顔だった。
男は再び魔王城を見上げた。
長い旅だった。何人もの仲間を失い、救えなかった命もある。それでも、ここまで来た。
あと一歩。
本当にあと一歩で、人類を苦しめた時代も、人々が怯える夜も、仲間を失い続ける日々も、全てを終わらせることができる。
「いよいよね」
隣でミラが呟いた。その声には、わずかな緊張が滲んでいる。
「ああ」
男は頷いたが、その表情に恐れはなかった。
ここで立ち止まる理由などない。人類の未来を取り戻すために、これまで戦ってきたのだから。
フェンリルも低く唸り、黄金色の瞳で真っ直ぐに城門を見据えていた。
「この戦いに勝って、もう一度人類に自由を取り戻しましょう」
「ああ。きっと俺たちならできる」
男は笑った。
根拠などない。
それでも、不思議とそう思えた。
どれほど絶望的な戦いでも、どれほど強大な敵でも、彼らはここまで乗り越えてきたのだから、今回もきっと同じだと信じていた。
ミラもまた微笑んだ。
それは旅の途中で、男が何度も目にしてきた笑顔だった。
「じゃあ、行きましょう――」
男が城門へ向かって歩き出し、ミラとフェンリルが後に続いた。
世界の運命を決める戦いへ。
人類最後の希望たちは、迷うことなく進んでいく。
そしてミラは、隣を歩く男の名を呼んだ。
「――アストレア」
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