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第7話 異世界の賢者

 翌朝、太陽が地平線から顔を出した頃、迅とガレスは王宮へ向かっていた。王都はまだ眠りの中にあり、石畳の道を進む馬車の音だけが静かに響いている。


「緊張はしていないのですな」


 ガレスが尋ねた。


「何がだ?」


「失敗すれば、毒入りワインを飲むことになるのですから」


 迅は鼻で笑った。


「分析結果は嘘をつかない」


 それだけだった。

 ガレスは苦笑した。この男は本当に研究者なのだと思った。根拠のない自信ではなく、データへの絶対的な信頼。それが迅という人間だった。


 やがて一行は王の間へ到着し、巨大な扉が開かれた。

 高い天井に赤い絨毯、左右には騎士たちが整然と並んでいる。そして、その奥にある玉座には王が座っていた。

 相変わらず不気味な男だった。

 四十代ほどに見える容姿。白髪に色素の薄い肌。しかし、生気がないわけではない。むしろ冷たい表情には似合わない、力強さを感じる。


「来たか。異世界の賢者と呼ばれし者よ。その力を示すがいい」


 王は薄い笑みを浮かべた。


「ガレス、ワインを出せ」


「はっ」


 ガレスが十本の瓶を前へ並べる。それぞれの瓶には、迅が指示した番号が書き込まれていた。

 文官のセドリックはいぶかし気に訪ねてくる。


「その番号は何ですか?」


「毒入りを見つけるため、迅殿が付けたものだ。異世界の魔道具のようなものを用いて分析した結果、九番以外は毒入りと判断された」


「ほう、分析、ですか」


 王が目を細めた。その表情からは何も読み取れない。

 ガレスやセドリックにも正解は知らされていない。結果を知るのは、この場が初めてだった。


「では、九番を注げ。飲めぬとは言わせぬぞ」


「もちろんだ」


 迅は迷わずグラスを受け取った。赤い液体が揺れている。

 分析結果は全て頭に入っていた。九番だけが異なり、毒と推定される成分が検出されなかった。だからこそ、躊躇はない。

 迅はそのままグラスを傾け、赤ワインを飲み干した。


 静寂。

 王の間から音が消えた。

 十秒、二十秒、三十秒。誰も言葉を発しない。周囲の騎士たちも固唾を呑んで見守っていた。


「……何も変化はないか」


 王が口を開いた。


「ああ。普通にうまいワインだったぞ」


 迅は空になったグラスを置いた。

 王の口元がわずかに歪む。


「我が飲んだときは、すぐに身体に違和感を覚えたものだ。解毒したからよかったが」


「解毒?」


 迅が眉をひそめると、隣にいたセドリックが答えた。


「王は、この国で唯一の光魔法の使い手です。解毒程度なら造作もありません」


「……なるほどな。便利な力だ」


 迅は納得した。だから毒殺未遂を受けたというのに、平然としていたのか。死を恐れていないように見えた理由も、少しは理解できた。

 もっとも、それだけでは説明できない何かも感じていた。


「そうだろう?」


 王が笑った。その笑みは、どこか人間離れしていた。


「異世界の賢者というのは本当だったようだな」


 王が玉座から立ち上がる。その瞬間、王の間に緊張が走った。


「お前の召喚には苦労した。お前を建物ごと召喚することが、この国に最も利益をもたらすと出たからな」


「利益?」


「この国は、滅びに向かっている」


 王の声が低くなった。


「人口が減っているのだ。生まれる者よりも死ぬ者が多く、人々の寿命は短い。国力は衰え、技術は失われ、村は消えていく。このままでは、やがて国そのものが終わるだろう」


 迅は黙って聞いていた。

 王の言葉には妙な重みがあった。まるで長い年月、それを見続けてきた者のようだった。


「だからお前を呼んだ。召喚の結果、お前が最も人口減少を食い止める可能性が高いと示されたのだ」


「俺が? 医者でも呼べばよかったんじゃないか?」


「知らぬ。召喚の結果だ」


 王は即答した。

 迅はため息を吐く。相変わらず無茶苦茶だ。だが、少なくとも今の話からは、国を救いたいという目的があることは分かった。


「まあよい。お前の力は認めよう。この国での居住を許可する。研究に必要な物資も可能な限り用意しよう。その代わり――」


 王の灰色の瞳が迅を捉えた。


「この国が滅んでゆくのを食い止めろ」


 奇妙な依頼だった。だが迅は、不思議と嫌ではなかった。

 妹を救えなかった。元の世界にも帰れない。だからといって、立ち止まる理由にはならない。


「分かった。その代わり、条件がある」


「ほう、言ってみよ」


「まず、研究棟への立ち入りは禁止だ。この世界に存在しない物が山ほどあるからな」


「いいだろう。見張りも付けよう。王都の民にも、建物へ近寄らぬよう命じておく」


「もう一つ。俺の研究方針に口を出すな」


「報告は必要だ」


「何か結果が出れば都度聞きにこい。詳細は伝えよう」


「……よかろう」


 王が笑った。


「面白い男だ」


「以上だ」


 迅は踵を返しかけたが、思い出したように振り返った。


「ああ、それと」


「何だ?」


「酒屋で売ってた安酒、あれは販売停止にしろ」


 王の眉が動いた。


「理由は?」


「毒が入ってる」


 王の間がざわついた。


「何だと?」


「メチルアルコールだ」


「メチルアルコール……?」


 王が眉をひそめた。聞いたことのない名前なのだろう。


「ああ。メタノールとも呼ばれる。酒に含まれるアルコール……つまり、酔う原因になる成分とは別物だ」


「別物?」


「そうだ」


 迅は近くに置かれていたワイングラスを手に取った。


「普通の酒に入っているのはエタノール。人間が酔う原因になる物質だ。飲みすぎれば当然身体に悪いが、一般に酒として飲まれているのはこっちだ」


 そこで迅は指を一本立てた。


「だが、メタノールは違う。最初は普通の酒とほとんど区別がつかない。匂いも似てるし、見た目も同じ。だから厄介なんだ」


 王の間が静まり返った。


「摂取した量によっては人体に深刻な障害を引き起こす。目が見えなくなることもあれば、脳に障害が残ることもある。最悪の場合、そのまま……死ぬ」


 セドリックの顔色が変わり、ガレスも険しい表情になった。


「そんなものが酒に混ざるのか?」


 王が低く呟いた。


「ああ。気になったんで、最後に確認のためメタノールだけをLCにかけた。問題のピークと位置が完全に一致したんだ。あの安酒にはメタノールが入っていると見て、間違いないだろう」


 迅が答えると、王は興味深そうに目を細めた。


「……報告の症例と一致します」


 セドリックが王にそう伝えると、すぐさま王はセドリックに命じた。


「調査しろ。飲酒との関連を確認するのだ。事実であれば即刻製造を停止させ、市場に出回っている在庫も全て回収しろ」


「はっ!」


 セドリックが慌ただしく走り去る。


 迅は少し驚いていた。命令に迷いがない。少なくとも、民を見捨てる王ではないらしい。


「じゃあな。俺は帰る」


 迅は軽く手を振った。


「研究することが山ほどあるんだ」


 王が笑う。


「期待しているぞ」


 迅は振り返らなかった。

 妹を救えなかった。王の都合で異世界へ連れてこられた。何一つ納得しているわけではない。

 それでも、この世界には問題がある。

 病気があり、毒があり、救えない命がある。そして、まだ誰も知らない化学がある。


 王宮を出た迅は青空を見上げた。

 この世界で何ができるかは分からない。人族の衰退を食い止められるかどうかも分からない。

 だが、一つだけ確かなことがある。

 昨日までの早川迅は、もう終わった。

 妹を救えなかった研究者として、立ち止まることはしない。


 ここから始まるのだ。


 異世界で、化学で、人を救う物語が。


 ――第一章 異世界の賢者 完

ご覧頂きありがとうございます。以上で第一章が完結です。

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