第2-3話 新たな出会い①
王との会合から数日。迅は大きな問題に直面していた。
一つは電力だ。
研究棟ごと転移したのは幸運だった。普段なら数十人の研究者が実験を行い、論文を書き、議論を交わす三階建ての研究棟。一階には実験室と有機系分析室、二階には研究デスクと会議室、三階には第二実験室と無機系分析室がある。
そこには大学が長い年月をかけて揃えた膨大な知識と設備が残されていた。試薬、分析機器、論文、研究データ。どれも異世界では代替不可能な財産だ。
幸い、迅一人で研究を続けるには使い切れないほどの試薬量がある。
しかし――。
「電気がないことにはなぁ……」
迅は分析室で頭を抱えた。
高速液体クロマトグラフィー、質量分析計、冷蔵庫に冷凍庫。どれも電力がなければ、ただの箱である。
転移直後から可能な限り節電を続けてきた。照明は最低限に抑え、使わない系統のブレーカーは落とした。装置の点検にも優先順位を付けて対応したが、それでも限界が近づいていた。
非常用電源の残量は、あと一日。長く見積もっても二日が限界だ。それが尽きれば、研究棟は死ぬ。
迅は窓の外へ目を向けた。遠くには白く巨大な王宮が見える。
「王に頼むしかないか……」
口にした瞬間、眉間に皺が寄った。
あの王。人族の衰退を憂う善王。少なくとも、表面上はそう見える。
メタノール混入の件でも迅の話を即座に受け入れ、流通停止を命じた。国民を守ろうとする姿勢に、偽りはないようにも思える。
だが、迅はどうしても好きになれなかった。
理屈ではない。研究者としての勘、あるいは人を見る目。そんな曖昧なものだったが、あの男はどこかおかしい。
国民を思っており、有能でもある。それなのに、まるで人間を演じているような違和感があった。人の皮を被った別の何か。そんな印象が拭えない。
「借りは作りたくないんだよな……」
異世界に来て、まだ数日。それなのに、研究棟の保護、物資の提供、金銭の援助と、すでにいくつか借りがある。毒入りワインを飲まされかけたとはいえ、これ以上増やしたくはなかった。
科学者に必要なのは独立性だ。スポンサーの顔色を窺う研究ほど、ろくなものはない。
その時だった。
ドンドンッ!
屋上の方から大きな音が響いた。
「おーい! 賢者さーん! 出てきてほしいっすー!」
若い女性の声だった。
ドンドンドンドン!
「お願いがあるっす! うーん、いないんすかねー」
さらに扉を叩く音が続き、迅は顔をしかめた。
「なんだ?」
王都の住民は研究棟への立ち入りを禁止されており、周囲には見張りの騎士まで配置されている。侵入者などいるはずがない。ましてや屋上だ。
「まさか飛んできたのか?」
そんな馬鹿な。
そう思いながら迅は階段を上がり、三階を抜けて屋上へ続く鉄扉の前に立った。
なおも扉の向こうから声が聞こえてくる。
「賢者さーん! いるなら返事してほしいっすー! わたし、足には自信あるんすけど、お腹も空いてるんすよー! だから早く出てきてほしいっすー!」
何を言っているんだ。
迅は呆れながら扉を開いた。
そして、その先にいた人物を見た瞬間、思考が止まった。
「――――は?」
そこにいたのは、一人の少女だった。
腰まで伸びた白銀の髪に、風を受けて揺れる大きな狐耳。陽光を受けて輝くふさふさの尻尾と、透き通るような白い肌。宝石のような金色の瞳に、長い手足としなやかに引き締まった身体。
迅は思わず二度見した。
異世界なのだから、獣人が存在すること自体は理解できる。理解できるが、目の前の少女は反則だった。
まるでアニメのキャラクターが、そのまま現実に飛び出してきたかのような美しさだ。
大学時代を思い返しても、これほど整った容姿の女性は見たことがない。モデル、俳優、アイドル。そのどれよりも美しい。
だが、その絶世の美貌を台無しにするように、少女は満面の笑みで話し始める。
「あっ! いたっす! 賢者さん発見っす!」
少女が両手をぶんぶん振る。
「白い着物、かっこいいっすね!」
そう言うなり駆け寄ってきて、迅の白衣の袖を興味深そうにつまんだ。
「へえ……こんな真っ白な着物、初めて見たっす!」
今度は襟元を覗き込み、裾をひらりと持ち上げる。
「すごいっす! いかにも賢者さんって感じっすね!」
その次の瞬間だった。
ぐぅぅぅぅぅぅ。
盛大に腹が鳴った。
少女は数秒ほど固まると、何事もなかったかのように真顔で言った。
「……まずはご飯を食べながら相談とか、駄目っすか?」
迅は思った。
美人だ。とんでもない美人だ。
だが、どうやら、考えるより先に身体が動くタイプらしい。




