第5話 異世界初の化学分析
迅が最初に選んだワインは、王から渡されたものではなかった。帰り道に酒屋で購入した、安物の赤ワインである。
木製の机の上に瓶を置き、迅はラベルを眺めた。
「まずはこいつを分析する」
ガレスが首を傾げる。
「王のワインではないのですか?」
「だからだよ。分析ってのは、比較対象が重要なんだ」
「比較対象?」
「こっちは普通に店で売られていたワインだ。少なくとも、毒殺用に用意された代物じゃない」
迅は瓶を軽く叩いた。
「つまり、安全なワインなのですね」
「たぶんな。世の中に絶対はないが、王のワインよりはよほど信用できる」
迅は苦笑しながら分析の準備を始めた。
まずは天秤の電源を入れる。液晶画面が光ると、ガレスが思わず身を引いた。
「おおっ!」
「いちいち驚くな」
「いや、光る板にはまだ慣れません」
迅は慣れた手つきでワインをガラス製ビーカーへ秤量し、さらにホールピペットを用いてアセトニトリルと水の混合溶媒を加えた。
「迅殿、それは何ですか?」
「……まあ、分からんよな」
「はい」
「LCで使う液体だ。ワインの中身を調べやすくするためのものだと思っとけ」
「なるほど」
ガレスは分かったような、分からないような顔をしていた。
続いてフィルターでろ過すると、透明な液体がゆっくりと専用容器へ落ちていく。ガレスはその一つ一つの作業を食い入るように見つめていた。
やがて迅は調製した試料をオートサンプラーへ並べ、装置のボタンを押した。
「よし」
装置が静かに動き始める。
「これで終わりですか?」
「ああ。試料を用意すれば、後は全自動だ」
「ずいぶん簡単なのですな」
「だが、得られる情報量は果てしないぞ」
迅は椅子へ腰掛けた。
ガレスには、その言葉の意味が分からなかった。しかし、迅の表情だけは真剣だった。研究者が大切な相棒を見る目だった。
それから三十分後、分析終了を知らせる電子音が鳴った。
迅がモニターへ向かうと、ガレスも後ろから覗き込んできた。
「これが結果ですか?」
「ああ」
画面には、いくつもの山が並んでいた。ガレスにはただの線にしか見えないだろう。だが、迅にとっては違う。
これは物質そのものだ。機械が語る事実だった。
「ふむ……」
迅は画面を眺めた。大きなピークだけでも十三本ある。
「ワインの成分を全部知ってるわけじゃないが、この辺がエタノール、酔う原因になる物質だな」
迅は画面の一角を指差した。
「酒の成分ですね」
「たぶんな。こっちはリンゴ酸で、その隣が乳酸。ポリフェノールも出てそうだな」
ガレスが感心したように唸った。
「線を見ただけで分かるのですか?」
「経験だ」
迅はそう答えたが、次の瞬間、わずかに眉が動いた。
「……ん?」
一番最初のピーク。エタノールより小さいが、どこか見覚えがある。
迅は画面へ顔を近づけた。
見たことがある。研究室でも、過去の分析データでも、何度も目にしてきたはずだ。
「このピークも、普通のワインに入っている物質なだけという可能性はあるにはあるが……」
「どうしました?」
「いや……今はいい」
迅は首を振った。まずは毒を探す方が先だ。違和感の正体など、後で考えればいい。
「おい、ガレス」
「はい」
「王のワインも続けて分析したい」
すると、ガレスが困った顔になった。
「ワインを迅殿へ渡すことは禁止されています」
「融通が利かないな」
「王命ですので」
迅は少し考え、ポケットから油性マーカーを取り出した。
「じゃあ、瓶の外側に一から十まで数字を書いてくれ」
「数字?」
「識別用だ。それから、中身を少量だけ俺に渡してくれればいい」
「少量とは、どの程度ですか?」
「一滴で十分だ」
ガレスが固まった。
「い、一滴でどうにかなるのですか?」
「なる」
ガレスは本気で驚いていた。魔法でも、たった一滴から何かを見抜くことは難しい。ましてや毒の有無など、想像もつかなかった。
「ただ、一滴だけお渡しする方が難しいですね」
「だろうな」
「分かりました。一口分にしましょう」
「それでいい」
ガレスはマーカーを受け取ると、今度はその筆記具に驚いた。
「おお……」
「どうした?」
「この筆は、インク壺が要らないのですか?」
「マジックだからな」
「まじっく?」
「名前だ」
異世界人の反応に、迅は少し笑った。
ガレスは感心しながら瓶へ数字を書き込んでいく。一、二、三と順番に番号を振り、十本目まで書き終えた。
その間に迅もビーカーを十個並べ、それぞれに対応する番号を書き込んでいく。
「絶対に数字と対応させろよ。間違えたら全部やり直しだからな」
「分かっています。それは私も困りますので」
やがて十本分の試料が揃った。
迅は先ほどと同じ手順で前処理を進める。秤量、希釈、ろ過、試料調製。一連の作業を終えると、調製した試料をオートサンプラーへ並べていった。
十本のワインが整然と装置へ収められる。
最後の試料をセットし終えた迅は、大きく伸びをした。
「よし」
「終わったのですか?」
「準備がな」
迅は時計を確認した。
「測定は一本三十分で、十本だから三百分。前後の処理も考えると、約六時間だな」
「六時間も?」
「機械は休まないが、人間は休む」
迅は欠伸をした。
「俺は飯を食って寝る。ガレスは好きにしてろ」
そう言って、王宮から支給された食事へ手を伸ばした。
パンに肉、スープ。思っていたよりも豪華な内容だった。
「迅殿は、結果が気にならないのですか?」
「気になる」
迅はパンを一口かじった。
「でも、機械が働いてる間に俺が見てても意味ないだろ」
「なるほど」
「研究者は待つのも仕事だ」
食事を終えると、迅はスマートフォンのタイマーをセットした。六時間後、分析終了予定時刻だ。
そして近くのソファへ倒れ込んだ。
「おやすみ」
数秒後には寝息が聞こえ始めた。
ガレスは目を丸くする。
王に脅され、異世界へ召喚され、毒入りワインを飲まされそうになっている男とは思えない。
だが、同時に理解した。
この男には自信があるのだ。あの銀色の機械に、そして自分自身の知識に。
ガレスは目線を移し、静かに動き続ける分析装置を見つめた。まるで未知の魔道具を見つめる子供のように。




