第3話 異世界と巨大な王宮
王の間を出て長い廊下を歩き、王宮の正門を抜けたところで、迅は思わず足を止めた。
「……でかっ」
振り返ると、先ほどまで自分がいた王宮の全貌が目に飛び込んできた。
灰白色の巨大な石壁の向こうには何本もの塔が並び、中央には空へ突き刺さるような尖塔を持つ本城がそびえている。城壁の上には武装した兵士たちが立ち、無数の旗が風にはためいていた。
テレビや映画で見た中世の城を、そのまま何倍にも巨大化させたような建物だった。
「ここに、さっきの王がいるのか……」
迅は小さく呟いた。
勝手に異世界へ召喚した挙句、毒入りワインまで飲ませようとしてくる男だ。しかも、自分だけでなく研究棟まで丸ごと連れてきた。あの人間離れした表情といい、どうにも好きになれそうにない。
迅はポケットからスマートフォンを取り出した。
バッテリー残量は七十二パーセント。通信は圏外で、当然ながらインターネットにも接続できなかった。
「……やっぱり駄目か」
「それは何なのです?」
隣を歩いていたガレスが、不思議そうに画面を覗き込んだ。
「スマートフォン。俺の世界じゃ、これ一台で遠くの人と話したり、情報を調べたりできたんだ」
「その小さな板で?」
「ああ。こっちじゃ、ただの時計になりそうだけどな」
迅は画面を消し、スマートフォンをポケットへ戻した。
王宮から続く大通りへ目を向けると、今度はその先に広がる街並みに圧倒された。
「……すごいな」
石造りの建物が立ち並び、その間を何台もの荷車が行き交っている。通り沿いには果物や布、肉などを売る店が軒を連ね、商人たちの威勢のいい声が飛び交っていた。
行き交うのは人族が多いが、犬や猫の耳を持つ獣人の姿もある。玉座の間ですでに見かけていたとはいえ、これほど多くの異世界らしい光景を一度に目にすると、さすがに現実感が追いつかなかった。
「……本当に異世界なんだな」
迅は周囲を見回しながら呟いたが、口にしてみても、まだどこか他人事のようだった。
その時、鼻をくすぐる香ばしい匂いが漂ってきた。
「いい匂いだな」
通り沿いにある小さな料理屋では、鉄串に刺された大きな肉が店先で回されていた。
牛とも豚とも違い、何の肉なのかは分からなかったが、焼けた脂の匂いだけは元の世界と変わらない。
迅が眺めていると、店主が肉の焼き具合を確かめ、薪へ向けて手をかざした。
次の瞬間。
ボウッ。
その掌から炎が噴き出した。
「……は?」
迅は思わず固まった。
炎は薪へ燃え移り、ぱちぱちと音を立て始める。しかし、周囲の客は誰一人として驚いていなかった。
「あれ……魔法か?」
「ええ。炎魔法ですな」
ガレスは何でもないことのように答えた。
「料理に魔法を使うのか?」
「炎を出せるなら、火起こしに使うのは当然では?」
「……まあ、そりゃそうなんだけど」
迅は思わず笑った。
王の光魔法に、獣人、巨大な王宮。これだけのものを見せられても、心のどこかでは手の込んだ冗談なのではないかと疑っていた。
だが、料理人が当たり前のように掌から炎を出し、周囲の誰一人として振り向きもしない。
魔法が特別な奇跡ではなく、日常生活の一部として使われている。その光景こそが、何よりも迅に異世界の現実を突きつけてきた。
「魔法って、みんな使えるのか?」
「多くはありません。使える者であっても、大半は生活を少し便利にできる程度です。先ほどのように火を起こしたり、水を出したりですな」
「なるほど……」
迅は再び料理屋へ目を向けた。
異世界。魔法の存在する世界。
ようやく、その言葉が現実味を帯びてきた。
◇
王宮を出てからしばらく経った頃、十本のワインを載せた荷車に同行していた迅は、思い出したように口を開いた。
「なあ、ガレス。少し寄り道していいか?」
「どちらへ?」
「酒屋」
ガレスが片眉を上げた。
「……明日の覚悟を決めるためですかな?」
「違う」
「九本が毒入りなのでしょう? 一杯くらい飲みたくなるお気持ちも――」
「だから違うって」
迅は呆れたように息を吐いた。
「毒の入ってない普通のワインも調べたいんだよ」
「普通のワインを?」
「ああ。比較するものがあった方が分かりやすい」
「……よく分かりませんが、必要なのですね」
「必要だ」
幸い、王から受け取った金もある。
ほどなくして二人が立ち寄った小さな酒屋には、大小様々な瓶や木樽が並び、店内には甘酸っぱい酒の匂いが充満していた。
「赤ワインを一本くれ」
「どちらになさいます?」
「一番安いので」
店主が怪訝そうな顔をした。
「一番安いものですか? 味はあまり保証できませんが……」
「大丈夫。飲むわけじゃないから」
「……はあ」
店主はますます不思議そうな顔になったが、迅は気にせず、最も安価な赤ワインを一本購入した。
店を出ると、ガレスがその瓶を見つめた。
「本当に飲まないのですな」
「だから分析に使うんだって」
「ぶんせき……」
「見れば分かるよ」
迅は少しだけ笑った。
ようやく、自分の領域に戻れる。
◇
王都の裏手へ回り、城壁から離れていくと、建物が途切れた先に広い草原が見えてきた。
そして、その中央に――。
「……あった」
三階建ての白い建物が、ぽつんと立っていた。
見慣れた研究棟だった。
巨大な王宮や石造りの街を見た後では、そこだけ元の世界から切り取って貼り付けたように見える。周囲には数人の兵士が配置されており、セドリックの言っていた通り、研究棟も無事に転移してきたらしい。
「よかった……」
迅は思わず息を吐いた。
異世界へ来てから初めて、心の底から安心できた気がした。
「これが迅殿のおられた建物ですか」
「ああ。俺の研究棟だ」
迅は入口の扉を開け、中へ足を踏み入れた。
白い廊下に磨かれた床、その先にある実験室と分析室。見慣れた光景が、そっくりそのまま残っていた。
迅はゆっくりと廊下を進みながら、機器や薬品に異常がないか確認していく。少なくとも、見て回った範囲では大きな破損はなさそうだった。
後に続いて研究棟へ足を踏み入れたガレスも、思わず目を丸くした。
「……これは、何とも奇妙な建物ですな」
「俺からすれば、王宮の方がよっぽど奇妙だけどな」
迅は笑いながら奥へ進んだ。
薬品棚にドラフトチャンバー、冷蔵庫、ガスボンベ。どれも元の位置にあり、設備も大きく壊れた様子はない。
そして何より、廊下には非常灯が点灯していた。
「電気もまだ生きてるな」
「でんき?」
「こっちの話」
迅は電気設備の状態を確認すると、不要な設備へつながるブレーカーを次々と落としていった。それに伴い照明が消え、研究棟の内部が薄暗くなる。
建物そのものは異世界へ転移してきたが、元の世界の送電網まで一緒についてきたわけではない。
つまり、使える電力には限りがある。
これから研究を続けるためにも、無駄遣いはできなかった。
「迅殿」
「ん?」
振り返ると、ガレスが掌に小さな炎を浮かべていた。
「暗いのであれば、私の炎魔法で――」
「消せ!」
「うおっ!?」
突然怒鳴られ、ガレスが慌てて炎を消した。
「ここで勝手に火を出すな!」
「そ、そこまで怒らなくても……」
「可燃性の薬品が山ほどあるんだよ! 下手すりゃ建物ごと吹っ飛ぶぞ!」
「……それは先に言ってくだされ」
「普通、室内でいきなり火を出すとは思わないだろ!」
異世界の常識は危険すぎる。
迅は呆れながら額を押さえた。
「いいか。俺がいいと言うまで、そこに座っててくれ」
「……承知しました」
ガレスは大人しく椅子へ腰を下ろした。
その近くには王宮から運んできた十本のワインが並び、さらに迅が街で購入した一本の安ワインも置かれている。
ガレスはそれらを見比べながら、心配そうに口を開いた。
「それで迅殿。本当に、明日までに安全な一本を見つけられるのですか?」
「ああ」
「毒を口にすることなく?」
「当然だろ」
迅は白衣を羽織った。
王宮にいた時とは違う。
ここからは、自分の領域だ。
「どうやって?」
迅は分析室の奥へ進み、一台の装置の前で立ち止まると、その銀色の筐体を軽く叩いた。
「こいつを使う」
「その箱が、毒を見つけるのですか?」
「ああ」
迅は口元を吊り上げた。
「高速液体クロマトグラフィー、通称HPLC(High-performance liquid chromatography)だ」
異世界の騎士には、当然その意味など分からない。
だが迅にとっては、最も使い慣れた相棒だった。




