第2話 転移した先で(画像あり)
上下の感覚が消え、身体を宙に放り出されたような感覚に襲われた。
「うおっ!?」
思わず声が漏れた。
足元も床も感じられず、まるで重力そのものが消えてしまったかのようだった。胃が持ち上がり、遊園地のフリーフォールを何十倍にもしたような浮遊感に襲われる。それでいて落下している感覚とも違い、身体が前後左右、あらゆる方向へ引っ張られていた。
視界は真っ白で、何も見えず、何も聞こえない。音すら存在せず、世界そのものが消滅してしまったかのようだった。
「なんだよ……これ!」
叫んでも返事はなく、心臓だけが激しく脈打っていた。
だが、恐怖を感じながらも、頭のどこかは冷静だった。
未知の現象であり、原因も再現性も不明。まともな観測すらできないというのは、研究者として最悪の状況だった。
「くそっ……」
データが欲しい。せめて、今何が起きているのかを知りたかった。
その瞬間、急激に浮遊感が消えた。
ドンッ。
足裏に硬い感触が戻り、身体が大きく揺れた。
「っと!」
迅は石造りの床へ片手をつき、なんとか転倒を防いだ。
荒い呼吸を整えようとするものの、心臓の鼓動はまだ耳の奥で激しく響いている。
「…………」
ゆっくりと顔を上げた迅は、そこで言葉を失った。
研究室ではない。ましてや、大学でもなかった。
高い天井に巨大な石柱。赤い絨毯が奥まで延び、その先には数段高くなった場所と豪華な玉座がある。
そして何より、迅を取り囲んでいたのは、全身を金属製の鎧で覆った男たちだった。
十人どころではない。その全員が腰に剣を下げ、警戒するように迅を見つめている。
「……なんだ、ここ」
映画の撮影か、それともテーマパークか。一瞬そんな可能性も考えたが、騎士たちの後方に立つ者を見て、その考えはすぐに消えた。
人間と同じ姿をしているにもかかわらず、頭には明らかに人間のものではない獣の耳が生えている。別の男に至っては、腰の辺りから太い尻尾まで伸びていた。
どちらも作り物には見えず、耳は周囲の音に反応して動き、尻尾も自然に揺れている。
「……獣人?」
迅が思わず呟いた、その時だった。
一人の大柄な男が前へ進み出た。
「我々はアストレア王国第一騎士団である」
迅は眉をひそめた。聞いたことのない国名だった。
「私は第一騎士団長、ガレス」
その名乗りと同時に、周囲の騎士たちが一斉に姿勢を正した。どうやら相当な地位にある人物らしい。
そして、次の言葉が迅をさらに混乱させた。
「早川迅殿」
「……なんで俺の名前を知ってる?」
問いかける迅に、ガレスは静かに告げた。
「貴殿は、我らが王の光魔法によってこの世界へ召喚された」
「……魔法?」
迅は改めて周囲へ視線を巡らせた。
中世の城を思わせる空間に、剣を帯びた騎士たち。獣の耳や尻尾を持つ者まで存在し、そのうえ目の前の男は当然のように魔法という言葉を口にしている。
「……待て」
迅は額に手を当てた。
「冗談だろ……」
だが、目の前の光景は冗談で片付けるにはあまりにも現実的だった。
「まさか、本当に……異世界?」
自分で口にしておきながら、頭がその言葉を拒絶する。
しかし、その瞬間、迅はあることに気づいた。
「研究棟は!?」
召喚される直前まで自分がいた三階建ての研究棟。そこには実験機器や試薬、研究資料があり、何よりハスミゴケが残されている。
「俺がいた研究棟はどこだ!?」
迅が声を荒らげると、ガレスのほど近くにいた文官らしき中年の男が口を開いた。
「ご安心ください。貴殿がおられた建物も、同時に召喚されております」
男は迅へ向き直り、軽く会釈した。
「申し遅れました。私は政務を担当している、セドリックと申します」
「……それで、研究棟はどこにあるんだ?」
「建物ほどの大きさを、この王宮内へ出現させるわけにはまいりませんのでな。研究棟は王都の裏手に広がる草原へ転移しております」
「……研究棟ごと?」
「ええ。現在は兵を配置し、警備させております」
迅は数秒間、何も言えなかった。
人間一人だけではない。三階建ての研究施設そのものを、別の世界へ移動させたというのか。
もはや、理解の範疇を完全に超えている。
「本当に異世界なのか……」
迅が小さく呟いた、その時だった。
「お前が迅か」
玉座の方から声が響いた。
迅が顔を上げると、そこには一人の男が座っていた。
見た目は四十代ほどだろうか。白髪に色素の薄い肌、そして氷のような灰色の瞳を持つ男だった。
王冠を被っているにもかかわらず、威厳よりも異質さが先に立つ。
迅は思わず眉をひそめた。
何かがおかしい。理由は分からないが、本能が警鐘を鳴らしている。まるで、人間を真似ている別の生き物を見ているような不気味な感覚だった。
王は玉座にもたれたまま迅を見下ろしており、その視線には好意どころか興味すら感じられない。まるで、何かの道具でも眺めているかのようだった。
「私が命じ、お前を召喚した。突然のことだろうが、受け入れろ」
「ふざけるな! 俺はやらなければならないことがあるんだ!」
愛と同じ病気で苦しむ人々のことが脳裏をよぎり、迅は思わず声を荒らげた。
玉座の間が静まり返る。近衛騎士たちにも動揺が広がったが、王だけは表情一つ変えなかった。
「お前には、この世界で成し遂げてもらいたいことがあるのだ」
「勝手に連れてきておいて、いきなり受け入れろ? 成し遂げてほしいことがある? 無茶苦茶だろ。早く元の世界に返せ!」
「それはできない。異世界の賢者――お前の召喚に、どれだけの対価を支払ったと思っている」
「そんなの知るか。俺は頼んでない!」
再び玉座の間の空気が凍りつき、誰もが王の機嫌を窺っていた。
しかし、王は怒らなかった。
それどころか、どこか退屈そうに迅を眺めている。
「ふむ。こんな者が、本当に異世界の賢者と呼ばれるものなのか」
「初対面の相手に、ずいぶんな言いようだな」
迅が睨み返しても、王は表情を変えなかった。
「もうよい。セドリック、あとは頼んだ」
そう告げると、王は興味を失ったかのように視線を逸らした。
「言ってくれるじゃねえか……」
迅が小さく吐き捨てると、それまで王の傍らに控えていたセドリックが一歩前へ出た。
「承知しました、アストレア陛下。
早川迅殿。我々は召喚が成功した暁には、異世界の賢者と呼ばれるあなたに、その力を示していただきたいと考えておりました」
「力?」
「つい先日、我らが王を毒殺しようとする不届き者がおりました」
「……毒殺?」
迅は首を傾げた。
違和感がある。
目の前の玉座に座る男は、この国の頂点に立つ王だ。当然、警備も厳重なはずであり、そのような人物が毒殺未遂に遭ったのなら、普通は犯人探しで大騒ぎになっていてもおかしくない。
それなのに、本人はもちろん、側近の文官まで平然としている。
「手段は、王に出すワインへ毒を仕込むという単純なものでした。おい、ワインを持ってこい」
セドリックが命じると、従者が銀の盆を運んできた。
その上には十本の瓶が並び、どれにも赤ワインが入っている。迅の目の前の机に置かれ、瓶の一部がグラスに注がれる。見た目からは、どのワインにも違いは見受けられなかった。
「この中から一つ選び、賢者殿には飲み干していただきたい」
「……は?」
迅は思わず王へ視線を向けた。
「十本のうち九本には、王に出されたものと同じ毒が入っています」
「なんで俺がそんなことを!?」
迅が声を荒らげた瞬間、ガレスを含む騎士たちが一斉に剣へ手を掛けた。
金属の擦れる音が響き、玉座の間に緊張が走る。
「嫌とは言わせぬ」
それまで黙っていた王が、当然のことのように告げた。
迅は舌打ちした。
状況は最悪だ。十本のうち九本が毒入りだというのなら、適当に一本を選んで飲むなど自殺行為に等しい。
だが、だからこそ気になることがあった。
なぜ、王はここまで余裕なのか。
本当に毒を盛られたのなら、普通はこんな態度ではいられないはずだ。まるで、自分が死なないことを知っているかのようだった。そんな馬鹿げた考えが脳裏をよぎり、迅は小さく頭を振る。
あり得ない。
……いや、魔法で異世界へ召喚された直後に、何をもってあり得ないと判断すればいいのだろう。
「……そんなものは、調べれば分かる」
迅が呟くと、王が片眉を上げた。
「ほう?」
「ああ。実行は明日だ。そのワインを全部もらっていく。明日、この中からどれを飲むか決めさせてもらう」
「明日であれば、確実に正解が分かると?」
「そうだ」
王は初めて笑った。
ただし、それは冷たい笑みだった。
「面白い。やってみよ」
そして、ガレスへ視線を向ける。
「見張りはつけさせてもらう。ガレス」
「はっ」
「ワインを捨てようとする以外の行動は、ある程度認めてやれ」
「承知しました」
王はさらに続けた。
「この者に、明日までの食事と飲み物を与えよ」
「あと一つ」
迅が手を挙げた。
「何だ」
「少し金をくれ」
玉座の間が静まり返った。
ガレスが目を見開き、近衛騎士たちまで揃って固まっている。
王は数秒ほど沈黙した後、不意に笑い声を漏らした。
「くくく……」
それは、先ほどの冷たい笑みとは違う、初めて見せた人間らしい反応だった。
「いいだろう」
迅は頷いた。
正直、この世界にどのような金が流通しているのかすら分からない。だが、明日の実験には必要になるはずだった。
王はすっかり興味を失ったかのように手を振った。
「下がれ」
それで謁見は終わった。
迅は立ち去る直前、もう一度だけ玉座の王へ目を向けた。
やはり、違和感がある。
人間の姿をしているにもかかわらず、どこか人間らしくない。他人を道具のように扱い、当然のように見下している。
まるで、自分を神とでも思っているかのようだった。
迅は王への強い不快感を抱いたまま、玉座の間を後にした。




