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第1話 プロローグ 救えなかった命と化学者

  二十三歳の大学院生、早川迅。その名前は、その日、日本中のメディアを席巻していた。スマートフォンのニュースアプリには、彼の偉業を讃える見出しが次々と並んでいる。

 ――筋ジストロフィー治療薬の前駆体合成に成功。

 ――若き研究者、世界的科学誌『ネムチャー』掲載。

 ――難病治療の歴史を変える可能性。

 研究棟の廊下では、見知らぬ学生たちまでもが彼の名前を口にしていた。


「すごいよな。まだ大学院生だろ?」

「教授より有名なんじゃないか?」

「ノーベル賞候補なんて記事まで出てるぞ」


 誰もが興奮し、誰もがその成果を祝福していた。だが、その当人である迅だけは、大学病院の一室で俯いていた。

 ベッドの上では、一人の少女が静かに眠っている。妹の愛だった。窓の外では夕暮れが赤く滲み、機械が一定のリズムで電子音を鳴らしている。その音だけが、病室の静寂を埋めていた。

 迅はスマートフォンのニュース記事を閉じた。革新的。歴史的発見。未来のノーベル賞候補。称賛の言葉ばかりが並んでいるが、迅にとってはどれも違っていた。そんな言葉を見るたび、胸の奥に苛立ちが募る。

 世界は何も分かっていない。この研究は失敗だ。少なくとも、自分にとっては。


「お兄ちゃん」


 愛がゆっくりと目を開いた。


「なんだ?」

「論文、載ったんだってね」


 愛はベッド脇のタブレットを指差した。画面には『ネムチャー』の記事が映っている。

 掲載された論文タイトルと著者名。その中には、確かに自分の名前があった。世界中の研究者が憧れる舞台だ。だが迅は、嬉しそうな顔をするどころか眉をひそめた。


「まだだ」

「え?」

「全然まだだよ」


 迅は立ち上がった。考え事をすると身体が動くのは、昔からの癖だった。病室を行ったり来たりしながら、頭の中で反応式を組み立てる。


「確かに前駆体はできた。マウス実験でも結果は出たし、筋力低下は有意に抑制された」

「うん」


 そこまでは事実だった。論文にもそう書いたし、データも揃っている。再現性も確認したからこそ、『ネムチャー』に掲載された。だが、それでも足りない。


「でも、進行を遅らせるだけだ。俺が欲しいのは、そんな薬じゃない」

「お兄ちゃん……」

「五年延命する薬でも、十年延命する薬でもない。俺が作りたいのは――治す薬だ」


 声が大きくなり、病室に沈黙が落ちた。

 迅は壁を睨む。頭の中には、何百回と書き直してきた反応スキームが浮かんでいた。ハスミゴケ由来化合物をアセチル化し得られた粗体を精製。構造解析、動物実験、全て成功した。それでも、届かなかった。


「この前駆体は筋細胞表面の異常タンパク質に結合する。受容体親和性も悪くないし、薬効も確認できた。でも、それだけじゃ足りない」


 迅は首を振った。


「この前駆体を二量化できれば、可能性がある」

「二量化?」

「ああ。二分子を安定して縮合させられれば、受容体への結合能が上がる。薬効も跳ね上がるはずだし、理論上は完治だって見えてくる」


 そこで迅は唇を噛んだ。


「……あくまで、理論上はだけどな」


 愛は何も言わず、兄の話を聞いていた。

 迅は知っている。科学は願いでは動かない。必要なのは根拠とデータ、そして再現性。それだけが真実だ。だからこそ苦しかった。

 理論はある。可能性もある。だが完成していない。本当にあと一歩のところまで来ているのに、その一歩がどうしても届かなかった。


「お兄ちゃんらしいね」


 愛が小さく笑った。


「何がだよ」

「みんな成功だって言ってるのに、お兄ちゃんだけ失敗したみたいな顔してる」

「当たり前だろ。お前が治ってないんだから」


 愛の目が、少しだけ見開かれた。


「それだけで失敗だ」


 迅は俯いた。


「世界中が成功だって言ってる。教授も喜んでるし、学会も騒いでる。記者だって勝手に持ち上げてる。でも、俺には関係ない」


 迅は愛を見る。


「お前が苦しんでるなら失敗だ。歩けないなら失敗だ。お前が治ってないなら、全部失敗なんだよ」


 愛は少し困ったように笑った。


「ありがとう」

「だから、礼なんか言うなって」

「だって、本当だもん」


 窓から差し込む夕日が、病室を赤く染めていた。


「お兄ちゃん、昔は化学なんて好きじゃなかったのにね」


 迅は苦笑した。事実だった。高校時代はサッカーばかりしていて、研究者になるつもりなどなかった。


「私の病気を知ってからだよね。勉強を始めたの」

「……ああ」

「頑張ったよね」


 迅は答えなかった。

 頑張った。その一言では足りない。遊びも恋愛も、友人と過ごす時間も捨てた。それでも、届かなかった。


「でもね、私、幸せだったよ」


 迅の表情が固まった。


「やめろ」

「お兄ちゃんがいたから」

「やめろって」

「ずっと頑張ってくれたから」


 迅は勢いよく立ち上がった。椅子が大きな音を立てる。


「そんな話するな! まだ終わってない!」


 拳を強く握る。


「絶対に完成させる! あと少しなんだ。本当にあと少しなんだよ!」


 研究者としては最低の言葉だった。根拠はない。データもない。ただの希望的観測だ。それでも、諦められるはずがなかった。

 あと一歩。本当にあと一歩で届く気がしていた。


「だから待ってろ。絶対に治す」


 震える声でそう言うと、愛は泣きそうな顔で笑った。


「うん」


 返事はそれだけだった。けれど、迅には分かっていた。愛は信じているのではなく、自分を安心させようとしているのだ。いつだってそうだった。励まされているのは、自分の方だった。


「だから――」


 その時だった。

 ピッ――。

 心電図の音が乱れ、迅の身体が硬直した。見慣れた音だった。だが、聞き慣れることなど一度もなかった。


「愛?」


 返事がない。モニターの数値が急激に変化していく。嫌な予感が全身を駆け抜けた。


「おい、愛!」


 迅はベッドへ駆け寄った。呼吸が浅く、顔色も悪い。愛の瞳が、ゆっくりと閉じようとしていた。


「おい!」


 迅はナースコールを叩いた。


「先生!」


 病室のドアが勢いよく開き、看護師が飛び込んできた。続いて、医師たちも駆け込んでくる。


「家族の方は下がってください!」

「嫌だ! まだだ! 俺は研究者だ、何かできる!」

「下がってください!」


 看護師に肩を掴まれ、迅は歯を食いしばった。自分でも分かっている。薬学の研究者であって、医師ではない。ここで自分にできることなどない。それでも、何もしないまま見ていろというのか。


「愛!」


 名前を呼んでも返事はない。代わりに、医師たちの声だけが飛び交った。


「血圧低下!」

「酸素飽和度、下がっています!」

「アドレナリン!」


 迅は拳を握り締めた。爪が掌に食い込んでいるはずなのに、痛みなど感じない。ただ祈った。

 研究者らしくないと分かっていても、神頼みなど意味がないと知っていても、祈らずにはいられなかった。

 助かってくれ。あと少しなんだ。本当にあと少しなんだ。だから――。

 数十分後。

 病室には、静寂だけが残っていた。機械音も、もう止まっている。医師が深く頭を下げた。


「お兄さん」


 その一言だけで、迅は理解してしまった。理解したくなどなかったのに。


「残念ですが……」


 それ以上の言葉は、耳に入らなかった。

 世界が遠ざかり、音が消えていく。視界が白く霞んだ。愛の手は冷たかった。ほんの少し前まで、温かかったはずなのに。


「……違う」


 迅は呟いた。当然、返事はない。


「違うだろ。こんなの、違うだろ……」


 冷たくなった愛の手を握る。


「あと少しだったんだぞ。もう少しだったんだ……」


 震える声と一緒に、涙が落ちた。


「俺は諦めてない。まだ反応条件だって試せてない。触媒だって候補があるし、保護基だって変えられる。溶媒さえ、溶媒さえ見つかれば――」


 そこで言葉が途切れた。

 研究者として最低だった。死者は戻らない。そんなことは分かっている。分かっているのに、感情がそれを認めなかった。


「何で待ってくれなかったんだよ……」


 ぽつりと言葉が零れる。

 愛が悪いわけではない。そんなことは分かっている。悪いのは自分だ。完成させられなかった自分。間に合わなかった自分。何もできなかった自分。

 世界中が迅を称賛している。天才だと言い、偉業だと持ち上げている。だが迅にとっては、失敗だった。最も救いたかった一人を、救えなかったのだから。



 愛の葬儀が終わった後も、迅は研究をやめなかった。いや、やめられなかった。やめてしまえば、本当に全てが終わってしまう気がした。

 研究室へ通い続け、朝から夜まで実験を繰り返した。失敗しても、また失敗しても、それでも続けた。論文を書き、学会へ出て、新しい共同研究も始まった。

 周囲は口を揃えて、迅を若き天才、未来のノーベル賞候補、難病治療の希望と呼んだ。だが迅自身は、そんな評価を一度も受け入れられなかった。

 愛を救えなかった。その事実だけが、胸の中に残り続けていた。


 季節は巡った。春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎた。

 そして、愛が亡くなってから一年。

 深夜の研究室には、迅だけが残っていた。蛍光灯が白く実験台を照らしている。無数の論文、反応スキーム、分析結果、使い込まれたノート。この一年の執念が、そこには積み上がっていた。

 迅は実験台の前に立った。そこには一本のフラスコがあり、薄い緑色の液体が静かに揺れている。

 一年前とは違う、より薬理活性を高めた改良型前駆体。何百回もの試行錯誤の末に辿り着いた新しい化合物だ。それでも、最後の反応だけはどうしてもうまくいかなかった。

 迅はフラスコを手に取る。液体越しに、研究室の光が歪んで見えた。


「進行を抑えるだけじゃ駄目なんだ。俺が欲しかったのは」


 妹を救う――


「完治できる薬なんだ」


 誰もいない研究室で呟いても、返事はない。もう一年も聞いていない声だった。

 それでも迅は前を向く。

 愛はいない。その事実は変わらない。何度研究成果を積み上げても、どれだけ評価されても、戻ってくることはない。

 それでも研究を続ける。


 同じ病気で苦しむ明日を生きたいと思う誰かのために。

 そして何より、あと一歩というところまで来ている研究を自分自身が諦めたくなかった。


「見てろよ。絶対に完成させる」


 迅はフラスコを見つめた。


「何年かかっても、何千回失敗しても、絶対にだ」


 研究者に必要なのは、才能だけではない。執念だ。

 迅はそう信じていた。愛がいなくなった今でも、その考えだけは変わらない。

 その瞬間だった。

 研究室の空気が震えた。


「……?」


 足元に白い光が広がっている。最初は蛍光灯の反射かと思った。だが、違う。

 光は床から溢れ出し、まるで巨大な図形が研究室全体に描かれているようだった。


「なんだ、これ……?」


 迅は眉をひそめた。見たことがない。説明もつかない。それでも、目を逸らさなかった。

 未知の現象から目を背ける研究者はいない。

 光はさらに強くなる。机も、分析機器も、ドラフトチャンバーも、壁も天井も、全てが白く染まっていく。


「ふざけるな……」


 迅は思わず笑った。この一年、人生は研究だけだった。それなのに、今度は何だというのか。


「来いよ。正体くらい見てやる」


 誰に言うでもなく呟いた。

 次の瞬間、白い光が爆発するように膨れ上がった。

 そして――。

 世界は、白に呑み込まれた。

第1話ご覧頂きありがとうございます。

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