第2-11話 獣人族の村
空が白み始めていた。
地平線の向こうは黒から藍へ、藍から薄紫へと色を変え、少しずつ朝の色に染まっていく。
夜が明ける。
研究棟を出発してから、二人はほとんど休むことなく走り続けてきた。
「ぜぇ……ぜぇ……」
荒い呼吸が聞こえる。
「リコ、大丈夫か?」
「だ……大丈夫……っす……」
どう見ても大丈夫ではなかった。
迅を背負ったまま、夜通し走り続けてきたのだ。途中、迅は何度も休もうと言った。少しくらい止まってもいい、魔力を回復させろとも伝えた。
だが、リコは一度も足を止めなかった。
「来る時の……三倍くらい……疲れたっす……」
「そりゃ、俺を背負ってたからな」
「迅……意外と……重いっす……」
「悪かったな」
迅はリコの背中から降りた。さすがに最後まで背負わせるわけにはいかない。
リコは膝に手をつき、肩で大きく息をしていた。白銀の髪は汗で頬に張りつき、大きな狐耳も力なく垂れている。
それでも、彼女はここまで走ってきた。
村を追い出されたと言っていた。嘘つきと呼ばれ、川の異変を訴えても信じてもらえなかった。
それなのに、リコは一度も止まらなかった。
自分を追い出した村の人間を救うために。
「……よくやった」
「へ?」
リコが顔を上げる。
迅は彼女の頭へ手を置き、大きな狐耳の間にある白銀の髪を軽く撫でた。
「ここからは俺に任せろ」
「……はいっす」
リコは弱々しく、それでも嬉しそうに笑った。
二人が村へ入った頃、朝日はまだ地平線から顔を覗かせたばかりだった。
それでも村では、すでに一日の営みが始まっている。家畜へ餌を与える者、畑へ向かう者、水桶を持って歩く者。
その最後の一人を見た瞬間、迅の背筋が凍った。
水桶。
「おい! その水、川から汲んだのか!?」
「え?」
獣人の男が驚いて振り返った。
その声を聞きつけたのか、近くにいた年老いた獣人がこちらへ歩いてくる。
途端に、リコの表情が強張った。
「リコじゃないか」
村長だった。
「出ていったと思えば……どうしたんだい。そんなに疲れた様子で」
「村長……」
リコは息を整えながら、一歩前へ出た。
「け、賢者さんを……連れてきたっす……」
「賢者?」
「やっぱり……あの川の水は……」
そこまでだった。
ぐらり。
リコの身体が傾く。
「おい!」
迅が慌てて抱き止めた。
「リコ!」
「…………」
返事がない。
一瞬焦ったが――。
「すぅ……すぅ……」
「寝てんのかよ!」
限界まで走り続け、緊張の糸が切れたらしい。迅の腕の中で、リコは完全に眠っていた。
「まったく……」
迅は苦笑した。
そして村長へ向き直ると、その表情から笑みが消えた。
「リコの言った通りだ」
「……何?」
「こいつは嘘なんかついてない」
周囲にいた村人たちが振り返る。
迅ははっきりと言った。
「川から汲んできた水を調べた」
一拍置く。
「毒が入っている」
ざわり、と空気が変わった。
「毒……?」
「なんの話だ?」
「あの川に?」
「そんな馬鹿な……」
村人たちの間に動揺が広がっていく。
正確には、鉛による汚染が疑われるという話だ。だが、今は化学講義をしている場合ではない。危険性を理解してもらうことが最優先だった。
「村の中で、腹痛や頭痛、吐き気を訴えてる奴はいないか!」
迅の声が村中に響いた。
騒ぎを聞きつけ、家々から次々と人が出てくる。
そこで迅は気づいた。
犬のような耳、猫のような耳、長い尻尾に短い尻尾。姿形は様々だが、全員が獣人だった。
「そういえば……」
一人の女性が不安そうに口を開いた。
「うちの子が、今朝からお腹が痛いって……」
「うちもだよ。夜中に吐いたんだ。変なものでも食べたのかと思ってたけど……」
別の母親も続いた。
「うちの子も、頭が痛いって……」
迅の顔色が変わった。
子供。やはり、まずそこに出た。
「その子たちは川の水を飲んだか!?」
「あ、ああ」
「いつも飲んでるよ。料理にも使ってる」
「案内してくれ!」
「え?」
「早く!」
迅の剣幕に、女性が肩を震わせた。
「わ、分かった!」
案内された家へ向かう途中、迅はふと足を止めて振り返った。
そこには不安そうな顔をした村人たちと、先ほどの水桶を持った男がいた。
「いいか!」
迅は村中に聞こえるよう、声を張り上げた。
「今から川の水を飲むな!」
村人たちが静まり返る。
「料理にも使うな! 子供には絶対に飲ませるな! 家に汲み置きしてある水もだ!」
「でも、水がなければ――」
「代わりの水は後で考える!」
迅は言い切った。
「今は口に入れないことが最優先だ!」
それだけ告げると、案内された家へ飛び込んだ。
簡素な寝台には、小さな獣人の子供が横たわっていた。
「うぅ……」
腹を押さえ、額には汗が浮かんでいる。傍らでは母親が不安そうに寄り添っていた。
「今朝からずっとこうなんです……」
「吐いたのは?」
「二度……」
「頭は?」
「痛いって……」
迅は子供の様子を確認した。
腹痛、嘔吐、頭痛。これだけなら他の病気も十分に考えられる。症状だけで鉛中毒と断定することはできない。
だが、村人は日常的に川の水を飲んでいる。そして、リコが持ってきた川の水から検出された鉛は、30mg/L。
偶然で片付けるには、あまりにも異常な濃度だった。
「鉛中毒の可能性が高い……」
「なまり……?」
「川の水に入っていた毒の正体だ」
迅は荷物へ手を伸ばした。
そこには研究棟から持ってきた試薬が入っている。
カルシウム二ナトリウムEDTA。
鉛と結合し、体外への排出を助けるために利用されるキレート剤だ。
ただし――これは医薬品ではない。
研究用試薬だった。
迅の手が止まる。
本当に使うのか。医者でもない自分が、医薬品として製造されたわけでもない試薬を、目の前の子供に。
「…………」
愛の顔が浮かんだ。
何度も見た病室。細くなっていく腕と、少しずつ動かなくなっていく身体。
そして、間に合わなかった薬。
迅は奥歯を噛んだ。
ここには病院がない。救急車もなければ、医薬品を注文することもできない。
何もしなければいい。そうすれば、少なくとも自分が治療に失敗することはない。
だが、そんな理由で目の前の子供を見捨てられるのか。
「……できるわけないだろ」
「え?」
「何でもない」
迅は顔を上げた。
「村に治療のできる人間はいるか?」
「薬師なら……!」
「呼んでくれ。今すぐだ」
「は、はい!」
母親が飛び出していく。
迅は持ってきた資料と試薬を取り出した。
できる限り子供の状態を確認し、この世界の薬師にも協力を求める。自分一人の判断だけで突っ走るつもりはなかった。
それでも、必要だと判断したときは――。
研究用だろうが何だろうが、今あるものを使う。
「絶対に死なせない」
迅は小さく呟いた。
◇
それから迅は、休む暇もなく村を駆け回った。
「次!」
「こっちです!」
案内された別の家へ飛び込む。
「いつから腹が痛い?」
「昨日の夜からです!」
「吐いたか?」
「一度だけ!」
「川の水は?」
「毎日飲んでます!」
確認を終えると、すぐさま次の家へ向かう。
「頭が痛いって言い始めたのは?」
「今朝です!」
「次!」
「こっちにも子供が!」
次から次へと家を回り、症状のある者を確認していく。
川の水をどれほど利用していたのか聞き取り、重い症状を示す者を優先する。持ち込んだ資料を何度も確認しながら薬師と相談し、必要と判断した者には、カルシウム二ナトリウムEDTAを用いた緊急の処置を行っていった。
もちろん、研究用試薬だ。安全だとは言えない。
だからこそ、使わずに済む者には使わない。症状を確認し、経過を見守り、少しでも異常があれば中止する。
迅にできる限りの慎重さで、一人ずつ向き合っていった。
気づけば、太陽は高く昇っていた。
「……これで、最後か」
処方により村の子供たちの様態が安定しはじめたことを確認し、迅は最後に治療を施した子供の家から出た。
朝から何も食べておらず、ほとんど水も飲んでいない。身体は鉄のように重かった。
それでも、ひとまず症状を訴えていた村人全員を確認することができた。
迅は大きく息を吐いた。
「終わった……」
「迅!」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、そこには――。
「おはようっす!」
完全復活したリコが立っていた。
「…………」
白銀の尻尾をぶんぶんと振っている。
「めっちゃ寝たっす!」
「お前なぁ……」
迅は呆れた。
だが、その顔を見た瞬間、肩から少しだけ力が抜けた。
リコは周囲を見渡すと、不安そうに尋ねた。
「みんな……大丈夫っすか?」
「まだ分からない」
迅は正直に答えた。
「だが、できることはやった」
「そうっすか……」
リコが胸を撫で下ろした。
迅はそんな彼女を見つめた。
村人たちはリコを嘘つきと呼び、川の異変を訴えた彼女を信じなかった。そして最後には、村から追い出した。
それなのに、リコは夜通し走り続けた。
迅を背負って、一度も足を止めずに。
自分を追い出した村を救うために。
「リコ」
「なんすか?」
「お前がこの村を救ったんだぞ」
「……へ?」
「お前が川の異変に気づいた。お前が王都まで来た。お前が水を持ってきた。そして、俺をここまで連れてきた」
迅は笑った。
「だから、胸張っとけ」
「…………」
リコは何も答えなかった。
ただ、白銀の尻尾だけが、嬉しそうにゆっくりと左右へ揺れていた。




