第2-10話 おんぶされた
研究棟を飛び出した瞬間、冷たい夜風が頬を撫でた。
いつの間にか、すっかり夜も更けている。空を見上げれば、真上には大きな月が浮かび、雲一つない夜空から降り注ぐ月光が草原を淡い銀色に染めていた。
「急ぐっす!」
「ああ!」
迅とリコは草原を駆け出した。
月明かりを浴びながら走るリコの白銀の髪が、夜風になびく。大きな狐耳に、ふわりと揺れる尻尾。髪は月の光を受けるたびに輝き、その姿だけを見れば、まるで夜の草原に現れた精霊のようだった。
もっとも、今は見惚れている場合ではない。村では今この瞬間にも、鉛に汚染された疑いのある川の水が使われているかもしれないのだ。
しばらく走ったところで、研究棟の周囲を警戒していた兵士の姿が見えてきた。
「迅殿?」
突然飛び出してきた二人に、兵士が驚いたように振り返る。
研究棟には施錠してきたし、迅以外が簡単に中へ入れないようにもしてある。それでも、あそこに残されたものは、この世界では二度と手に入らないものばかりだった。
分析機器、試薬、研究資料。そして、愛の薬を完成させるための研究データ。
万が一にも失うわけにはいかない。
「誰も入らないよう、しっかり見張っとけよ!」
迅は走りながら叫んだ。
「は、はい!」
兵士は反射的に姿勢を正した。
「迅殿はどちらへ!?」
「こいつの村だ!」
迅は隣を走るリコを指差した。
「村の川から毒が見つかった! 緊急を要する!」
「毒!?」
「ああ! しばらく戻れないかもしれない! 研究棟を頼む!」
「は、はい!」
そこで会話は終わった。迅とリコは速度を落とすことなく、そのまま兵士の横を駆け抜けていく。
少し離れた場所にいたもう一人の兵士も、何事かと近寄ってきた。
「……行ってしまったぞ」
「ああ」
「勝手に行かせてよかったのか?」
「王から言われているだろう。建物へ侵入者を近づけるな。ただし、迅殿自身の活動は自由にさせろ、と」
「なら……いいのか」
「たぶん」
二人は遠ざかっていく迅たちの背中を見つめた。
そこで、一人がふと首を傾げる。
「ところで、あの狐の獣人は誰だ?」
「さあ? 迅殿の知り合いなんじゃないか?」
「異世界から来て、まだ数日しか経ってないだろ」
「……そういえばそうだな」
二人の兵士は顔を見合わせた。
しかし、しばらく考えた末に――。
「まあ……迅殿が連れているならいいか」
「そうだな」
それ以上、深く考えるのをやめた。
その頃、迅とリコは月明かりに照らされた草原を駆けていた。
いや、正確には――。
「はぁ……はぁ……」
迅はすでに歩いていた。
「ちょ……ちょっと待て……」
「迅、おっそいっすよ~」
数歩先でリコが振り返る。息一つ切れていなかった。
「まだ研究棟、見えてるっすよ?」
「うる……さい……!」
迅は膝に手をついた。肺が痛い。心臓も猛烈な勢いで脈打っている。
「おかしい……」
「何がっすか?」
「昔は……もっと走れたんだよ……」
高校時代はサッカー部だった。炎天下のグラウンドを何度も走らされ、体力にはそれなりに自信があった。
しかし、それも昔の話。
大学へ進学してからは研究室に入り浸り、実験、論文、実験、データ解析、また実験と、研究漬けの日々を送ってきた。気づけば運動らしい運動など、ほとんどしなくなっていた。
体力が落ちるのも当然だ。
――とはいえ。
「お前と一緒にするな……」
「私っすか?」
「なんで息一つ切れてないんだよ」
「まだ走ってないようなもんっすよ?」
「走ってたよ!」
迅にとっては十分な全力疾走だった。しかし、リコからすれば準備運動にもならないらしい。
これが村から王都まで、半日足らずで走ってきた女である。しかも先ほどは、研究棟の電力を回復させるために、かなりの魔力を消費したばかりだ。
体力お化け。いや、もはやチートだった。
「これじゃ、村まで何日かかるか分からないっすねー」
「……悪かったな」
リコは少し考え込むと、突然、迅の前で背中を向けて腰を落とした。
「しょうがないっすねー」
「……何してるんだ?」
「乗るっす!」
「は?」
「おんぶするっす!」
リコは自分の背中をぽんぽんと叩いた。
「いや、しかし……」
迅は躊躇した。相手は年下の少女だ。しかも、つい先ほど出会ったばかりである。さすがに背負われるというのは――。
「一刻を争うんすよね?」
「…………」
正論だった。
自分のくだらない遠慮と、村人の命。比べるまでもない。
「……よろしく頼む」
「任せるっす!」
迅はリコの背中に身体を預けた。
細い。最初に感じたのはそれだった。
すらりと伸びた手足に、無駄のない身体。しかし実際に掴まってみると、見た目以上にしっかりしている。迅を背負っているというのに身体はほとんど揺れず、動くたびに引き締まった背中の筋肉が連動していた。
その一方で、触れる身体からは確かな柔らかさと温かさが伝わってくる。
鼻先では白銀の髪が揺れ、風に運ばれた毛先が時折、迅の頬や鼻をくすぐった。
そして――。
「……近いな」
「なんか言ったっすか?」
「何でもない」
迅は少しだけ顔を逸らした。
美少女に背負われている。冷静に考えると、とんでもない状況だった。
しかも、しなやかに引き締まった身体なのに、柔らかいところはきちんと柔らかい。
迅も二十三歳の男である。何も感じないわけではなかった。
「迅」
「なんだ?」
「ちゃんと掴まってるっすか?」
「ああ」
「じゃあ――」
リコが笑った。
「全力で行くっすよー!」
「……え?」
その瞬間、リコの脚から青白い光が迸った。
「ちょ――」
景色が吹き飛んだ。
「うおおおおおおおおお!?」
凄まじい加速だった。
先ほどまで感じていた背中の温かさも、髪の匂いも、柔らかい感触も。そんなものを堪能する余裕は、一瞬で消滅した。
「速っ――!」
風が顔を殴り、草原が猛烈な勢いで後方へ流れていく。
いや、流れるという表現では足りない。景色そのものが飛んでいくのだ。
月明かりを受けた草、遠くの木々、小さな丘。その全てが視界に現れたかと思えば、次の瞬間には背後へ消えていく。
リコはその中を駆けていた。
右へ、左へ。地面の凹凸を避け、石を飛び越え、ほとんど速度を落とさない。
「これが……」
迅は必死にリコへしがみつきながら顔を上げた。
そして、言葉を失った。
月明かりに照らされた草原。銀色に輝く大地に、満天の星。風に揺れる草木。
その全てが、恐ろしい速度で視界の端から端へ流れていく。
まるで風になったかのようだった。
迅がこれまで生きてきた世界では、決して見ることのできなかった景色。
自動車でもない。電車でも、飛行機でもない。
一人の少女が、自らの脚だけで夜の大地を駆け抜けている。
青白い雷光が草原を走り、白銀の髪が月光を弾く。その向こうには、どこまでも続く異世界の夜が広がっていた。
――これが。
リコがいつも見ている世界なのか。
「すげえ……」
迅は恐怖すら忘れ、その光景に見入っていた。
科学では説明できない力で、人間には到底出せない速度で、月夜を駆け抜ける狐の少女。
異世界へ来てからというもの、理解できないものをいくつも目にしてきた。魔法、獣人、巨大な王宮。
それでも迅は、どこかで全てを分析しようとしていた。理解しようとし、数字に置き換えようとしていた。
けれど、今だけはそんなことなどどうでもいいと思った。
ただ純粋に――。
「綺麗だな……」
「なんか言ったっすかー!?」
風に負けないよう、リコが叫ぶ。
「何でもない!」
「聞こえないっすー!」
「だから何でもないって!」
迅はもう一度、流れていく景色へ目を向けた。
月光、草原、雷光、そして白銀の髪。
それら全てが混ざり合う光景を、迅は――美しいと思った。




