第2-9話 危険な測定結果(画像あり)
測定開始からしばらくして、ICPが試料を測り終えた。
「終わったぞ」
「出たっすか!?」
それまで椅子に座って尻尾を弄っていたリコが、勢いよく立ち上がった。
「ああ」
迅はモニターに表示された測定結果へ目を走らせた。
まず目に入ったのはカルシウム。Ca――約120 mg/L。
続いてマグネシウムが約35 mg/L、ナトリウムが約25 mg/L、カリウムが約5 mg/Lと表示されている。
「ふむ……」
「どうなんすか?」
「カルシウムとマグネシウムが多い。かなり硬度の高い水だな」
「こうど?」
「簡単に言えば、カルシウムやマグネシウムをたくさん含んだ水ってことだ」
「それがまずい原因っすか!?」
「多少飲みにくく感じる可能性はある。ただ、この程度なら、それだけで大騒ぎするような値じゃない」
「じゃあ、やっぱり私の馬鹿舌だったんすか……?」
リコの耳がしゅんと垂れた。
「まだ全部見てないだろ」
迅は測定結果をスクロールしていく。
鉄、銅、亜鉛、マンガン。次々と元素の測定値を確認するが、多少高いものはあっても、リコが訴えた異変を説明するほどではなかった。
「おかしいな……」
迅は眉をひそめた。
リコはわざわざ村を飛び出してまで、川の異変を訴えに来たのだ。しかも、川の近くでは野ラピットの子供が死んでいたという。
何かあるはずだ。
そう思った、その時だった。
測定結果の後半に表示された、ある元素名に目が止まった。
Pb。
鉛。
そして、その横に表示された数字を見た瞬間、迅の表情から血の気が引いた。
「……は?」
「どうしたんすか?」
見間違いかと思い、迅は画面へ顔を近づけた。単位を確認し、測定条件にも目を通す。
だが、何度見ても表示は変わらなかった。
「30……mg/L?」
思わず声が漏れた。
「なんすか?」
リコが横からモニターを覗き込む。
「やばいんすか?」
「…………」
「迅?」
「やばいなんてもんじゃない。異常な濃度だ」
迅の声色が変わった。先ほどまでの軽口は、完全に消えていた。
「そんなに?」
「ああ」
迅は革袋へ目を向けた。
中に入っているのは透明な水。見た目だけなら何の変哲もない。だが、測定結果が正しければ、そこには恐ろしい量の鉛が含まれていることになる。
革袋由来の混入など、確認すべきことは残っている。それでも、見過ごしていい数値ではなかった。
「これを飲み続けたら鉛中毒を起こす危険がある。特に子供はまずい」
「鉛中毒?」
「鉛が身体の中に入ることで起こる中毒だ。腹痛、頭痛、吐き気、神経症状……大量に取り込めば、もっと深刻なことになる」
リコの顔から笑みが消えた。
「村のみんな……ずっと川の水を飲んでるっす」
「一日にどれくらい飲む?」
「どれくらい?」
「例えば――」
迅は近くにあった一リットルのビーカーを手に取った。
「これで一リットルだ」
「ああ、それなら分かるっす!」
リコは少し考え込んだ。
「水だけじゃなくて料理にも使うっすから……それだと四杯くらいは使うと思うっす」
「四リットルか……」
迅は即座に計算した。
一リットル当たり三十ミリグラム。四リットルなら、水に含まれる鉛だけで一日百二十ミリグラムに相当する。
もちろん、生活に使う水の全てを飲食で摂取するわけではないし、口に入った鉛が全量吸収されるわけでもない。年齢や栄養状態、食事、摂取状況によっても吸収量は変わるため、この計算だけで症状の程度を断定することはできない。
それでも、こんな水を生活用水として使い続けていいはずがなかった。
「リコ!」
「は、はいっす!」
「村で腹痛や頭痛とか、体調を崩してる奴はいなかったか!?」
「私が出る頃は、そんな話は聞いてないっすけど……」
「子供は?」
「分からないっす……」
「くそっ」
迅は立ち上がった。
「すぐにでも村へ知らせる必要がある」
「やっぱり……」
リコは革袋を見つめた。大きな狐耳が垂れている。
「悪い水だったんすね……」
「ああ。少なくとも、重大な異常が見つかった」
迅は即答した。
「お前が正しかったんだ。味の違いに気づかなかったら、誰も調べなかったかもしれない」
「…………」
「だから胸を張れ。お前のおかげで分かったんだ」
リコが顔を上げた。
「迅……」
「ただし、喜んでる暇はないぞ」
迅は立ち上がりながら言った。
異常が見つかった以上、次は対策だ。
まず川の水を飲ませない。料理にも使わせず、代わりの水源を確保する。そして、すでに大量の鉛を取り込んでいる人間がいる可能性も考えなければならない。
問題は――。
「俺は医者じゃない」
迅は歯噛みした。
化学なら分かる。分析ならできる。だが、人体となれば専門外だ。中途半端な知識で治療をすれば、かえって人を殺しかねない。
「治療法を確認する」
「治せるんすか!?」
「分からない。だから調べるんだ」
迅は二階へ向かおうとして、リコを振り返った。
「リコ、お前は休んでろ」
「でも!」
「村まで半日走るんだろ?」
「そうっすけど……」
「今のお前は、さっき電気を供給して魔力を使い切ったばかりだ。途中で倒れたら村まで行けないぞ」
「……分かったっす」
「飯も食っとけ」
「それは任せるっす!」
「そこだけ元気だな!」
迅は二階へ階段を駆け下りる。
現代ならインターネットで検索すればいい。だが、この世界にネットなど存在しない。
それでも研究棟には、研究に必要な資料が大量に保存されている。論文、電子書籍、安全データ、オフラインのデータベース。何かあるはずだった。
「鉛……中毒……治療……」
迅はキーボードを叩き、検索結果を開いた。
違う。次。これも違う。
「頼む……」
専門外だから分からない。そんな言い訳はしたくなかった。
救える可能性があるなら探す。
妹を救えなかったあの日から、それだけは変わらない。
そして――。
「あった!」
迅の指が止まった。
「キレート療法……」
画面に表示された資料を読み進める。
鉛中毒に対して行われる治療の一つ、キレート療法。特定の薬剤を使い、体内に入り込んだ鉛と結合させることで、身体の外へ排出しやすくする治療法だ。
そして、その資料の中に、迅にとって馴染み深い名前があった。
「EDTA……」
エチレンジアミン四酢酸。
分析化学の世界では珍しくもない物質だ。金属イオンと強く結びつく性質を持ち、水の硬度測定などにも利用される。
そして、鉛中毒の治療に用いられる薬剤の一つが――。
「カルシウム二ナトリウムEDTA……」
迅は立ち上がった。その名前なら覚えがある。
三階へ駆け上がると、無機系分析室の試薬棚を確認した。並んだ瓶のラベルを、一つずつ追っていく。
「EDTA……違う。これも違う……」
そして、迅の手が止まった。
「あった」
カルシウム二ナトリウムEDTA。
研究用試薬だった。
迅は瓶を手に取り、そのラベルを睨んだ。
「……研究用、か」
当然だった。ここは病院ではなく、大学の研究棟だ。
目の前にあるのは医薬品として製造されたものではない。本来なら、人間の治療に使うような代物ではなかった。
不純物の保証、製造管理、無菌性。医薬品とは、求められる基準そのものが違う。
これを人間に使う。研究者として、その危険性が分からない迅ではなかった。
「…………」
迅は試薬瓶を握ったまま動かなかった。
使うべきではない。そんなことは分かっている。
だが、ここは異世界だ。
元の世界のような病院も製薬会社もない。救急車を呼んでも来なければ、医療用のキレート剤を注文したところで届くはずもない。
そして村では今も、鉛に汚染されている疑いのある川の水が飲まれている。
「選べる状況じゃない……」
迅は呟いた。
安全な薬がないから何もしない。それで手遅れになった人間を前にして、自分は納得できるのか。
答えなど決まっていた。
「持っていく」
迅はカルシウム二ナトリウムEDTAを荷物へ入れた。
もちろん、研究用試薬をそのまま治療に使えるわけではない。使うかどうかも含め、現地で村人の状態を確認し、慎重に判断する必要がある。
まずは汚染水の使用を止める。それから症状を確認し、治療が必要な人間がいるのなら――。
今ある知識と物資で、救う方法を探す。
それしかなかった。
一階へ戻ると、休んでいたリコが立ち上がった。
「迅!」
「ああ」
「治す方法、見つかったんすか!?」
迅は一瞬だけ黙った。
「可能性はある」
「じゃあ!」
「ただし、安全とは言えない」
リコの表情が固まる。
「俺が持ってるのは、薬として作られたものじゃない。研究用の試薬だ」
「……危ないんすか?」
「危険はある」
迅ははっきりと答えた。
「だから、誰にでも使うつもりはない。まずは村へ行って状況を見る」
それでも、何も持たずに向かうよりはいい。
迅は荷物を背負った。中には分析結果と必要な資料、持ち運び式の分析機器、そしてカルシウム二ナトリウムEDTAが入っている。
「行くぞ、リコ」
「はいっす!」
「まず川の水の使用を止める。それから村人の状態を確認する」
迅は研究棟の扉へ向かった。
原因につながる重大な異常は見つかった。
鉛、測定値、30 mg/L。
あとは――。
「助けられる奴は、全員助ける」
迅とリコは研究棟を飛び出した。




