第2-7話 ICP発光分光分析装置(画像あり)
研究棟の三階には、第二実験室と無機系分析室がある。
迅の専門はどちらかといえば有機系で、普段使用していたのも一階の第一実験室と有機系分析室が中心だった。毒入りワインの分析に使用したLCも、一階の有機系分析室に置かれている。
一方、三階の無機系分析室に足を運ぶ機会は、それほど多くなかった。
だが、専門外だから使えないというわけではない。分析化学を学んでいる以上、無機分析の基礎くらいは当然叩き込まれている。
まして今は、頼れる研究者が自分しかいない。「専門じゃない」などという言い訳が通用する状況ではなかった。
「うわぁ……」
無機系分析室へ足を踏み入れたリコが、感嘆の声を漏らした。金色の瞳が忙しなく左右へ動いている。
見たこともない機械に、壁や床を這う配管、整然と並べられた薬品。無数のボタンやモニターが、所狭しと並んでいた。
「迅、ここにも魔道具がいっぱいあるっす!」
「分析装置だ」
「この大きいのも?」
「分析装置」
「こっちの光ってるやつも?」
「分析装置」
「じゃあ、これは――」
「触るな!」
「わっ!」
電源ボタンに伸びかけたリコの手がぴたりと止まった。狐耳まで直立している。
「だから、勝手に触るなって言っただろ」
「見るだけだったっす……」
「手が伸びてたぞ」
「気のせいっす」
「俺は見てた」
リコがそっと目を逸らす。
迅はため息を吐いた。やはり、こいつを研究棟に入れるときは目を離さない方がよさそうだ。
「それで迅、どれで川の水を調べるんすか?」
リコは何事もなかったように振り返った。
「今回使うのは――これだ」
迅は一台の分析装置を指差した。
「ICP発光分光分析装置」
「……あいしーぴー?」
リコが固まった。
「正式には、Inductively Coupled Plasma――」
「ちょ、ちょっと待つっす!」
リコが慌てて両手を突き出した。
「もう分からないっす!」
「まだ名前しか言ってないぞ」
「名前から難しいっす!」
「じゃあ、ICPでいい」
「それなら覚えられそうっす!」
迅は苦笑した。
「簡単に言えば、水の中にどんな元素が入っているのかを調べる装置だ」
「元素?」
「今回は金属を探すと思っておけばいい」
リコが首を傾げる。
「水の中に金属なんて入るんすか? 鉄とか銅って硬いっすよ?」
「そうだな……砂糖を水に入れたらどうなる?」
「溶けるっす!」
「塩は?」
「それも溶けるっす!」
「それと似たようなもんだ。金属の成分も、目に見えないくらい小さな状態になって水の中に溶け込むことがある」
「なるほど! じゃあ、透明だから何も入ってないってわけじゃないんすね!」
「そういうことだ」
リコの耳がぴんと立った。
専門用語には慣れていないようだが、直感的な理解は早いらしい。
迅はICPへ視線を戻した。
「こいつが何をしているのか、ものすごく簡単に説明するとだな。まず、水を霧みたいに細かくする」
「霧?」
「それを、とんでもなく熱いところへ送り込むんだ」
「火魔法っすか?」
「違う」
「じゃあ炎魔法?」
「だから、魔法から離れろ」
「難しいっす……」
「何がだよ」
迅は苦笑した。
「プラズマっていう、ものすごくエネルギーの高い状態を利用するんだ。温度は数千度にもなる」
「数千!?」
リコの尻尾がぶわっと膨らんだ。
「そんなところに水を入れたら、なくなっちゃうっす!」
「なくなっていいんだよ」
「いいんすか!?」
「ああ。水分を飛ばして、中に含まれている元素を調べやすい状態にするんだ」
「……?」
迅はリコの顔を見た。
どうやら、まだ理解できていないらしい。
「そうだな……例えば、お前と俺が同じ服を着て、頭から布団を被ってたら、遠くからじゃ区別しにくいだろ?」
「迅と私なら、耳と尻尾で一発っす!」
「例えを潰すな」
「すんませんっす」
「とにかく! 水の中にはいろんなものが混ざってるから、そのままじゃ何が入っているのか分かりにくいんだ」
「はいっす!」
「そこで高温のプラズマに送り込んで、元素を励起させる」
「れいき?」
「……そこは今、覚えなくていい」
「助かるっす!」
嬉しそうに言うな。
迅は小さくため息を吐き、説明を続けた。
「重要なのはここからだ。元素には、それぞれ特徴がある」
「特徴?」
「ああ。人間にそれぞれ顔があるみたいにな」
リコが自分の顔を指差した。
「私にも?」
「ある」
「かわいいっすか?」
「い、今それ関係あるか?」
「気になったっす」
「話を戻すぞ!」
危うく脱線しかけた。
「元素はプラズマの中でエネルギーをもらって、元の状態に戻るときに、それぞれ決まった波長の光を出すんだ」
リコが再び難しそうな顔になる。
「もっと簡単に言うと――」
迅は指を一本立てた。
「鉄には鉄の光がある」
二本目。
「銅には銅の光がある」
そして三本目。
「ナトリウムにはナトリウムの光がある」
「おお……」
「つまり、その光を調べれば――」
「あっ!」
リコが声を上げた。
「何が入ってるか分かるっす!」
「正解」
「おおおおー! 私、今めっちゃ賢かったっす!」
リコの尻尾がぶんぶんと左右に揺れた。
「普通だ」
「ひどいっす!」
迅は笑いながら続けた。
「しかも、かなり少ない量でも調べられるんだ」
「ちょっとしか入ってなくても?」
「ああ。だから水質調査にはもってこいってわけだ」
迅はリコから受け取った革袋へ目を向けた。
中に入っているのは透明な川の水。見た目だけならごく普通で、濁っているわけでも、奇妙な色が付いているわけでもない。
村人たちが異変に気づかなかったのも無理はないだろう。
だが、見えないからといって、存在しないとは限らない。むしろ化学の世界では、目に見えないものこそ厄介なのだ。
「お前、味がおかしいって言ってたな」
「はいっす!」
「鉄みたいな味がして、舌にも違和感があった、と」
「そうっす! 変な感じになったっす!」
迅は革袋を軽く揺らした。
「なら、調べる価値は十分ある」
「これで本当に分かるんすか?」
「ああ。もし、この水に身体へ悪影響を与える元素が混ざっているなら――」
迅はICPへ視線を向け、口元に笑みを浮かべた。
「こいつが正体を暴いてくれる」
「おおお……!」
リコがICPを見る目が変わった。
先ほどまで、得体の知れない箱を眺めていた目ではない。尊敬、いや、これはたぶん――。
「めっちゃすごい魔道具っす!」
やっぱりそれだった。
「分析装置だ」
「すごい魔道具!」
「分析装置」
「魔道――」
「分析装置!」
「わ、分かったっす!」
狐耳がぺたんと伏せた。
迅はため息を吐きながら、川の水が入った革袋を手に取った。
ここから先は遊びではない。
水を採取した容器が革袋である以上、容器由来の汚染も考慮する必要がある。測定値が得られたからといって、それを即座に川そのものの値だと断定することもできない。
それでも、まずは調べる。異常の有無を確認し、そこから次の一手を考えればいい。
仮説を立て、測定し、その結果からまた考える。
世界が変わっても、科学のやり方は変わらない。
「さて」
迅は革袋を持ち上げた。中で透明な水が小さく揺れる。
「川の水がまずくなった理由――」
その目は、すでに研究者のそれへと変わっていた。
「暴いてやろうじゃないか」




