第2-6話 リコの依頼②
実は迅自身も、リコの依頼と同じく「水」に困っていた。
ただの水ではない。超純水だ。
研究者にとって、血液にも等しい存在だった。
通常の水には、カルシウム、マグネシウム、ナトリウム、カリウム、鉄、銅など、数え切れないほどの物質が溶け込んでいる。人が飲む分には問題ないものでも、研究では話が違う。ほんのわずかな不純物ですら、分析結果を狂わせる可能性があるのだ。
そのため、精密な実験や分析では、限りなく不純物を取り除いた超純水を使用する。
しかし、それは蛇口をひねれば出てくるものではない。日本では専用装置で製造するか、試薬メーカーから購入するのが一般的だった。
そして現在、研究棟に残された超純水の在庫は心許ない。
「あと数回分析したら終わりか……」
迅は頭を抱えた。
原因は単純だった。前任の発注担当者が注文していなかったのである。
超純水は比較的納期が短いため、在庫が少なくなるまで発注しない研究室も珍しくない。その気持ちは分かる。分かるのだが。
(異世界に来る前くらい、注文しといてくれよ……)
もちろん、発注担当者に罪はない。誰も研究棟ごと異世界へ飛ばされるなど、予想できるはずがないのだから。
それでも愚痴の一つくらいは言いたくなる。
もっとも、今のところ在庫はまだ残っており、数回の分析なら問題ない。そして迅は、その貴重な分析枠を使うだけの価値があると考えていた。
目の前の狐娘のために。
「それで、その川はどこにあるんだ?」
「半日かからないくらいっす!」
「近いな」
「走り続ければ!」
嫌な予感がした。迅は念のため聞き直す。
「ちなみに、俺の足だと?」
「うーん……五日くらいっすかねー」
「遠いな!」
思わず突っ込んでしまった。
どうやらリコの時間感覚は、全く参考にならないらしい。雷魔法で身体能力を強化している、化け物基準だった。
「五日か……」
迅は腕を組んだ。
現地調査はしたいが、往復だけで十日もかかるとなれば話は別だ。現状、研究棟をそこまで長期間空けるのは難しい。
電力問題に超純水不足。やることは山積みだった。
「問題の水がないと、何も始まらないんだよな……」
原因物質が分からなければ対策も立てられない。やはり現地へ行くしかないか。
そう考えた瞬間だった。
「あるっすよ!」
「……は?」
リコが得意げに胸を張り、腰に下げていた革袋を取り出した。
「これっす!」
飲み口のついた革製の水袋。見た目は、ただの携帯水筒だった。
「喉が渇いたら飲もうと思って、持ってきたっす!」
「飲んだのか!?」
迅は反射的に叫んだ。
「飲んでないっす! まずいので、なるべく飲まないようにしてたっす!」
迅はほっと胸を撫で下ろした。
「最初に気づいたときに、ちょっと舐めたくらいっす」
「それなら大丈夫か……」
たぶん。おそらく。
できれば、今後はやめてほしい。
迅はリコから革袋を受け取った。ずしりとした重みがあり、中にはまだ十分な量の水が残っている。
それを確認すると、自然と口元が緩んだ。
「リコ」
「なんすか?」
「よくやった!」
「へ?」
「これがあれば、現地に行かなくても分析できる」
原因究明への最短ルートだった。
重金属なのか、有機化合物なのか。あるいは、全く未知の汚染物質なのか。いずれにせよ、分析すれば何らかの手掛かりは得られるはずだ。
「うまくいけば、一気に原因物質を絞り込めるぞ」
「ほんとっすか!?」
リコの狐耳がぴんと立ち、尻尾も勢いよく左右へ振られていた。まるで褒められた犬のようだ。
「すごいっす!」
「まだ分からないけどな。可能性は高い」
迅は苦笑した。
原因が分かれば対策も立てられる。村を救えるかもしれないし、リコを追い出した連中を見返すことだってできるかもしれない。
そして何より、迅自身もこの世界の水について、まだほとんど何も知らない。
研究棟では、実験に必要な超純水の確保が課題となっていた。今回の水質調査が、今後の水源を探すための手掛かりになるかもしれない。
まずは村人たちを苦しめている原因を突き止めることだ。
迅は革袋を手に立ち上がった。
「行くぞ」
「どこにっす?」
「分析だ」
研究者らしい笑みが浮かぶ。
「原因を暴いてやる」
リコから受け取った革袋を持ち、迅は三階にある無機系分析室へ向かった。
原因究明の時間だ。




