第2-5話 リコの依頼①
研究棟へ入るなり、迅は真顔になった。
「いいか。この建物の中では、俺が許可しない限り魔法は禁止だ」
「わ、分かったっす」
「絶対だぞ」
「分かったっす」
「本当に絶対だぞ」
「だから分かったっす!」
リコの耳がぺたんと倒れた。
しかし、迅はまだ不安だった。なにせ相手は魔法を使う異世界人である。研究室で炎魔法でも撃たれたら、洒落にならない。
アセトン、ヘキサン、アセトニトリル、その他諸々。ここは引火性溶媒の宝庫なのだ。一歩間違えれば研究棟ごと吹き飛びかねない。
「とにかく勝手に触るな。開けるな。それと、絶対に飲むなよ。毒物もあるからな」
「飲まないっす!」
本当だろうか。迅は若干不安になった。
二人は階段を下り、一階の実験室と有機系分析室を抜けていく。そこには分析機器やガラス器具、ドラフトチャンバーなどが並んでいた。
リコは終始きょろきょろと周囲を見回している。
「うわー……何が何だか全然分からないっす!」
金色の瞳が輝いていた。
「でも、なんかすごそうっす!」
「だろうな」
感想が雑だった。
そのまま二階へ上がり、研究デスクが並ぶフロアを抜けて会議室へ入る。すると、リコは一直線にソファへ向かった。
「うわー! いい椅子っす!」
ぽふんと勢いよく飛び込み、尻尾をぶんぶんと揺らしている。
「村長の家の椅子よりふかふかっす!」
「比較対象が分からん」
「とにかくすごいっす!」
迅は苦笑した。
「少し待ってろ。飯を準備してくる」
ちょうど昼時だった。腹が減っていては話も進まない。
「うおっ! 賢者さん、めっちゃ気が利くっす!」
リコの耳がぴんと立った。
「賢者じゃない」
「え?」
「迅だ。俺の名前」
「じん?」
「ああ」
「迅! よろしくお願いするっす!」
リコが勢いよく立ち上がった。満面の笑顔が妙に眩しく、迅は少しだけ目を逸らした。
やがて王宮から支給された食料を持って戻ってくる。干し肉にパン、保存食ばかりだった。
「これくらいしかないが」
「十分っす!」
リコは迷わずかぶりついた。干し肉、パン、干し肉、パンと、まるで数日まともに食べていなかったかのような勢いで食べ進めていく。
「それで、話って何だ?」
迅が切り出すと、リコは慌ててパンを飲み込んだ。
「あっ! そうだったっす!」
どうやら忘れていたらしい。
「私はちょっと離れた村に住んでたんすけど……追い出されてしまったっす」
リコの耳が少し下がった。
「そうか」
「あっ、追い出されたのは別にいいんすけど」
「よくないだろ」
「それより川っす!」
即答だった。
「川?」
「川の水がめっちゃまずいっす!」
迅は眉をひそめた。
「まずい?」
「そうっす! いつもと違う味がするっす!」
「どんな味だ?」
「うーん……」
リコは真剣に考え込んだ。
「鉄みたいな味っす! あと、舌がぴりぴりするっす!」
迅の表情が少し変わった。
ただの思い込みとは言い切れない。人間が味だけで判別できる不純物には限界がある。だが、獣人なら話は別かもしれない。嗅覚や味覚が発達していてもおかしくはない。
「絶対、身体に良くないっす! 近くで野ラピットの子供も死んでたっす!」
リコは拳を握り締めた。
「……ほう」
迅は腕を組んだ。少なくとも、完全な妄想ではなさそうだ。
環境汚染、重金属、有害物質。様々な可能性が頭に浮かぶ。
「分かった。調べてみてもいい」
「本当っすか!?」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「今度は俺の頼みを聞いてもらう」
「なんすか?」
迅はにやりと笑った。
「こっちだ」
リコを連れて一階へ降り、予備電源室へ向かった。
薄暗い室内には非常用バッテリーや配線、計器類が並んでいる。そして、電源の残量表示は残りわずかを示していた。
「迅?」
「お前、雷魔法が使えるんだよな?」
「使えるっす!」
「じゃあ、電気も出せるか?」
「たぶん出せるっす!」
「たぶん?」
「やったことないっす!」
不安しかない。だが、他に選択肢もなかった。
迅は電源ラインの接続部を指差した。
「そこに触れろ」
「こうっすか?」
「ああ。俺が指示したときだけ、慎重に電気を流してくれ」
「慎重って、どれくらいっす?」
「慎重は慎重だ!」
「分かったっす!」
分かっていない気がする。
次の瞬間だった。
ぱちっ。
青白い火花が走り、計器が反応した。
電圧が上昇し、バッテリーの残量表示が少しずつ回復していく。
迅は目を見開いた。
「成功だ……!」
本当に充電している。
雷魔法が、研究棟の電源を。
常識外れにも程があった。
「いけるっす!」
リコがさらに魔力を流す。計器の数値が上昇し、電力が回復していく様子に、迅の顔にも自然と笑みが浮かんだ。
「助かった……」
これで研究棟を延命できる。分析機器も動かせるし、研究も続けられる。
数日ぶりに希望が見えた。
しかし、十分ほど経った頃だった。
「はぁ……はぁ……限界っす……」
リコが膝をついた。全力疾走後のように息を切らし、大きな狐耳もへにゃっと垂れている。
「魔力切れっす……」
「もういい! 十分だ!」
迅は慌てて止めた。
本当に助かった。リコがいなければ、研究棟はあと一日で機能停止していただろう。
迅はリコへ手を差し出した。
「ありがとう」
リコはきょとんとした後、嬉しそうに笑った。
「どういたしましてっす!」
迅も笑った。
このリコという少女が、自分のしたことをどこまで理解しているかは怪しい。だが、研究活動の生命線をつないでくれたのだ。感謝してもしきれない。
「お前の依頼、正式に引き受けよう」
迅は真っ直ぐにリコを見た。
電力以外にも、問題は山積みだった。特にリコの依頼は、迅自身が抱えている問題とも重なっている。
「綺麗な水は、生命活動にも研究活動にも欠かせないからな」
もう一つの問題については、まだ少し猶予がある。
それに何より、大恩人の頼みだ。力を貸さないわけにはいかないだろう。
「本当っすか!?」
リコの狐耳が勢いよく立ち上がった。
「ああ」
水が汚染されているなら調べる。原因があるなら突き止め、そして解決する。
それが化学者の仕事だ。
異世界だろうと関係ない。
迅はそう決めていた。




