第47話 卒業の朝
第47話 卒業の朝
三月の第一金曜日。
朝凪の海が春の色に変わっていた。鉛色が溶けている。薄い青。光が高い。二月より角度が上がった太陽が海面を照らしている。きらめきが粒ではなく面になっている。春の海。冬の重さが抜けている。
卒業式の朝。
制服を着た。ブレザー。ネクタイ。三年間着た制服。最後の日。最後の登校。最後の校門。
校門をくぐった。桜はまだ咲いていない。三月の第一週は早い。蕾は膨らんでいる。あと二週間もすれば咲くだろう。しかし卒業式には間に合わない。朝凪の桜は卒業式に間に合わない。毎年そうだと凛花が記録していた。二冊目のノートに。
校舎に入った。廊下を歩いた。三年間歩いた廊下。足が覚えている。何歩で教室に着くか。どの角を曲がるか。身体が覚えている。
教室。三年二組。最後の教室。席に座った。最後の席。窓際。ここから海が見える。三年間、この窓から海を見てきた。授業中に。放課後に。翻訳者の目で。
今日は翻訳者の目ではない。高瀬恒一の目。ただの卒業生の目。
卒業式は十時から。体育館。全校生徒が集まる。三年生が前列。二年生が中列。一年生が後列。
九時半。教室を出た。廊下を歩いた。体育館に向かう途中で陽太とすれ違った。
「恒一。卒業だな」
「卒業だ」
「三年間。長かったか」
「短かった。終わってみれば」
「俺もだ。短かった」
陽太が笑った。コミュ力お化けの笑い。しかし今日の笑いは少し違った。湿っている。コミュ力お化けの目が赤い。泣いてはいない。しかし赤い。
「恒一。泣くなよ」
「泣かない」
「嘘つけ。お前、卒業式で泣くタイプだ」
「泣かない。翻訳者は泣かない」
「翻訳者はもういないだろ」
「高瀬恒一も泣かない」
「嘘だ。高瀬恒一は泣く。翻訳者より泣きやすい」
「陽太。お前のほうが泣きそうだ」
「泣かない。コミュ力お化けは泣かない。泣いたらコミュ力が下がる」
「根拠がない」
「根拠はいらない。非合理の領域だ」
蒼のフレーズを陽太が使っている。工作室の言葉が全員に循環している。
体育館に入った。卒業生の席。三年生。二百人以上。俺と陽太は隣の席だった。出席番号順。天野陽太と高瀬恒一。あ行とた行。離れているはずだが、席替えの結果隣になった。凛花が段取りしたのかもしれない。証拠はない。
在校生の席に凛花がいた。二年生の列。ノートを持っていない。今日は記録しない。四冊目のノートは鞄の中だろう。しかし開かない。卒業式は記録ではなく見届ける場だ。
蒼が凛花の隣にいた。一年生ではなく二年生の列に混ざっている。席順を無視しているが誰も注意しない。卒業式の日だ。
彩音は三年生の列にいた。三年四組。俺とは列が離れている。しかし体育館の中で目が合った。一瞬。彩音が小さく頷いた。壁がない顔で。
真白は在校生の列にいた。新聞部の腕章をつけていない。今日は記者ではなく見送る側。陽太の彼女として。
十時。卒業式が始まった。
校長の式辞。教育委員会の祝辞。来賓の挨拶。形式的な言葉が続いた。翻訳者なら式辞の構造を分析する。しかし翻訳者はいない。高瀬恒一は形式的な言葉をそのまま聞いている。翻訳しない。分析しない。
卒業証書授与。
名前が呼ばれた。一人ずつ。アイウエオ順。天野陽太。
陽太が立ち上がった。大股で壇上に向かった。コミュ力お化けの歩幅。堂々としている。しかし手が微かに震えていた。壇上で卒業証書を受け取った。頭を下げた。
在校生の席から小さな拍手が聞こえた。真白だ。拍手は一人だけ。しかし一人の拍手が陽太の耳に届いている。陽太の目が赤くなった。
名前が続いた。五十音順。か行。さ行。た行。
高瀬恒一。
名前が呼ばれた。立ち上がった。足が震えていた。翻訳者の震えではない。卒業生の震え。壇上に歩いた。長い距離。教室の端から壇上まで。三年間で一番長い距離。
卒業証書を受け取った。校長の顔を見た。知らない顔だ。三年間で校長と個人的に話したことは一度もない。校長は工作室の存在を知っているだろうか。非公式の団体。名簿に載っていない。しかし三年間、旧部室棟の一室でドアを開けていた。
席に戻った。陽太が隣にいた。
「恒一。泣いてるぞ」
「泣いてない」
「涙が出てる」
出ていた。気づいていなかった。翻訳者は自分の顔が見えない。高瀬恒一も自分の涙に気づかない。
袖で拭った。
式が続いた。全員の名前が呼ばれた。二百人以上。一時間以上かかった。
在校生送辞。二年生の代表が壇上に上がった。凛花ではなかった。別の生徒。凛花は代表ではない。参謀は前に出ない。記録者は後ろにいる。
卒業生答辞。三年生の代表。俺ではない。学級委員長。形式的な答辞。感謝の言葉。思い出の言葉。前を向く言葉。
翻訳者なら答辞を翻訳する。形式の裏にある本音を読む。しかし翻訳者はいない。答辞をそのまま聞いた。形式的でもいい。形式の中に本物がある。三年間が本物だ。
校歌斉唱。歌った。三年間で何十回歌ったか分からない。最後の校歌。声が出た。隣で陽太も歌っている。コミュ力お化けの声は大きい。俺の声は小さい。翻訳者の声は分析には向いているが歌には向かない。しかし高瀬恒一の声で歌った。
卒業式が終わった。
退場。三年生が体育館を出る。花道。在校生が両側に並んで拍手している。
花道を歩いた。長い花道。体育館の出口まで。
在校生の顔が見えた。知っている顔。知らない顔。
凛花がいた。花道の右側。立っている。ノートを持っていない。手ぶら。参謀が手ぶらで立っている。目が赤い。泣いている。しかし拍手している。泣きながら拍手している。
俺の前を通り過ぎるとき、凛花が口を動かした。声は聞こえなかった。拍手と歓声で。しかし口の動きが読めた。翻訳者の目はもうない。しかし凛花の口の動きは読める。二年間読んできたから。
「先輩。お疲れさまでした」
そう言った。口の動きで。声なしで。
頷いた。返事は声ではなく首の動き。翻訳者が最後に読んだのは凛花の口だった。翻訳ではない。ただ読んだ。
蒼がいた。凛花の隣。拍手していた。事務的な拍手ではなかった。力が入っていた。データアナリストの手が、データではない力で叩いていた。
花道を抜けた。体育館の外。校庭。三月の空気。春に近い空気。光が高い。
教室に戻った。最後のホームルーム。担任が何か話した。形式的なこと。連絡事項。証書の管理。同窓会の案内。聞いていた。翻訳しなかった。
ホームルームが終わった。教室が騒がしくなった。写真を撮る声。泣く声。笑う声。卒業式の後の教室。
陽太がいた。隣にいた。真白が教室に入ってきていた。泣いていた。真白が。
「天野先輩。卒業おめでとうございます」
「ありがとう。泣くなよ」
「泣きます。先輩が卒業するんですから」
「卒業しても紅茶は飲むぞ」
「飲んでください。毎週。フレーバーは私が選びます」
「選んでくれ」
陽太と真白が抱き合わなかった。教室の中だから。しかし手を繋いでいた。自然に。コミュ力お化けの手の繋ぎ方。自然で。慣れていて。
彩音が教室に入ってきた。三年四組の教室ではない。三年二組。俺の教室。
「恒一さん」
「彩音」
「卒業おめでとうございます」
「ありがとう」
「泣いてましたね。花道で」
「泣いてない」
「嘘です。目が赤い」
「お前もだ」
「私は泣いていいんです。見送る側ですから」
「お前も三年生だろ。卒業するだろ」
「しますけど。恒一さんの卒業を見て泣いているのは、見送りの涙です。自分の卒業の涙とは別です」
「涙に種類があるのか」
「あります。見送りの涙と卒業の涙は別です。先輩を見送る涙と、自分が旅立つ涙」
「翻訳者でもないのに涙を分類するな」
「分類は元翻訳者の名残です」
二人で笑った。卒業式の日の教室で。周りの生徒は写真を撮ったり泣いたり笑ったりしている。俺と彩音はいつもの会話をしている。ぎこちなくて。不完全で。
「恒一さん。工作室に行きませんか。最後に」
「行こう」
教室を出た。廊下を歩いた。本校舎から渡り廊下へ。旧部室棟へ。
三年間。何百回歩いた廊下。渡り廊下の窓から海が見える。三月の海。春の青。鉛色が完全に溶けている。明るい。光が透っている。
旧部室棟。工作室のドア。開いている。凛花のルール⑥。ドアは常に開けておく。
中に入った。
凛花がいた。蒼がいた。陽太がいた。真白がいた。
全員が先に来ていた。
「先輩。遅いですよ」
凛花が言った。四冊目のノートを持って。
「全員いるのか」
「全員います。最後の工作室に」
六人が工作室にいた。最後の。
ホワイトボードに赤い字のルールが並んでいる。凛花のver.3。引き継ぎ式で書いた字。
窓から海が見えた。春の海。三月の光。
石油ストーブは消えていた。三月は暖かい。ストーブが要らない。窓を開けた。海風が入ってきた。春の風。冬の風とは違う。柔らかい。
「先輩。紅茶を淹れました」
陽太がやかんからお湯を注いでいた。紙コップ六個。アールグレイ。
「最初の紅茶と同じだ」
「始まりのフレーバー。真白がくれた最初の缶と同じ」
「始まりか。卒業の日に始まりの紅茶」
「始まりと終わりは同じフレーバーだ。円環。いや螺旋か。凛花が言っていた」
六人で紅茶を飲んだ。紙コップ。工作室の中で。ホワイトボードの前で。赤い字のルールの前で。
「先輩。一つだけ報告していいですか」
凛花がノートを開かずに言った。
「報告」
「四冊目のノートの一ページ目。何を書いたか。報告します」
「聞く」
「一ページ目。柊凛花。第三代団長。工作室のドアは開いている。先輩たちがいなくなっても。以上」
「短い」
「短くていいんです。一ページ目は方向を決めるだけ。中身はこれから。走りながら更新します」
「ルール③だ」
「私のルール③です」
蒼が窓際にいた。紅茶を飲んでいた。
「高瀬先輩。最後に一つだけデータを」
「蒼。卒業式にデータを持ち込むな」
「最後のデータです。工作室の二年間。依頼者数。延べ二十三名。面談回数。延べ九十七回。翻訳回数。数えていませんが推定六十回以上。全てのデータが先輩の二年間です」
「データ化したのか。全部」
「しました。公開データと凛花先輩のノートから。匿名で。個人特定なし。安全装置の範囲内です。このデータは凛花先輩に引き継ぎます。工作室の歴史として」
「蒼。データ化してくれてありがとう」
「光栄です。最後のデータ提供でした」
「最後じゃない。蒼は来年もいる」
「はい。いますが、高瀬先輩へのデータ提供は最後です。来年からは凛花先輩に提供します」
「凛花に頼む」
「頼みます。安全装置つきで」
真白が陽太の横にいた。紅茶を飲んでいた。
「先輩たち。工作室って面白い場所ですね」
「面白いか」
「面白い。紅茶を飲んで泣いて笑ってデータを出して。普通の部活とは全然違う」
「普通の部活ではない。非公式の団体だ」
「非公式なのに、こんなに人が集まる。先輩たちの人柄ですね」
「人柄じゃない。ドアが開いているだけだ」
「ドアが開いているだけ。いい言葉ですね」
真白が陽太を見た。陽太が真白を見た。二人で紅茶を飲んだ。同じフレーバー。
「恒一。行くか」
陽太が立ち上がった。
「行く」
「工作室を出るぞ」
「出る」
「最後だな」
「最後だ」
六人が立ち上がった。紙コップを捨てた。工作室を見回した。
ホワイトボード。赤い字。凛花のルール。
依頼ボード。手書きの紙。
窓。海。春の光。
石油ストーブ。消えている。
椅子。六脚。
工作室は変わっていない。二年前と同じ部屋。旧部室棟の一室。しかし中身が全部変わった。人が変わった。ルールが変わった。色が変わった。しかし場所は同じ。ドアは開いている。
「先輩。最後にドアを見てもらえますか」
凛花がドアの前に立っていた。ドアの横。手書きの紙。
「恋路工作室」
ドアに貼ってある紙。二年前に俺が書いた字。黄ばんでいる。テープが劣化している。しかし読める。恋路工作室。
「先輩の字です。二年前の。まだ貼ってある」
「剥がすか」
「剥がしません。先輩の字を残します。ルールは書き替えた。しかしドアの紙は書き替えない。恋路工作室。先輩が書いた字。このままにします」
「紙を残すのか」
「残します。名前をつけなくても大事なものは大事。名前をつけても大事なものは大事。玲奈先輩の言葉。先輩が書いたドアの紙は、工作室が続く限り残ります」
恋路工作室。玲奈先輩がつけた名前。去年、玲奈先輩から引き継いだとき、ドアに紙を貼り直した。俺の字で。恋の路。恋の道。道を作る場所。
名前が残る。翻訳者がいなくなっても。団長が変わっても。ルールが更新されても。ドアの紙は残る。
「先輩。出ましょう」
「出る」
ドアをくぐった。最後に。振り返った。工作室の中を見た。ホワイトボード。窓。海。光。
最後の視界。翻訳者が最後に見る工作室。
ドアは開いている。開いたまま。凛花のルール⑥。
「先輩。ドアは閉めませんよ」
「閉めない。開けておく」
「はい。ずっと」
廊下を歩いた。六人で。旧部室棟を出た。渡り廊下を越えた。校門に向かった。
校門の前で止まった。振り返った。校舎。三年間の校舎。体育館。教室棟。旧部室棟。
旧部室棟の二階の窓が見えた。工作室の窓。開いている。海風が入っているだろう。
「恒一。行くぞ」
「ああ。行く」
校門を出た。最後に。
海沿いの道。いつもの帰り道。しかし今日は六人で歩いている。恒一と彩音。陽太と真白。凛花と蒼。三組。六人。
「先輩。分かれ道です」
凛花が言った。いつもの分かれ道。陽太と真白は右。凛花と蒼は右の先の駅方面。恒一と彩音は左。
「凛花。蒼。元気でな」
「元気でいます。先輩も」
「先輩。来月、工作室に遊びに来てくださいね。ドア開いてますから」
「行くかもしれない。行かないかもしれない」
「来てください。卒業生として。依頼者としてではなく」
「卒業生として」
「はい。お茶を出します。紅茶。アールグレイ」
「紅茶で釣るな」
「釣ります。工作室の新しい集客方法です」
笑いが起きた。最後の笑い。分かれ道の笑い。
「陽太」
「ん」
「二年間。ありがとう。戦友」
「俺もだ。恒一。翻訳者の隣にいられて光栄だった」
「翻訳者はもういない」
「いなくても。お前の隣にいたことは変わらない」
「ああ。変わらない」
陽太が肩を叩いた。最後の肩叩き。二年分の重さ。
「紅茶、おごるぞ。来週」
「来週か」
「来週。卒業しても紅茶は飲む。真白と。恒一と。瀬川と。四人で」
「四人で。凛花と蒼は」
「呼ばない。あいつらは工作室にいる。俺たちは卒業生。別の場所で紅茶を飲む」
「分かった。来週」
陽太と真白が右の道に入った。手を繋いで。自然に。
凛花と蒼が続いた。途中まで同じ方向。駅に向かって。
凛花が振り返った。最後に。
「先輩。お疲れさまでした」
花道で口の動きだけだった言葉を、今度は声で。
「凛花。頼んだぞ」
「任せてください」
蒼が頭を下げた。深く。
「高瀬先輩。工作室のデータは守ります」
「安全装置つきで」
「安全装置つきで」
凛花と蒼が去った。二人の背中が小さくなっていく。次世代の工作室。記録者とデータアナリスト。
俺と彩音が残った。分かれ道の左側。
「恒一さん」
「彩音」
「卒業。おめでとうございます」
「ありがとう」
「泣いていますね」
「泣いてない」
「泣いています。目が赤い。頬が光っている。涙の跡」
「翻訳するな」
「翻訳ではないです。観察です。恒一さんの涙を観察しています」
「観察した結果」
「きれいです。恒一さんの涙」
「きれいじゃない。鼻水も出てる」
「鼻水込みできれいです」
二人で笑った。泣きながら。分かれ道の左の入り口で。三月の光の中で。
「帰ろう。彩音の家まで送る」
「はい。お願いします」
手を繋いだ。右手と左手。自然に。考えないで。握り方は完璧ではない。ぎこちない部分が残っている。しかし温かい。三月の手は二月より温かい。春の手。
「恒一さん。卒業式の後、何をしますか」
「何も。明日から暇だ」
「暇なら会いましょう。毎日」
「毎日は多い」
「毎日がいいです。卒業してから大学が始まるまで。約一ヶ月。毎日会いましょう」
「毎日」
「毎日。海を見て。弁当を食べて。手を繋いで。普通に」
「普通に」
「はい。ただの恒一さんと。ただの彩音で」
ただの。二人とも。肩書きがない。翻訳者でも記録者でもデータアナリストでも実行班長でもない。ただの。
「分かった。毎日会おう」
「約束ですね」
「約束だ」
「凛花さんのノートには記録されません。私たちの約束は私たちのものです」
「ノートに書かなくても約束は約束だ」
「はい。声の約束。毎日の約束」
海沿いの道を歩いた。三月の午後。春の光。海が青い。鉛色が完全に消えた。透明な青。朝凪の海。
歩きながら何も話さなかった。しばらく。沈黙。しかし心地いい沈黙。翻訳者の沈黙ではない。言葉を探す沈黙ではない。何も探さない沈黙。ただ一緒にいる沈黙。
彩音の家に着いた。マンションの前。
「おやすみなさい。恒一さん。今日は昼ですが」
「昼だが。おやすみ。彩音」
「明日も会いましょう」
「会おう」
「どこで」
「工作室の前。廊下の窓。海が見える場所」
「学校に行くんですか。卒業したのに」
「校門は閉まっていない。旧部室棟には入れる。管理人が知っている。卒業生が来ることを」
「工作室のドアは開いていますか」
「開いている。凛花のルール⑥だ」
「では。明日。工作室の前で」
「明日」
彩音が入っていった。ドアが閉まった。
一人で帰った。三月の午後。春の道。海が青い。
卒業した。
三年間が終わった。工作室の二年間が終わった。翻訳者の二年間が終わった。
残ったのは高瀬恒一。ただの。彩音の恋人。陽太の友達。凛花と蒼の先輩。
歩いている。海沿いの道を。三年間歩いた道を。最後の日に。
明日からも歩く。同じ道を。しかし通学ではなく散歩として。制服ではなく私服で。一人ではなく彩音と。
同じ道が違う道になる。卒業の前と後で。名前がつく前と後で世界が変わったように。卒業の前と後で道が変わる。
帰宅。自室。制服を脱いだ。最後の制服。ハンガーにかけた。明日からは着ない。
窓を開けた。三月の空気。春の風。潮の匂い。海の音。
机の上にノートがある。十三行のノート。鞄から出した。最後に。
開かなかった。開く必要がない。十三行は内側にある。声で話す本文が続いている。毎日。
しかしノートを手に持った。重さを感じた。ノートの重さ。四月から十二月まで。八ヶ月分の感情が十三行に圧縮されている。
ノートを本棚にしまった。鞄ではなく本棚に。陽太の空の紅茶缶が部屋に飾ってあるように。俺のノートは本棚に並ぶ。お守りから記念品へ。
三月の午後。卒業の日の午後。
翻訳者が卒業した日。高瀬恒一が残った日。工作室が凛花に渡った日。
明日、彩音に会う。工作室の前で。海を見る。手を繋ぐ。普通に。毎日。
それだけだ。それだけで十分だ。
三月の光。春の始まり。




