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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第46話 引き継ぎの日

第46話 引き継ぎの日


団長バッジを渡す日が来た。 受け取る手が、少しだけ震えていた。


三月 の第三週。卒業式 から五日が経っていた。


桜 は七分咲き になっていた。あと数日 で満開 だ。校庭 の桜 が。ピンク の雲 のように。空 に広がっている。


卒業 した。制服 はもう着ない。だが三月 いっぱいは校舎 に入れる。事務手続き と。引き継ぎ のために。


今日 が。引き継ぎ の日。


朝 彩音 とLINE をした。


『今日 工作室 で引き継ぎ がある。バッジ を凛花 に渡す』


『大事な日 ですね。 頑張って。 私 は大学 のオリエンテーション で行けないけど。 応援 してます』


『ありがとう。 夜 電話 する』


『はい。 待ってます』


付き合い始めて 五日。 毎日LINE をしている。毎日 ではないが 電話 もする。 ぎこちなさ は少しずつ減っている。三分半咲き が。四分 くらいに。


彩音 との恋 は。ゆっくり進んでいる。完全 ではない。翻訳不能 のまま。 でも進んでいる。


今日 は。恋 の話 ではない。


工作室 の話 だ。



午後二時。 朝凪高校。旧部室棟。


工作室 のドア の前 に立った。私服 で。 ノック した。


「どうぞ」


凛花 の声。


開けた。


四人 がいた。凛花。蒼。陽太。 そして俺。最後 の四人。


凛花 がデスク の前 に座っていた。団長 の位置 に。五冊目 のノート が開いている。ペン を持っている。


蒼 がPCの前 に。いつも の位置。 口角 は五ミリ くらい。リラックス している。


陽太 が窓際 に。メロンパン を齧っている。 最後 のメロンパン。工作室 で食べる 最後 の。


「全員 揃った な」


俺 が言った。


「揃いました」


凛花 が答えた。


「じゃあ 始める。 引き継ぎ の。最終 ミーティング」


ホワイトボード の前 に立った。最後 に。 マーカー を持った。


書いた。


「引き継ぎ項目」


「一。団長バッジ 凛花 へ」

「二。鍵 凛花 へ(済)」

「三。ルール の確認」

「四。久我先生 との連携体制 の確認」

「五。新入生勧誘 の方針」


五項目。 全部 確認 する。


「一。バッジ から」


ポケット に手 を入れた。 取り出した。


小さな バッジ。工作室 の。桐生玲奈 が作った。恒一 が受け取った。 そして今日。凛花 に渡す。


バッジ は。ただの金属 だ。安い。百均 で買ったような ピンバッジ に。マーカー で「恋路工作室」 と書いてある。玲奈 の字 で。 雑 な字。合理的 な人間 は。字 が雑 だ。


だが このバッジ に。二年分 の重さ がある。玲奈 が工作室 を作ったとき から。恒一 が受け継いで。依頼者 の恋 を翻訳 してきた時間 が。 この小さな金属 に。


「凛花」


「はい」


「このバッジ は。玲奈先輩 から俺 が受け取った。去年 の三月 に。工作室 の前 で」


「知って います。 記録 してあります。一冊目 に」


「一冊目 か。 一年前 だ。 今日。俺 はお前 に渡す」


凛花 が立ち上がった。デスク の前 から。 俺 の前 に。向かい合った。


手 を差し出した。バッジ を載せて。


凛花 の手 が。少しだけ 震えていた。


「先輩 。 私 でいいんですか」


「いい。 というか お前 しかいない」


「蒼くん も」


「蒼 はデータ屋 だ。団長 ではない。 団長 はお前 だ。記録者 であり。参謀 であり。 凛花 が団長 だ」


「記録者 が団長 に?」


「記録者 だからこそ だ。お前 は三年分 の工作室 を記録 してきた。五冊 に。 工作室 の歴史 を一番 知っている人間 が。次 を導く。 当然 だ」


凛花 の目 が。赤くなった。 泣いて はいない。堪えている。


「受け取り ます」


凛花 の手 が。バッジ に触れた。 俺 の手 から。凛花 の手 に。バッジ が移った。


小さな金属。 百均 のピンバッジ。雑 な字。 だが重い。二年分 の。


「凛花。 ルール は変えていい。やり方 は変えていい。 ただ一つ。心 は操作しない。 これだけ は」


「心 は操作しない。 原則① ですね」


「ああ。 玲奈先輩 が作った。最初 の原則。 これだけ は。変えるな」


「変え ません。 絶対 に」


凛花 がバッジ を握った。 小さな手 で。五冊分 のノート を書いてきた手 で。


「二。鍵 は。もう渡してある。 卒業式 の日 に」


「はい。 受け取り済み です」


「三。ルール の確認。 ver.2 のルール は。全部 覚えてるな」


「覚えて います。 でも」


「でも ?」


「ver.2 のまま ではなく。 更新 したい んです。 ver.3 を。作りたい」


ver.3。 凛花 が。自分 のバージョン を。


「更新 するのか」


「はい。 恒一先輩 の工作室 を真似る んじゃなく。 私たち の工作室 を作る」


「私たち の」


「はい。 受け継ぐ けど。コピー はしない」


蒼 が言った。


「……それ。かっこいい ですね」


「かっこ 」


「かっこいい です。 コピー じゃなく。新しい バージョン。 僕 もサポート します。柊先輩」


蒼 の声 が。落ち着いていた。 入部 したとき の。データ だけを頼る 不安定 な声 ではなく。自分 の立ち位置 を知っている 安定 した声。


「僕 はデータ で。先輩 の言葉 を支えます。 去年 佐藤さん の依頼 で。二人 でやれた とき。分かりました。 データ だけじゃダメ で。言葉 だけでもダメ で。 二つ が合わさって。初めて 工作室 になる と」


「蒼くん 」


「柊先輩 の言葉 と。僕 のデータ で。 翻訳者 はいなくなる けど。別 の形 の支援 ができる。 新しい工作室」


凛花 と蒼 が。向かい合った。 記録者 とデータ屋 。かつて 「忘却屋 と同じ」 と凛花 が蒼 を叱った二人 が。今 は最も信頼 できるパートナー になっている。


「ありがとう 蒼くん。 一緒 にやろう」


「はい。 よろしくお願い します」


蒼 の口角 が。七ミリ に達した。 最大値。この七ミリ が。蒼 の成長 の証 だ。数字 で測れる 唯一 の成長。 だが数字 で測れない成長 のほうが。ずっと大きい。


「四。久我先生 との連携体制」


「月次 の情報共有 は。私 が引き継ぎます。 久我先生 には。もう連絡 してあります。『凛花さん と継続 する』 と。久我先生 も了承 しています」


「了承 済みか。 仕事 が早い な」


「参謀 ですから。 先回り が仕事 です」


「参謀 は卒業 だろ。 団長 になったんだから」


「参謀 兼団長 です。 人 が少ない ので。兼任 します」


兼任。 凛花 らしい。効率的 で。堅実 で。


「五。新入生勧誘。 四月 に新一年生 が入ってくる。 勧誘 の方針 は」


「掲示板 に貼り紙 を出します。 去年 と同じ形 で。 『恋の悩み、聞きます。 恋路工作室』 と」


「シンプル だな」


「シンプル が一番 伝わる って。先輩 が教えてくれました」


「俺 が」


「はい。 北村さん のとき。『名前 一つで行動 が変わる』 って。 シンプルな言葉 が一番 深い って」


「覚えて るのか。 全部」


「五冊 に記録 してあります。 先輩 の言葉 は。全部」


五冊。 凛花 の五冊 のノート に。俺 の翻訳 が。全部 記録 されている。俺 がいなくなっても。 言葉 は残る。紙 の上 に。


「凛花。 五項目 全部。確認 した。 引き継ぎ は。これで完了 だ」


「完了 」


「ああ。 工作室 は。お前 と蒼 のもの だ。 四月 から。正式 に」


凛花 がバッジ を見た。手 の中 の。小さな金属。


「先輩。 一つ 聞いていいですか」


「何だ」


「怖く ないですか。 手放す のが」


「手放す 」


「工作室 を。 翻訳者 の席 を。ホワイトボード の前 を。 全部。手放す のが」


怖い か。


「……怖い かもしれない。 少し だけ」


正直 に答えた。


「工作室 は。俺 の全部 だった。高校生活 の。 翻訳者 として。団長 として。 この六畳 の部屋 が。俺 の居場所 だった」


「居場所 」


「手放す のは。怖い。 でも」


「でも ?」


「場 を作った。場 を手放した。 それが工作室 の哲学 だ。 園田 に教えた。北村 に教えた。安藤 に教えた。 全員 に。場 を手放す ことを。 自分 にも」


「自分 にも」


「ああ。 工作室 を手放す。翻訳者 の席 を手放す。 凛花 と蒼 に。渡す。 怖い けど。正しい」


凛花 の目 から。涙 が落ちた。一滴。


「先輩 」


「泣くな 凛花」


「泣いて ません。 目 にノート の粉 が」


「ノート の粉 は目 に入らない」


「入る んです。 五冊分 の 」


笑った。 陽太 が。「目にメロンパンの粉が入った」 と言ったのと同じ だ。工作室 の人間 は。泣くとき に同じ言い訳 をする。


陽太 が。窓際 から。


「恒一。 俺 からも。一つ」


「何だ」


「工作室 楽しかったな」


「楽しかった。 お前 と」


「俺 と。凛花 と。蒼 と。 お前 と」


「ああ。 四人 で」


「四人 の工作室 は。もう終わる」


「終わる」


「でも 凛花 と蒼 の工作室 が始まる」


「始まる な」


「始まる。 場 は続く。人 は変わっても」


場 は続く。 玲奈 が作った場 を。恒一 が引き継いだ。恒一 が育てた場 を。凛花 が引き継ぐ。凛花 が更新 する場 を。次 の誰か が引き継ぐ。


「それが 場 を作り続ける ということだ」


声 に出した。 工作室 で。四人 の前 で。


「工作室 は続く。俺 がいなくても。陽太 がいなくても。 凛花 がいる。蒼 がいる。 新しいメンバー が来る。 場 は。続く」


陽太 が。メロンパン の最後 の一口 を。放り込んだ。


「やめろ 恒一。 泣く だろ」


「泣いて ない」


「泣きそう だ。 目 が 」


「メロンパン の粉 が」


「お前 もか」


笑った。 四人 で。工作室 で。 最後 の。四人 の笑い。


窓 の外 で。桜 が揺れていた。七分咲き。 もうすぐ満開 だ。



引き継ぎ の全項目 が終わった。


蒼 と陽太 が先 に帰った。陽太 は真白 との約束。蒼 は データ の整理。


工作室 に。俺 と凛花 が残った。


「先輩」


「何だ」


「最後 に。一つだけ」


「一つだけ って。凛花。お前 の『一つだけ』 は。いつも二つ あるぞ」


「今日 は。本当 に一つ だけ です」


凛花 がバッジ を胸 に近づけた。 まだ付けていない。今日 は持っている だけ。 四月 の始業式 から。正式 に付ける。


「先輩 が作ってくれた工作室 を。受け継ぎます。 でも。コピー はしません」


「ああ」


「私 は翻訳者 じゃない。恒一先輩 のように。感情 を読んで。名前 をつけることは。できない」


「できなくていい」


「はい。 できなくていい。 私 は記録者 です。人 の言葉 を。正確 に記録 する。 蒼くん のデータ と。私 の記録 と。 翻訳 の代わり に。別 の形 で。依頼者 の声 を受け止める」


「別 の形 の工作室」


「はい。 ver.3。 私たち の。 恒一先輩 のver.2 の上 に。私たち のルール を加える。 アフターケア の項目 を。 園田さん のことがあったから」


園田。 設計図 に依存 した依頼者。副作用 が出た。 去年 工作室 が壊れかけた原因。


「アフターケア 」


「はい。 依頼者 のその後 にも目 を配る。設計図 を渡して終わり じゃない。 場 を手放した後 も。見守ること を忘れない。 それが 私 が加える 新しいルール です」


「凛花 お前 」


「園田さん の件 で。先輩 が苦しんだのを見ていました。設計図 が副作用 を生んだ。 それは 設計図 を渡した後 のケア が不足 していたから。 次 は。渡した後 も。見守る」


ver.3 の新ルール。アフターケア。 園田 の副作用 への回答。 俺 が気づけなかったこと を。凛花 がルール にした。


「お前 は俺 を超えた な」


「超えて ません。先輩 が気づいた ことを。ルール にしただけ です」


「それ を『超えた』 って言うんだ。 気づく だけなら誰 でもできる。ルール にする のは。団長 にしかできない」


凛花 の涙 が。また落ちた。 一滴。二滴。


「先輩 」


「泣くな」


「泣いて ます。 ノート の粉 じゃないです。 泣いて ます」


「……ああ。 泣いて いい」


「先輩 が工作室 を作ってくれた から。 私 は五冊 のノート を書けた。先輩 が翻訳 してくれた から。 私 は記録 できた。 全部 先輩 が」


「全部 じゃない。 お前 が書いた んだ。五冊 を。 俺 は翻訳 しただけ。記録 したのは凛花 だ」


「記録 が。私 の武器 ですか」


「武器 だ。 翻訳 より強い かもしれない。 翻訳 は消える。声 だから。 記録 は残る。紙 の上 に。 五冊分 が。証拠 として」


「証拠 」


「工作室 が存在 した証拠。依頼者 の恋 が本物 だった証拠。 全部。お前 の五冊 に。残っている」


凛花 は。涙 を拭った。 ティッシュ で。自分 のポケット から。 いつも 依頼者 に渡していた ティッシュ を。今日 は自分 に。


「先輩。 ver.3。 完成 したら。見てもらえますか」


「見る。 いつでも」


「四月 の始業式 の前 までに。 作ります」


「作れ。 お前 なら。いいもの が作れる」


「いい もの に。します。 先輩 のver.2 を超える 」


「超えなくていい。 違う もの を作れ。超える んじゃなく。隣 に置け。 ver.2 と ver.3 が。並んで立つ 工作室 を」


「並んで 」


「ああ。 俺 の工作室 と。お前 の工作室 が。同じ場所 に。並んで。 歴史 として」


凛花 が。バッジ を握りしめた。 強く。


「はい。 並べます。 先輩 の隣 に」


工作室 の窓 から。海 が見えた。三月 の海。青い。 桜 が風 に揺れている。七分 の桜 が。


「先輩。 帰ってください。 彩音さん に電話 するんでしょう」


「なんで 知って 」


「参謀 ですから」


「参謀 は卒業 だろ」


「参謀 兼団長 です。 先輩 の恋路 も。ずっと見守り ます」


「見守る って。 もう引き継いだ のに」


「引き継いだ のは工作室 です。先輩 への心配 は引き継げません。 ずっと 心配 してます」


「心配 するな」


「します。 記録者 ですから。先輩 の幸せ も。記録 します。五冊目 に」


「五冊目 に。 俺 の恋 の記録 が残る のか」


「残ります。 工作室 の歴史 として」


笑った。 二人 で。工作室 で。 最後 の。団長 と新団長 の。


「じゃあ 帰る」


「はい。 帰ってください」


立ち上がった。 荷物 を持った。 ドア に向かった。


ドア の前 で。振り返った。


六畳 の部屋。パイプ椅子 四脚。スチールデスク。ホワイトボード は白い。 設計図 は全部消えた。窓 から海。桜。


凛花 がデスク の前 に座っている。団長 の位置 に。バッジ を手 に。ノート を脇 に。


似合っている。


「凛花」


「はい」


「工作室 を。頼む」


「 はい。任せてください」


ドア を開けた。 廊下 に出た。暗い廊下。蛍光灯 は消えている。


ドア を閉めた。 プレート が目 に入った。


「恋路工作室」

「運営責任者・柊凛花」

「データ分析・星野蒼」

「創設者・桐生玲奈」


四行 のプレート。 恒一 の名前 はない。 だが。このプレート の下 を。一年間。通った。毎日。 その事実 は。プレート には書かれていない。 でもある。見えなくても。


プレート に。手 を触れた。 冷たい金属。


「ありがとう」


声 に出した。 プレート に。ドア に。六畳 の部屋 に。 全部 に。


廊下 を歩いた。 最後 の廊下。旧部室棟 を出た。校庭 を横切った。


正門 の前 で。立ち止まった。


振り返った。 朝凪高校。校舎。旧部室棟。 校庭 の桜。七分咲き の。


「恋路工作室。 俺 の青春 の全部 が。あのドア の向こう にある」


声 に出して 呟いた。 正門 で。


「卒業 しても。忘れない。忘れなくていい。 そして 始めていい。次 の章 を」


次の章。 工作室 は凛花 に渡した。翻訳者 の席 は空 になった。 だが俺 の人生 は続く。


彩音 との恋。大学。文学部。 翻訳 を学ぶ。言葉 を学ぶ。 翻訳者 ではなくなっても。言葉 への興味 は消えない。


正門 を出た。堤防沿い の道 を歩いた。 三月 の午後。風 が温かい。 春 だ。もう。


スマホ を取り出した。彩音 に電話 をかけた。


二コール で出た。


「恒一くん」


「彩音」


「引き継ぎ 終わった ?」


「終わった。 バッジ 渡した。凛花 に」


「お疲れさま でした。 寂しく ないですか」


「少し な。 でも正しい と思う」


「正しい ですか」


「ああ。 場 を作って。場 を手放す。 それが工作室 の哲学 だ。 でも」


「でも ?」


「手放した後 も。見えなくても。ある って。 お前 が教えてくれた。桜 みたいに」


「桜 」


「三分咲き でも桜 は桜 だろ。 工作室 を手放しても。工作室 は工作室 だ。 俺 の中 に。ずっと」


「……恒一くん。 それ 翻訳 してますよね」


「え 」


「感情 を翻訳 してる。 桜 の比喩 で」


「あ 」


「翻訳 しない って言ったのに」


「……癖 だ」


「癖 ですか。 翻訳者 の」


「翻訳者 は卒業 したはず なのに。 癖 だけ残ってる」


「いい んじゃないですか。 癖 くらい」


「いい のか」


「はい。 翻訳者 じゃなくなっても。翻訳者 だった痕跡 が残っている。 それは消さなくていい」


消さなくていい。 忘れなくていい。 去年 俺 が彩音 に言った言葉 と。同じ構造。


「痛み は消さなくていい って。俺 が言った」


「言いました。 同じ です。翻訳者 の癖 も。消さなくていい。 それが。あなた だから」


「……ありがとう」


「事実の確認 です」


「まだ 使うのか。それ」


「使います。 ずっと」


笑った。 電話 の向こう で。彩音 も笑っている。 声 が聞こえる。柔らかい。


「彩音」


「はい」


「今日 で。工作室 の引き継ぎ が終わった。 俺 はもう。工作室 の人間 じゃない」


「はい」


「ただの 高瀬恒一 だ。 翻訳者 でも。団長 でも。 ただの」


「ただの 高瀬恒一」


「ああ。 ただの お前 の彼氏」


「……恥ずかしいこと 言いますね」


「恥ずかしい か」


「恥ずかしい です。 でも 嬉しい」


「嬉しい か」


「はい。 事実 の 」


「確認 だろ。知ってる」


「知ってますよね。 もう」


堤防 を歩きながら。電話 を続けた。 海 が光っている。三月 の海。 桜 が揺れている。七分咲き の。


工作室 を手放した。翻訳者 を脱いだ。 だが。


手 の中 に。何 かが残っている。バッジ ではない。鍵 でもない。 もっと柔らかい 何か。


言葉 だ。


一年間 紡いできた言葉 が。翻訳者 の辞書 に。全ページ 分。 残っている。


手放しても 消えない。 見えなくても ある。


恋路工作室 の翻訳者 だった男 が。


ただの男 になって。


好きな人 と電話 をしながら。


海沿い の道 を歩いている。


三月 の。春 の。 七分咲き の。


いい日 だ。


凛花 がバッジ を握って。新しい工作室 を作り始めている 頃。


俺 は。電話 の向こう の声 を聞いて。笑っている。


それで 十分 だ。


十分。

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