第47話 朝凪高校の噂
第47話 朝凪高校の噂
朝凪高校から噂は消えなかった。
でも、噂の中で生きる方法を、みんなが知った。
三月の後半。卒業式まであと十日。桜が満開だった。朝凪高校の校門からグラウンドまでの並木が桜色に染まっている。風が吹くと花びらが舞う。春の定番の風景だ。しかし今年の春は、去年の春と少しだけ違っている。
校内の空気が変わった。四月から十一ヶ月。あの頃と同じ校舎、同じ制服、同じ教室。しかし廊下を歩く生徒たちの空気が、微かに違う。
匿名掲示板はまだ動いている。噂はまだ流れている。誰かの恋の話、誰かの失敗の話、誰かの秘密の話。消えてはいない。噂は人間がいる限り消えない。水谷の件で学んだ通りだ。噂を消すことはできない。しかし噂の中で生きることはできる。
変わったのは、生徒たちの反応だ。
掲示板に新しい噂が立つ。以前なら、それが即座に断罪ゲームに発展していた。匿名の群衆が集まって、名前の分かった誰かを叩く。しかし今は、断罪ゲームが起きにくくなっている。完全になくなったわけではない。しかし頻度が下がった。
理由は複数ある。
一つ目。忘却屋が消えた。影山がアカウントを削除した後、忘却屋のフォーマットを模倣していた偽アカウントも自然消滅した。本体が消えれば模倣犯は持続できない。匿名の情報収集サービスが消えたことで、個人情報が匿名の海に流出するルートが一つ塞がれた。
二つ目。工作室が存在している。「やばいときに行ける場所がある」という共通認識が校内に広がった。恋の問題を抱えたとき、匿名掲示板に書き込む代わりに、工作室に行くという選択肢ができた。掲示板は匿名だが、工作室は対面だ。対面の相談は匿名の投稿より丁寧に扱われる。
三つ目。これが一番大きい。工作室が炎上して、復活したという事実自体が、メッセージになっている。匿名の攻撃に晒されても、壊れても、直せる。潰されても、立ち上がれる。工作室がそれを証明した。その証明が、校内の空気を少しだけ変えた。
「あの掲示板、最近マシになったよね」
廊下で聞こえた声。一年生の女子。すれ違いざまに。
「でも噂はなくならないよ」
「うん。でも、やばいときに行ける場所があるって分かったから。工作室あるし」
「行ったことあるの」
「ない。でもあるって知ってるだけで違う。なんか安心する」
行ったことがなくても、あるだけで安心する。場が存在することの意味。工作室が作っていたのは個別の依頼への対応だけではなかった。「場がある」という事実そのものが、校内の空気を変えていた。
昼休み。廊下を歩いていると、声をかけられた。
「高瀬先輩」
振り返った。水谷花凛。依頼②の依頼者。一年生。あの頃は噂に潰されかけていた女子。
水谷の雰囲気が変わっていた。髪型が違う。ショートカットにしている。以前はロングだった。ロングのときは、髪で顔を隠すような仕草をしていた。今は顔が見える。隠していない。
「久しぶりだな。元気そうだ」
「はい。元気です。あのときはありがとうございました」
水谷が頭を下げた。工作室の活動停止中に廊下ですれ違ったとき、水谷は声をかけられなかった。炎上中の工作室と関わることが怖かったのだ。しかし今は違う。工作室が復活し、炎上が収まり、噂の温度が下がった。声をかけられるようになった。
「結局、自分で何とかしたんですけどね。噂は消えなかったけど、気にならなくなりました。時間が経って」
「それでいいんだ。最初から、そう設計してた」
「設計してたんですか」
「工作室は完全救済を約束しない。噂を消すことはしなかった。噂の中で生きる方法を設計しただけだ。あとは水谷自身が時間をかけて、自分で立ち直った。それが正しい」
水谷が微笑んだ。一年前とは別人の笑顔だ。噂に怯えていた顔ではない。噂の中で自分の足で立っている顔。
「先輩。工作室、来年もあるんですよね」
「ある。俺は二年になるが、工作室は続ける」
「よかった。友達が相談したいって言ってたんです。でも今年は三年生の依頼が優先だったみたいで」
「四月からまた受け付ける。友達に伝えてくれ」
水谷が手を振って去っていった。ショートカットが揺れている。軽い足取り。一年前に工作室に来た、うつむきがちな一年生とは別人だ。
次の角を曲がると、もう一人。
佐々木。依頼③の依頼者。断罪ゲームから救い出した二年生。佐々木は女子と一緒に歩いていた。新しい彼女だろう。手は繋いでいない。しかし距離が近い。親しい距離。
佐々木が俺に気づいた。
「高瀬。久しぶり」
「佐々木。元気そうだな」
「おかげさまで。あのときは」
「いい。礼はいらない。お前が元気なのが一番だ」
佐々木が隣の女子を紹介した。同じクラスの子。恋人かどうかは聞かなかった。翻訳者の目には、二人の距離が恋の初期段階であることが見えた。しかし翻訳しない。佐々木の恋は佐々木のものだ。工作室の管轄外。
「工作室、ありがとな。あのとき助けてもらわなかったら、今の俺はない」
佐々木が素直に言った。炎上中は言えなかった言葉。工作室が復活して、炎上の記憶が薄れて、ようやく言えるようになった言葉。
「助けたんじゃない。場を作っただけだ。立ち直ったのはお前自身だ」
「そう言うと思った。高瀬はいつもそう言う」
佐々木が笑った。去っていった。新しい彼女と並んで。
廊下を歩きながら、過去の依頼者たちの顔を思い出した。
藤川。依頼①。三浦に告白した。告白の結果を俺は知らない。工作室は結果を追跡しない。撤退線の外。しかし先日、藤川を廊下で見かけた。三浦と一緒に歩いていた。並んで。距離が以前より近かった。告白が成功したのか、それとも告白の結果に関わらず親しくなったのか。分からない。分からなくていい。藤川が自分の足で歩いている。それだけで工作室の仕事は完了している。
園田と瀬尾。依頼④。「名前のない距離」を見つけた二人。あれから半年以上経っている。文化祭で隣り合わせて作業した二人が、今どんな距離にいるのかは知らない。しかし園田が見つけた「名前のない距離」という概念は、工作室の中に生き続けている。恒一と志帆の関係に。玲奈の中に。工作室ver.2のルールの根底に。あの概念がなければ、ver.2は今の形にはなっていなかった。
日下部。依頼⑥。篠原に「ありがとう」を伝えた三年生。卒業式で篠原と隣の席に座るだろう。ありがとうを伝えた後の、勝ち負けのない距離で。
森本。依頼⑦。夏の恋を無害化した三年生。あの便箋を胸ポケットに入れたまま卒業するだろう。未来の自分への手紙を持って。
全員が、工作室を通り過ぎていった。場を使って、自分の足で立って、去っていった。工作室は通過点だ。目的地ではない。通過する場所。通過した後、依頼者は自分の道を歩く。
それでいい。
完全救済はしない。場を作るだけ。場があるということ自体が、この学校の共有財産になった。
放課後。工作室。
依頼ボードを見た。現在進行中の依頼が三件ある。工作室は日常に溶け込んでいる。特別な組織ではなくなった。炎上の記憶が薄れ、再起動のインパクトも薄れ、工作室は朝凪高校の風景の一部になった。放課後に旧部室棟に行けば、恋の相談に乗ってくれる人たちがいる。それだけ。それだけで十分。
陽太が窓際で伸びをしている。凛花がノートに何か書いている。玲奈は今日はいない。卒業準備で忙しいのだろう。
「恒一」
陽太が声をかけた。
「ん」
「今日、廊下で水谷に会ったんだろ。見たぞ」
「ああ。元気そうだった。髪切ってた」
「佐々木にも会ったろ。新しい彼女と歩いてた」
「見てたのか」
「コミュ力お化けは校内の人間関係を全把握してるんだよ」
「気持ち悪いな」
「褒めてくれ」
笑い声が工作室に響いた。日常だ。十ヶ月前の四月には想像もしなかった日常。しかし確かに、ここにある。
凛花がノートから顔を上げた。
「先輩。来年度の引き継ぎ資料、そろそろ作り始めたほうがいいです」
「引き継ぎ資料」
「はい。玲奈先輩が卒業します。顧問がいなくなります。三年生の依頼者も卒業します。来年度の工作室は、先輩と陽太先輩と私の三人で始まります。新メンバーの募集も必要です」
凛花は先を見ている。記録者は過去を記録するだけでなく、未来を見据えている。観測者をやめた凛花は、設計補佐として未来の設計にも参加している。
「引き継ぎ資料は凛花のノートが土台になる。三冊のノート。一年分の記録。あれが次のメンバーの教科書だ」
「教科書なんて大げさですって」
「大げさじゃない。もう一つ。ver.2のルールノートも引き継ぎ資料にする。五つのルールと無害化のレシピ。これが工作室の方法論だ。来年度のメンバーにも共有する」
「了解です。三月中にまとめます」
凛花がノートに書き始めた。引き継ぎ資料の目次。記録者が未来のための記録を書いている。
「あとは」
俺はホワイトボードを見た。五つのルールが書かれている。九月に書いた文字。半年経っている。マーカーの文字が少し薄くなっている。
「卒業式の後、ホワイトボードを書き直す。ルールは同じ。しかし字を新しくする。来年度の最初の日に、新しい字で。俺の字で」
「先輩の字、ちょっと右に傾いてますよね」
「癖だ」
「知ってます。記録してますから」
凛花が微笑んだ。記録者は全てを記録している。翻訳者の字の癖まで。
陽太が窓から外を見ていた。桜が満開の校庭。
「来年、新メンバー入るといいな。翻訳者は恒一一人じゃきつい。もう一人、翻訳できるやつがいると楽だ」
「翻訳者は育成に時間がかかる。俺も最初は下手だった」
「下手だったか」
「下手だった。藤川の最初の翻訳は、正確だったが冷たかった。玲奈先輩に何度も修正された。温度がないと。正確なだけでは翻訳にならないと」
「今は温度あるもんな」
「壊れたからだ。壊れて、自分の痛みを知って、翻訳に温度が入った」
「壊れることが成長ってやつか」
「そうだ。来年度の新メンバーにも、壊れる機会があるかもしれない。壊れることを恐れないでほしい。壊れても工作室は支える。ルール⑤だ」
「ルール⑤、いいルールだよな。お前が作っただけある」
「俺が壊れたから作れたルールだ」
「自虐か」
「事実だ」
笑い声。日常。工作室の日常。
帰り道。一人で海沿いの道を歩いた。三月の夕暮れ。桜の花びらが風に乗って海に向かって飛んでいく。ピンク色の花びらが灰色の防波堤の上に散っている。春の色。
十日後に卒業式がある。
玲奈が卒業する。朝凪高校から。工作室から。顧問として最後まで見守ってくれた玲奈が、去る。
影山も卒業する。忘却屋を閉じた影山が、朝凪高校を出て行く。
日下部も。森本も。三年生が全員去る。
去年の四月に工作室を作った玲奈と影山。去年の春に始まった物語の最初の登場人物たちが、今年の春に去っていく。
しかし工作室は残る。恒一は二年になる。陽太も二年になる。凛花は二年になる。三人が残る。新メンバーを迎えて、来年度の工作室が始まる。
引き継ぎ。世代交代。一年が終わり、次の一年が始まる。季節が巡る。恋も巡る。噂も巡る。朝凪高校の日常は続いていく。
工作室がある限り、「やばいときに行ける場所」がある。場があれば、人は立てる。立てれば、歩ける。歩ければ、恋路は続く。
家に着いた。自室の机に向かった。
引き出しからプリントを出した。三月の卒業式のプログラム。今日配布されたもの。
卒業生の名前が並んでいる。五十音順。
か行。桐生玲奈。
その名前を見て、胸が締まった。
玲奈が卒業する。工作室の創設者。旧版のルールを作った設計者。ver.2の顧問。「場を作り続けろ」と言って降板し、「頑張れ」と言って送り出してくれた人間。
名前のない温もりを持った人間。
十日後、玲奈はこの学校からいなくなる。顧問の椅子が空く。窓際のデスクが空く。あの一ミリの笑顔が、工作室から消える。
しかし玲奈が作ったものは消えない。工作室というる場所。ルールという骨格。「心は操作しない」という原則。全部が残る。玲奈が去っても、玲奈が作ったものは残り続ける。
忘却しない。忘れなくていい。
玲奈のことも。工作室のことも。十ヶ月間の全てのことも。
卒業式のプログラムを机の上に置いた。
十日後。最後の引き継ぎ。最後の挨拶。最後の工作室。
玲奈が去る。影山が去る。三年生が去る。
しかし恋路は続く。工作室は続く。
春の風。桜の匂い。潮の匂い。三月の夜の空気。
翻訳者は窓を開けた。春の風が入ってきた。温かい。冬が完全に終わった温度。
卒業式まで、あと十日。
季節が、確実に動いている。




