第48話 卒業と引き継ぎ
第48話 卒業と引き継ぎ
桐生玲奈が卒業する。 恋路工作室の創設者が、去る。
三月の第一週。卒業式の日。
朝凪高校の体育館に パイプ椅子が並んでいた。卒業生の席。在校生の席。保護者の席。 壇上には花が飾られて、紅白の幕がかかっている。窓から入る三月の光が 明るかった。冬が終わって 春の光が差し始めている。
俺と陽太と凛花は 在校生席にいた。二年生の列。 来年は俺と陽太がここに座る。卒業する側に。
「恒一」
陽太が 小声で言った。
「緊張してるか?」
「してない」
「嘘。 手が膝の上で動いてるぞ」
「......うるさい」
卒業式が 始まった。
校長の挨拶。来賓の祝辞。 長い。退屈 ではなかった。一つ一つの言葉を 聞いていた。翻訳者としてではなく。ただ 聞いていた。
卒業証書の授与が始まった。五十音順。 名前が呼ばれるたびに、一人ずつ壇上に上がっていく。
「影山 透」
名前が呼ばれた。
影山が 立ち上がった。壇上に向かって歩いていく。制服。 きちんとしていた。秋に見たときの乱れた服装ではなかった。背筋が伸びている。髪が整っている。 受験が終わって、顔に余裕がある。
壇上で証書を受け取った。一礼。 客席に戻る途中で 一瞬だけ、在校生席のほうを見た。
目が合った。 俺と。
影山は 何も言わなかった。何のジェスチャーもしなかった。ただ 口の端が ほんの微かに上がった。笑み と呼べるかどうか分からないくらいの。だが 穏やかだった。
怒りもない。挑発もない。憔悴もない。 ただ 穏やかに。自分の席に戻っていった。
忘却屋を閉じてから 三ヶ月。影山は 静かに受験勉強をして、静かに合格して、静かに卒業していく。「忘れようとした日々も含めて俺の恋だった」 あの言葉通りに。痛みを抱えたまま 前に進んでいる。
影山透。 穏やかな卒業。
「桐生 玲奈」
名前が呼ばれた。
桐生先輩が 立ち上がった。
壇上に向かって歩いていく。 背筋が真っ直ぐ。歩幅が規則正しい。制服のスカートに 皺がない。ブレザーのボタンが 全て閉まっている。 最後まで、桐生玲奈だった。隙のない。合理的な。 完璧な。
壇上で証書を受け取った。一礼。 深い一礼。校長に向けて。それから 客席を見た。
在校生席を 見た。
俺を 見た。
桐生先輩の目が 俺を見ていた。鉄の目 ではなかった。もっと 柔らかい目。名前のない温もりを湛えた目。
一瞬。 ほんの一瞬だけ。それから目を逸らして 席に戻っていった。
凛花が 隣で、鼻をすすっていた。
「凛花。 泣くな」
「泣いてません。 花粉です」
「三月上旬で花粉は早い」
「早い花粉です」
陽太が 反対側で、目を擦っていた。
「陽太。 お前も花粉か」
「花粉。 俺も早い花粉」
三人とも 泣いていた。花粉ということにして。
卒業式が終わった。
校庭に 卒業生が溢れ出した。写真を撮る。花束を渡す。泣く。笑う。 三月の校庭は、人の感情で溢れていた。
俺たちは 校庭には行かなかった。旧部室棟に向かった。
工作室。 最後のミーティング。桐生先輩を 送り出すための。
鍵を開けた。ドアを開けた。 工作室の中は、いつも通りだった。スチールデスク。パイプ椅子。ホワイトボード。窓から見える海。 全部、いつも通り。
だが今日で 桐生先輩がここに来るのは最後だ。
四人が揃った。 最後の四人。
桐生先輩が いつもの席に座った。端の席。顧問の席。 最後の一回。
俺がデスクの前。陽太がいつもの椅子。凛花がノートを持って。 いつもの配置。
「始めます」
俺が言った。 ホワイトボードの前には立たなかった。今日は 設計の日ではない。
「桐生先輩 桐生玲奈顧問。本日をもって、朝凪高校を卒業されます。恋路工作室の顧問としての任期も 本日で終了します」
声が 震えなかった。震えないように 力を入れていた。
「工作室の創設から 一年と少し。ver.1の設立。五つの依頼。炎上。降板。 ver.2の再起動。顧問としての復帰。影山問題の解決。 全てに、桐生先輩の力がありました」
桐生先輩は 腕を組んで、黙って聞いていた。いつも通り。 だが、目が 潤んでいた。微かに。桐生先輩が工作室で目を潤ませるのを 俺は三度見た。一度目はver.1の降板の日。二度目はver.2の再集合の日。三度目が 今日。
「桐生先輩。 最後に、一つ 引き継ぎをさせてください」
「引き継ぎ?」
桐生先輩が ポケットに手を入れた。何かを取り出した。
小さなバッジ。 手作りの。金属ではなく 厚紙とレジンで作られている。形は 歪な円。真ん中に 小さな字で「恋路工作室」と書かれている。
「これ 」
「団長章。 ver.1を立ち上げたとき、私が作った。影山と二人で 放課後に。レジンが上手く固まらなくて 三回やり直した」
桐生先輩が バッジを、テーブルの上に置いた。俺のほうに 滑らせた。
「受け取れ。 高瀬恒一。恋路工作室、二代目 」
「団長 とは呼ばないでください」
「呼ばない。 二代目運営責任者。お前の好きな呼び方でいい」
俺はバッジを 手に取った。軽い。 レジンの厚紙。歪な円。「恋路工作室」の字。 桐生先輩の字だ。整った、力強い字。
「完全救済はしなくていい。 場を作り続けろ。必要な人間が来たとき ドアが開いている場所であり続けろ」
「了解です」
「ルールは 更新し続けろ。ver.2で終わりじゃない。壊れたら もう一回更新しろ。何度でも」
「何度でも」
「そして 」
桐生先輩が 立ち上がった。
「恋路工作室は 私の最高傑作だった」
声が 震えた。桐生先輩の声が。 初めて聞く、制御されていない声。合理主義の殻の 内側の声。
「でも ver.2は お前の作品だ。高瀬。 私が作ったルールを壊して、更新して、新しい原則を足して。影山の問題を解決して。無害化の概念を作って。 全部、お前がやった」
桐生先輩の目から 涙が落ちた。一滴。頬を伝って 顎から落ちた。
「好きにやれ。 私はもう 口は出さない」
凛花が 泣いていた。声を出さずに。ノートを握り締めて。 ペンが震えている。記録者が 記録できないくらい。
陽太が 「泣くなよ」と言いかけて 止まった。自分の目が赤いことに気づいたからだ。
「泣くなよ って言おうとしたけど。無理だわ」
陽太の声が 掠れていた。
俺は 泣いていなかった。泣きたかったが 泣かなかった。団長章を 握り締めていた。歪な円。レジンの手触り。桐生先輩が一年以上前に作った 工作室の証。
「桐生先輩」
「何だ」
「 了解です。元団長」
桐生先輩は 笑った。泣きながら。 合理主義の殻が完全に剥がれた、素の桐生玲奈の笑顔。十八歳の女の子の笑顔。
「元団長 か。悪くない」
凛花が ノートにペンを走らせた。震える手で。
「 恋路工作室。顧問・桐生玲奈。最終ミーティング。引き継ぎ完了。 団長章、二代目運営責任者・高瀬恒一に授与」
パタン。 ノートが閉じられた。涙で少し インクが滲んでいた。
陽太と凛花が 先に工作室を出た。桐生先輩と二人きりにするために。 陽太が「先に帰るわ」と言って、凛花の肩を押して出ていった。凛花は「まだ記録が 」と言いかけたが、陽太に引っ張られて廊下に消えた。
工作室に 俺と桐生先輩が残った。
夕暮れの工作室。 三月の夕暮れ。春が近い。日が長くなって 五時を過ぎても、まだオレンジの光が残っている。窓から入る光が 桐生先輩の横顔を照らしていた。
桐生先輩は 立ったまま、窓の外を見ていた。海。三月の海。 冬が終わりかけている海。灰色が 少しずつ青に変わっている。
「高瀬」
「はい」
「 ありがとう」
桐生先輩が 振り返った。俺を見た。
「ありがとう。工作室に来てくれて。翻訳者でいてくれて。 ver.1が壊れたとき、ver.2を作ってくれて。影山の問題を 解決してくれて。 全部」
「先輩 」
「玲奈でいい。 もう顧問じゃない。ただの卒業生だ」
「......玲奈」
名前を呼んだ。 二度目だ。一度目はver.1の降板の日。「泣きそうになる」と言われた日。
今日は 桐生先輩は泣きそうにはならなかった。もう泣いた後だから。 涙は乾きかけていた。目が少し赤いだけ。
「高瀬。 一つだけ。最後に」
「何ですか」
桐生先輩は 工作室の中を 見回した。スチールデスク。パイプ椅子。ホワイトボード。窓。海。 全部を、目に焼きつけるように。
「名前は つけなかった」
「......はい」
「お前への この感情に。恋とは呼ばなかった。信頼と呼んでもいい。尊敬と呼んでもいい。 でもどれも、ぴったりではなかった」
桐生先輩の声は 静かだった。合理主義の声 ではなく。もっと 柔らかい声。素の声。
「名前はつけなかった。 でも、これは確かに 私の一番大事な 何かだった」
何か。 名前のない何か。恋でもなく。友情でもなく。信頼でもなく。 全部を含んで、どれにも収まらない、名前のない感情。
「......俺もだ」
声が 小さかった。だが はっきりと聞こえた。
「俺も 名前をつけられない。桐生先輩への この感情は。先輩であり、恩人であり、監査者であり 」
「 それでいい」
桐生先輩が 微笑んだ。
「名前がなくていい。 名前がないまま、持っていく。 卒業しても。大学に行っても。どこにいても。 この 名前のない温もりは、持っていく」
温もり。 桐生先輩が「温もり」という言葉を使うのを 初めて聞いた。合理主義者が使うには あまりに感情的な言葉。
「先輩」
「何だ」
「 卒業おめでとうございます」
桐生先輩は 目を細めた。
「ありがとう 高瀬」
それから 鞄を取った。工作室のドアに向かった。
ドアの前で 立ち止まった。ドアのプレート。 「恋路工作室」。凛花が丁寧な字で書いた紙のプレート。
「いいプレートだ。 凛花の字は、私より上手い」
「先輩の字も 好きですよ」
「お世辞が下手だな。 翻訳者のくせに」
「お世辞じゃない。 本音です」
桐生先輩は ドアを開けた。廊下に出た。振り返った。
「高瀬。 もう一つだけ」
「何ですか」
「お前の恋路は お前が決めた。志帆との関係を。 よくやった」
「......ありがとうございます」
「私の恋路も 私が決めた。 名前をつけないことを」
「はい」
「お前と私は 違う道を歩いた。でも 同じ場所にいた。この工作室に」
桐生先輩は 廊下を歩き始めた。規則正しい足音。 変わらない歩幅。最後まで 桐生玲奈の歩き方。
足音が 遠ざかっていく。旧部室棟の廊下。蛍光灯の三本に一本が 相変わらず切れている。暗い廊下。 だが、廊下の端にある窓から 三月の夕日が差し込んで、オレンジの光が床に帯を作っていた。
桐生先輩の背中が その光の帯を横切った。オレンジの光に 一瞬だけ照らされて 消えた。
廊下の角を曲がって 見えなくなった。
俺は 工作室のドアに立ったまま、しばらく動けなかった。
桐生先輩が 去った。
恋路工作室の創設者が。合理主義の盾が。名前のない温もりが。 去った。
泣かなかった。 泣きたかったが、泣かなかった。翻訳者は 泣き方を知らない。 嘘だ。泣き方は知っている。ただ 今は、泣く場面ではない。送り出す場面だ。笑顔で ではない。ただ静かに 見送る場面だ。
工作室に 戻った。ドアを閉めた。
一人の工作室。
ホワイトボードの前に立った。 白紙 ではなかった。三件の依頼が書かれている。日常の工作室。 桐生先輩がいなくなっても、ホワイトボードは白紙にならない。
団長章を ポケットから出した。歪な円。レジン。「恋路工作室」。
胸のポケットに 入れた。制服の 心臓の上。
「 ありがとう。桐生」
声に出して 呟いた。
名前で呼んだ。 三度目。「先輩」でも「顧問」でもなく。「桐生」。対等な 名前で。
工作室の窓から 海が見えた。三月の海。夕暮れの海。 冬が終わりかけて、春が始まりかけている海。灰色と青の境界。 季節の変わり目の色。
工作室のドアを見た。プレート。「恋路工作室」。 その下に 新しい文字を書くべきだ。
明日 書く。桐生先輩が去った後の 新しい工作室の名前を。
「恋路工作室 団長・高瀬恒一」 いや、団長じゃない。参謀 でもない。運営責任者 長い。
何と書こう。 明日、凛花と相談する。
工作室の鍵を閉めた。帰り道。
堤防沿いの県道。三月の夕暮れ。 日が長くなった。六時近いのに まだ空がオレンジだ。冬よりずっと長い。 春が来ている。
桐生先輩が卒業した。影山が卒業した。 三年生が朝凪高校を去った。
工作室は 続く。俺と陽太と凛花の三人で。 来年は、俺と陽太が三年生になる。凛花が二年生。そしてたぶん 新しいメンバーが入る。一年生が。
ver.2の工作室は 更新し続ける。桐生先輩が言った。「ルールは更新し続けろ。ver.2で終わりじゃない」。
四月が来る。新学期が来る。 新しい依頼が来る。
工作室は 続く。
スマホが振動した。凛花から。
『高瀬先輩。 明日、工作室のドアのプレートを書き直しませんか。新しい体制用に。 私の名前も入れてほしいです。「記録係兼参謀候補・柊凛花」って』
参謀候補。 凛花が、自分で「参謀候補」と名乗った。記録者から 一歩、前に出た。
『書く。 明日、一緒に。お前のデザインで頼む』
凛花から。
『了解です。 いいプレートにします。 桐生先輩のぶんも、忘れないように。小さく、隅に。「創設者・桐生玲奈」って入れていいですか』
『入れろ。 消さない。忘れない。 忘れなくていい』
忘れなくていい。 桐生先輩のことも。影山のことも。ver.1のことも。壊れたことも。 全部。
春が来る。新しい季節が来る。 工作室は、続く。




