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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
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第45話 自分で決める

 第45話 自分で決める


 設計図はない。翻訳もしない。


 高瀬恒一は、自分の言葉で歩き出した。


 三月の日曜日。午後二時。


 中学の近くの公園。ブランコの前。二度目の待ち合わせ。一月にここで志帆の告白を聞いた。あのとき、声にできなかった。辞書に書いた三文字を、喉から先に出せなかった。


 二ヶ月が経った。冬が終わり、春が来ている。公園の桜はまだ蕾だが、膨らんでいる。あと一週間もすれば咲くだろう。三月の空は高い。青が深い。冬の灰色が消えて、春の透明な青に変わっている。


 手ぶらで来た。


 ノートを持っていない。ペンを持っていない。スマホはポケットにあるが、出すつもりはない。翻訳者の道具を全部置いてきた。凛花の助言通り。書かない。声にする。ペンなしで。ノートなしで。


 志帆はブランコに座っていた。


 一月のときは立っていた。鎖を握って立っていた。今日は座っている。足が地面につかない程度の高さで、ゆっくり揺れている。前後に。小さく。子供のようではなく、考え事をしている人間のように。


 私服。春物のカーディガン。マフラーはない。三月の気温はマフラーが要らないほど温かくなっている。ポニーテール。いつもの髪型。


 志帆が俺に気づいた。ブランコが止まった。足を地面につけた。


「来たね」


 一月と同じ一言。しかし声のトーンが違う。一月は覚悟の声だった。今日は柔らかい。待っていた人間の声。「ずっと待ってた」と返信に書いていた。その「ずっと」が声に出ている。


「ああ。来た」


 俺はブランコの隣に立った。座らなかった。立ったまま。志帆を見下ろす形になる。しかし見下ろしているのではない。志帆を正面から見ている。


「待たせた」


「うん。待った。でも、待てた。恒一が来るって分かってたから」


 分かっていた。志帆は翻訳者ではないが、恒一が来ることを分かっていた。LINEに「設計じゃなくて、俺の言葉で」と書いた。あの一文で志帆は分かった。恒一が翻訳者としてではなく、高瀬恒一として来ることを。


「答えを持ってきた。設計書じゃなくて、俺の言葉で」


 志帆がブランコから立ち上がった。俺の前に立った。一メートルの距離。翻訳者の距離でも対峙の距離でもない。二人の人間が向かい合っている距離。


「聞く」


 志帆の声は静かだった。覚悟ではなく受容の声。何を聞いても受け止める準備ができている声。


 俺は深く息を吸った。三月の空気。春の匂い。潮の匂い。土の匂い。花の匂いはまだない。しかしもうすぐ来る。


 口を開いた。


 何を言うか。この瞬間まで決めていなかった。設計書はない。台本はない。現場で、自分の感情で、声にする。藤川がそうだった。日下部がそうだった。設計書を超えた場所で、自分の言葉が生まれる。


「志帆。好きだった」


 声が出た。


 掠れていない。震えていない。自室で練習した声より太い。志帆の前で声にした三文字。好きだった。


 過去形。


 志帆の目が微かに動いた。過去形に反応している。


「中学のときから。お前の隣にいるのが好きだった。窓の外を見てるときの横顔が好きだった。一緒に帰る道が好きだった。お前が笑うと、俺の中の何かが温かくなった。それが恋だったかどうか、当時は分からなかった。でも今なら分かる。好きだった」


 好きだった。過去形。しかし過去形は否定ではない。


「でも今は、違う感情になっている」


 志帆の目が揺れた。大きく。しかし目を逸らさなかった。


「恋とは呼べない何かに変わった。好きだった感情が消えたわけじゃない。消えてない。忘却してない。忘れなくていい。お前のことが好きだった事実は消えない。消す必要もない。ただ、形が変わったんだ」


 翻訳者の言葉ではなかった。翻訳者なら、もっと構造的に、もっと正確に言語化しただろう。しかし今の俺は翻訳者ではない。高瀬恒一だ。高瀬恒一の言葉は、翻訳者の言葉ほど精密ではない。しかし翻訳者の言葉よりも本物だ。


「恋から、名前のない何かに。お前は大事だ。これからも大事だ。でもそれは恋ではない。友情とも少し違う。幼馴染とも少し違う。名前がない」


 名前のない感情。玲奈が自分の中で発見したものと同じ構造だ。しかし玲奈は名前をつけないことを選んだ。俺は名前がないことを認めている。違いは、玲奈のそれは進行形で、俺のそれは完了形に近い。好きだったという過去形から、名前のない現在形に変化した。


「これが、俺の翻訳じゃない、俺の言葉だ」


 言い切った。


 声は震えなかった。目は乾いていた。泣いていない。泣く場面ではない。これは告白ではない。告白の返事でもない。清算だ。日下部が篠原に「ありがとう」と言ったのと同じ種類の着地。勝ち負けのない着地。


「好きだった。過去形だ。でも過去形は否定じゃない。好きだったことは事実で、今も消えてない。ただ、形が変わった。恋から、名前のない何かに」


 もう一度言った。繰り返した。繰り返す必要があった。志帆に正確に伝えるために。翻訳者の精度ではなく、繰り返しの力で。同じ言葉を二度言うことで、一度目では届かなかった深さに届く。


 志帆の目から涙がこぼれた。


 声は出なかった。静かな涙。一月のときと同じだ。志帆は泣くとき声を出さない。涙だけが流れる。


 しかし一月のときと違うのは、志帆の表情だ。一月は覚悟の顔だった。今日は受容の顔。痛みがある。しかし崩壊はない。受け止めている。恒一の言葉を。全部を。


「あんたらしい」


 志帆が涙を拭かずに言った。


「設計じゃない言葉だった。初めて、恒一の言葉を聞いた気がする」


 初めて。中学のときから知っている。転入後にも会っている。何度も話している。しかし志帆は「初めて恒一の言葉を聞いた」と言った。


 翻訳者としての恒一の言葉は、翻訳だった。他人の感情の変換。設計図の読み上げ。しかし今日の言葉は翻訳ではなかった。高瀬恒一自身の声。加工されていない生の感情。志帆はその違いを聞き分けた。


「好きだったって、過去形なんだね」


「ああ。過去形だ」


「今は好きじゃないの」


「好きじゃないんじゃない。形が変わったんだ。好きだった感情が消えたわけじゃない。変質した。恋の温度が下がって、別の温度になった。温かいままだが、焼けるような熱さはなくなった」


 無害化。自分の恋を無害化している。痛みの温度を下げるのではなく、恋そのものの温度が自然に変わった。中学時代の恋は十代の熱量を持っていた。十ヶ月間の翻訳者としての経験を経て、恋の形が変わった。恋は消えていない。変質した。無害化されたのではなく、成熟した。


「名前のない何かって、どんな感じ」


 志帆が聞いた。涙が頬を伝っている。しかし声は安定している。泣きながら聞いている。泣くことと聞くことは同時にできる。


「お前がいると安心する。お前がいないと寂しい。しかしドキドキしない。告白したいとも思わない。付き合いたいとも思わない。ただ、お前がどこかにいて、元気でいてくれたら、それでいい。そういう感じだ」


「それって」


 志帆が涙を拭いた。袖で。乱暴に。拭い方が中学時代と同じだった。


「それって、家族みたいだね」


 家族。


 その言葉が耳に入って、胸の中で反響した。家族。恋人ではない。友人でもない。幼馴染でもない。家族に一番近い。血が繋がっていないが、存在が当たり前になっている相手。いてもいなくても日常は回るが、いないと何かが欠ける相手。


「そうかもしれない。家族に近い」


「家族か。恋じゃなくて」


「恋じゃなくて」


 志帆がまた泣いた。今度は声が混ざった。小さな嗚咽。しかしすぐに収まった。


「正直に言っていい」


「ん」


「痛い。恒一に好きだったって過去形で言われるの、めちゃくちゃ痛い。私はまだ過去形じゃないから。私はまだ好きだから。今も。過去形にできてないから」


 志帆の正直さが胸を刺した。志帆はまだ好きだ。過去形ではない。恒一は過去形に変わった。志帆は変わっていない。


「でも」


 志帆が涙を拭いた。顔を上げた。泣いた後の顔。赤い目。しかし折れていない目。


「でも、分かった。それが恒一の答えなんだね。設計図じゃなかった。翻訳じゃなかった。初めて恒一の生の声を聞いた。痛いけど、嘘じゃなかった。嘘じゃないから、受け止められる」


 受け止めた。志帆は受け止めた。恒一の答えを。過去形を。名前のない何かを。痛みを抱えたまま、受け止めた。


「忘却屋なら、この痛みを消してくれたかもしれない。でも消したくない。恒一に好きだったって言ってもらえた事実は消したくない。過去形でも。過去形でも、好きだったって言ってくれた。それは本物だから。本物の痛みは消しちゃいけない」


 志帆が無害化を自分の言葉で語った。森本と同じだ。忘れなくていい。痛くていい。痛みは本物の証拠だ。


「志帆」


「ん」


「お前は強い」


「強くないよ。泣いてるし」


「泣いてても強い。泣きながら受け止めてる。泣きながら前を向いてる。それは弱さじゃない」


 志帆が鼻をすすった。


「恒一。一つだけ聞いていい」


「ん」


「私のこと、好きだったって気づいたの、いつ」


「辞書に書いたのは十二月。声にしたのは一月。しかし気づいていたのはもっと前だ。たぶん中学のときから。気づいていたが、認めなかった。辞書を閉じていた」


「十ヶ月かかったんだね。工作室に入ってから」


「ああ。他人の恋を翻訳する間に、自分の恋を翻訳する力が育った。遠回りだった。しかし必要な遠回りだった」


「遠回りでも、着いたんだもんね」


「着いた。遅かったが」


「遅くないよ。私が待てたんだから。私が待てる速度で歩いてくれてたんだから」


 志帆の翻訳。翻訳者ではない志帆が、恒一の歩みを翻訳した。「私が待てる速度で歩いてくれた」。それは恒一の遅さへの肯定だ。遅かったのではなく、志帆が待てる速度だった。


「志帆。これからのことを言う」


「うん」


「お前とは、新しい距離を作る。恋人でも友人でもない距離。名前のない距離。近すぎず遠すぎず。連絡は取る。会いたいときは会う。しかし恋人としてではない。幼馴染として。家族に近い何かとして」


 名前のない距離。園田と瀬尾の「新しい距離」の自己適用だ。知ってしまった感情は消えない。消えないなら、新しい距離を作る。距離を変えることで、感情の温度が変わる。


「了解。じゃあ名前のない距離で。恒一と私の距離は、恒一と私が決める。誰にも設計されない距離。工作室にも設計されない距離」


 志帆が笑った。泣きながら。涙と笑顔が同時にある顔。何度目だろう。しかし今日の涙と笑顔は、過去のどの涙と笑顔とも違う。着地の涙と笑顔だ。勝ち負けのない着地。告白して成功でもない。告白して失敗でもない。恋が形を変えて、新しい距離になった。


「じゃあね、恒一」


 志帆が手を振った。「じゃあね」。「またね」ではなく。しかし今日の「じゃあね」には、これまでの全ての「じゃあね」と「またね」の重みが詰まっている。


「じゃあね、志帆」


 志帆が公園を出ていった。ポニーテールが揺れている。三月の光の中を。桜の蕾の下を。


 俺はベンチに座った。同じベンチ。一月にも座った。六ヶ月前にも座った。何度目だろう。このベンチに座るのは。


 泣かなかった。


 泣く場面ではなかった。しかし胸が痛い。痛い。好きだったと言った。過去形で。志帆はまだ好きだと言った。現在形で。その非対称が痛い。


 しかしこの痛みは、無害化されている。


 痛いが、焼けない。痛いが、壊れない。痛いが、立てる。痛みに意味がある。志帆を好きだったことは本物だった。本物だったから痛い。本物の痛みは消さなくていい。忘れなくていい。


 恋は勝ち負けではない。忘れなくていい。痛みと一緒に生きる言葉を見つければ、恋路は続く。


 工作室のテーマ。全体を貫く思想。十ヶ月間かけて形になった言葉。その言葉を今、翻訳者自身が実践した。


 恋は勝ち負けではない。告白して成功するか失敗するかの二択ではない。好きだったと過去形で告げて、それでも相手を大事に思う。名前のない距離を作る。勝ちでも負けでもない着地。恋路の別の形。


 帰り道。海沿いの道を歩いた。三月の午後。春の光。暖かい風。桜はまだ咲いていない。しかし蕾が膨らんでいる。一週間もすれば咲く。花が咲けば、朝凪の海は桜色に染まる。


 歩きながら、十ヶ月を振り返った。


 四月。転入。工作室。翻訳者になった。藤川の告白を翻訳した。水谷の噂を消した。佐々木を救った。園田に新しい距離を作った。瀬尾の本音を引き出した。忘却屋と対峙した。炎上した。玲奈が降りた。陽太が壊れた。凛花が選んだ。影山と向き合った。ver.2を作った。日下部にありがとうを設計した。森本に無害化のレシピを実践した。


 全部が、今日に繋がっていた。全部が、志帆の前に立って三文字を声にするための準備だった。


 好きだった。


 過去形。しかし否定ではない。形の変化。恋から名前のない何かに。温度の変化。焼けるような熱さから、温かさに。


 無害化。自分の恋を無害化した。痛みは残っている。しかし温度が下がった。一緒に生きていける温度に。


 志帆は痛みを持ったまま歩いていく。俺も痛みを持ったまま歩いていく。別々の方向に。しかし名前のない距離で繋がったまま。


 恋路は終わらない。形が変わるだけだ。


 家に着いた。自室の机に向かった。


 ノートを開いた。「志帆に対する記憶の整理」のノート。最後のページ。「好きだ」と書いてある。その下に「声にできなかった」と書いてある。


 新しい一行を書き加えた。最後の一行。


「声にした。好きだった、と。過去形で。志帆は受け止めた。名前のない距離を作った。恋路は続く」


 書いた。これが最後の記録だ。このノートに書くのは、これが最後。


 ノートを閉じた。


 凛花が「書くな、声にしろ」と言った。その通りにした。志帆への言葉は書かなかった。声にした。ペンなしで。ノートなしで。しかしこの最後の記録は、自分のための記録だ。凛花が工作室の記録を書くように、俺も自分の恋路の記録を書いた。


 窓を開けた。三月の夜の風が入ってきた。春の風。温かい。潮の匂い。微かに花の匂い。梅か。桜ではない。桜はまだ蕾だ。しかし梅はもう咲いている。春の最初の花。


 目を閉じた。


 痛い。胸が痛い。しかし焼けない。無害化されている。痛みの温度が、共存可能な温度に下がっている。


 忘れなくていい。志帆を好きだったことを。十ヶ月間、翻訳できなかった日々を。全部、俺の恋路だ。


 恋は勝ち負けではない。忘れなくていい。痛みと一緒に生きる言葉を見つければ、恋路は続く。


 翻訳者は自分の恋路を歩いた。設計図なしで。翻訳なしで。自分の言葉で。


 そしてこれからも歩く。名前のない距離で。名前のない温度で。痛みを持ったまま。


 春が来ている。桜が咲く。新しい季節。


 翻訳者の恋路は、形を変えて続いていく。

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