表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
44/100

第44話 恒一の翻訳

第44話 恒一の翻訳


「忘れなくていいんだ」 森本の言葉は、恒一自身への翻訳だった。


十二月の第三週。冬至の前日。


一年で最も日が短い季節 放課後の工作室に差し込む光が、もう弱い。四時を過ぎると窓の外は暮れかけていて、蛍光灯の光のほうが強くなる。


森本大輝の最終セッション。 無害化プロセスの、最後の日。


工作室。全員が揃っていた。桐生先輩が端の席。陽太がいつもの椅子。凛花がノートを開いて。俺がデスクの前。 そして、森本がパイプ椅子に座っている。


森本の顔が 変わっていた。


二週間前 初めて工作室に来たときの森本は、大きな体を小さくしていた。肩が内側に丸まって。目が縮まって。 痛みから自分を守ろうとしていた。


今日の森本は 違った。背筋が伸びている。肩が開いている。目が まだ少し赤いが 縮まっていない。前を見ている。


「森本。 最終セッションだ。話してくれ。今、あの夏をどう思い出しているか」


森本は 深呼吸した。一つ。ゆっくりと。 それから、口を開いた。


「あの夏の恋を 思い出しました」


声が 二週間前とは違っていた。掠れていない。低いが 力がある。自分の足で立っている声だ。


「棚卸しのとき 全部、言葉にしました。花火大会のこと。海のこと。日焼けのこと。 楽しかった記憶も、痛い記憶も。全部。言葉にしたら 記憶が整理された。ばらばらだった断片が 一つの物語になった感じ」


物語。 森本は自分の言葉で、それを「物語」と呼んだ。


「感謝の手紙を 書きました。海岸で読みました。 泣きました。たくさん。手紙に書いたことを 声に出したら。泣いたけど 泣いた後は 楽だった。泣くことで 何かが出ていった感じ」


陽太が 静かに頷いていた。海岸で、森本の隣に座っていたときのことを 思い出しているのだろう。


「未来の自分への手紙も 書きました。一年後の自分に。 封をして。開けるのは来年の十二月。 何を書いたかは 言いません。自分と、未来の自分の間の 秘密だから」


森本が 少しだけ笑った。 笑えるようになっていた。


「で 今、あの夏を どう思い出しているか」


森本は 窓の外を見た。十二月の海。暗い。冬の海。 夏とは正反対の海。


「まだ 痛い」


声が 正直だった。


「思い出すと 胸が痛い。中田が笑って手を振ったあの瞬間を思い出すと 今でも。消えてない。痛みは 消えてない」


沈黙。


「でも 痛いだけじゃなくなった」


森本の目が 潤んだ。


「高瀬さんが 翻訳してくれた。『泣かなかったのはお前のため。笑顔で送り出してくれた』 って。あの翻訳を 何度も、頭の中で繰り返した。最初は そうかもしれない、って半信半疑だった。でも 何度も繰り返すうちに。中田の笑顔が 違う意味に見えてきた」


「どう 見えるようになった」


「前は 中田だけ平気だったのかって。俺だけが悲しいのかって。 そう見えてた。でも今は 中田も泣きたかったのに、笑ってくれたのかもしれない。俺が前に進めるように。 そう思えるようになった」


「確信はあるか」


「ない。 中田がどう思ってたかは、中田にしか分からない。 でも、どっちの解釈を選ぶかは 俺が決められる。俺は 笑顔で送り出してくれた、って解釈を選ぶ。 そのほうが、あの夏が きれいな物語になるから」


選ぶのは本人。 工作室の原則が、森本の中で 自然に機能していた。翻訳者が提示した別の読み。森本がそれを 自分で選んだ。強制ではなく。操作でもなく。 自分の意思で。


「感謝の手紙を書いて 泣いて。未来への手紙を書いて 封をして。 全部やったら。あの夏の記憶が 痛いだけじゃなくなった。痛いけど ありがとうって思える。痛いけど あの夏があってよかったって思える」


森本の涙が 頬を伝った。大粒。 だが、表情は 泣き顔ではなかった。笑っていた。泣きながら笑っていた。 痛みと感謝が同時にある顔。


「忘れなくていいんだ」


森本が 声に出して言った。


「忘れなくていい。痛くていい。 この痛みは、あの夏が本物だった証拠だから」


忘れなくていい。


その言葉が、工作室の空気に 染み渡った。


俺は 森本の言葉を聞いていた。翻訳者として。 だが同時に、恒一として。森本の「忘れなくていい」は 森本だけの言葉ではなかった。


俺に向けられた言葉でもあった。


忘れなくていい。 志帆を好きだったこと。中学のときから。隣の席で。 好きだったのに翻訳しなかったこと。逃げたこと。仮面をかぶったこと。嘘の依頼を見抜けなかったこと。工作室を壊しかけたこと。 全部、痛い記憶だ。


でも 忘れなくていい。


痛いけど 本物だった。


「森本」


俺は 声を出した。翻訳者の声 ではなかった。恒一の声だった。


「よくやった」


二文字。 それだけだった。翻訳者はもっと的確な言葉を選べる。もっと構造的な分析を述べられる。 だが今は、二文字でよかった。


森本が 泣きながら頷いた。


「ありがとう ございます。工作室に 来てよかった」


陽太が 立ち上がった。森本の肩を ぽんと叩いた。


「お疲れ。 メロンパン食うか?」


「え いいんですか」


「余ってるから。 クリームのやつ」


森本は メロンパンを受け取った。泣きながら 齧った。クリームが口の端についた。 間抜けな顔だった。だが いい顔だった。


凛花がノートに最後の記録を書いた。


「 依頼⑧:森本大輝。最終セッション。依頼者の報告 『忘れなくていい。痛くていい。この痛みはあの夏が本物だった証拠』。 依頼完了」


パタン。


桐生先輩が 頷いた。


「ルール監査 最終確認。全プロセス、ルール抵触なし。撤退線 越えていない。依頼者の状態 安定。 依頼⑧、完了を承認する」


承認。


ホワイトボードに 書き加えた。


「依頼⑧:森本大輝 了」


赤マーカーで「了」。 ver.2の、最後の「了」。


森本は メロンパンを食べ終えて、工作室を出ていった。ドアの前で振り返った。


「高瀬さん。天野さん。柊さん。桐生さん。 ありがとうございました」


四人に 頭を下げた。深く。 それから、笑った。泣いた後の顔で。 出ていった。


足音が廊下を遠ざかっていった。 軽い足音だった。来たときよりも ずっと。



森本が去った後 工作室に四人が残った。


しばらく 誰も口を開かなかった。余韻が まだ残っていた。森本の涙。森本の笑顔。「忘れなくていい」。 その言葉の重さが、工作室の空気に 沈殿していた。


俺は パイプ椅子に座ったまま、ホワイトボードを見ていた。


八つの依頼。 全てに「了」がついている。


依頼①:藤川 了。

依頼②:水谷 了。

依頼③:佐々木 了。

依頼④:園田 了。

依頼⑤:宮前志帆 取下げ(虚偽依頼)。

依頼⑥:田中美咲 了。

依頼⑦:日下部 了。

依頼⑧:森本大輝 了。


七つの「了」と、一つの「取下げ」。 完全救済は一つもない。全ての依頼が 不完全な着地で終わっている。藤川は告白したが結果は不明。水谷は撤退した。佐々木は名前を晴らしたが彼女と別れた。園田は友達に戻ったが名前のない距離だ。日下部は告白しなかった。田中は記憶の混乱を解いたが傷は残った。森本は痛みが消えていない。


完全救済はしない。 それが工作室の原則だ。完全ではない。不完全だ。 だが、ゼロではない。全ての依頼で 何かが変わった。少しだけ。ゼロから少しへ。


志帆が言った。「ゼロから少しは大きい」。


大きい。確かに。


「恒一」


陽太の声が 工作室の静寂を破った。


「終わったな」


「ああ。 森本の依頼が終わった」


「工作室の 最後の依頼か?」


「分からない。 新しい依頼が来るかもしれない。来ないかもしれない。 でも、今は」


今は 区切りだ。ver.2の工作室が、一つの到達点に辿り着いた。


陽太と凛花が帰った。 凛花は「記録の整理があるので」と言って帰り際に俺を見た。目が 何かを伝えようとしていた。「頑張ってください」。 声には出さなかった。目だけで。


工作室に 俺と桐生先輩が残った。


桐生先輩は 端の席に座ったまま、窓の外を見ていた。十二月の夕暮れ。 もう暗い。海が 灰色から紺色に沈んでいく。


「桐生先輩」


「何だ」


「......よくやった って、言ってくれますか」


桐生先輩が 俺を見た。少し 驚いた顔だった。俺が自分から褒め言葉を求めるのは 初めてだったから。


「 よくやった」


声は 短かった。だが 温かかった。名前のない温もり。 桐生先輩の温もり。


「工作室の 翻訳者として。ルール設計者として。 よくやった、高瀬」


「ありがとうございます」


「礼はいい。 で」


桐生先輩が 立ち上がった。デスクの端から。


「もう一つ やらなきゃいけないことがあるだろう」


俺は 頷いた。


「あります」


「言ってみろ」


「志帆に 会いに行きます。自分の言葉で。 翻訳じゃなく」


桐生先輩は 腕を組んだ。いつもの姿勢。 だが、表情が 柔らかかった。ルール監査者の顔ではなく もっと、個人的な顔。


「設計書は」


「要らない」


「撤退線は」


「引かない。 撤退しない。逃げない」


「翻訳は」


「しない。 翻訳者としてではなく、恒一として行く」


桐生先輩は 少し黙った。それから 口の端が上がった。微かに。


「それでいい。 設計書は要らない。お前の言葉で行け」


「......ああ。 自分で決める」


自分で決める。 工作室の原則。選ぶのは本人。 翻訳者が依頼者に言い続けてきた言葉が 今、翻訳者自身に返ってきている。


桐生先輩は 鞄を取った。工作室を出ようとした。ドアの前で 立ち止まった。


振り返らなかった。 だが、声だけが聞こえた。


「高瀬」


「はい」


「 忘れるな。お前の恋路は、お前が決めるものだ」


お前の恋路は お前が決める。


桐生先輩の 「私の恋路は私が決める」の変形。桐生先輩は自分の恋路を 名前をつけないことで決めた。俺の恋路は 俺が決める。


「忘れません」


桐生先輩は 出ていった。ドアが閉まった。足音が 廊下を遠ざかっていく。


一人になった。



工作室。一人。十二月の夜。 窓の外は暗い。海が 見えない。冬の夜は 海の色が消える。波の音だけが 微かに聞こえる。


ホワイトボードの前に立った。八つの依頼。七つの「了」。


森本の「忘れなくていい」が まだ、耳に残っている。


忘れなくていい。


志帆を好きだったこと。 忘れなくていい。

中学の隣の席。帰り道。文化祭。 忘れなくていい。

好きだったのに翻訳しなかったこと。逃げたこと。 忘れなくていい。

志帆の嘘。「恒一に私を見てほしかった」。 忘れなくていい。

工作室が壊れたこと。桐生先輩が降りたこと。 忘れなくていい。

影山に「お前こそ無害化しろ」と言われたこと。 忘れなくていい。


全部 俺の恋路だ。痛いけど 本物だった。


翻訳者が 自分自身を翻訳する瞬間。


俺は 志帆を好きだった。中学のときから。 過去形だ。好きだった。


好きだった は、否定ではない。過去形は 否定ではない。「好きだった」は その感情が存在したという事実の肯定だ。


そして 今。志帆への感情は 「好きだった」から、何に変わったのか。


翻訳する。 自分自身を。


志帆は 大事だ。今でも。これからも。 だが、「好き」の形が 変わった。中学の頃の 心臓が騒いで、志帆を見るだけで世界が明るくなるような あの激しい「好き」は もう、ない。


代わりにあるのは もっと静かで、もっと深い感情。志帆がいてくれてよかった。志帆に会えてよかった。志帆が俺を見てくれたこと たとえ俺が見返さなくても それが、俺を翻訳者にした。


恋 と呼ぶには、形が変わりすぎた。だが 無 とも呼べない。何かがある。名前をつけにくい何かが。


桐生先輩は 名前をつけなかった。俺は 名前をつける翻訳者だ。名前をつけなければならない。


なら 何と呼ぶ。


「好きだった」 過去形。だが過去形の中に 現在形が溶けている。好きだった。今も 大事だ。恋ではないが 大事だ。名前をつけるなら 。


「感謝」 かもしれない。


志帆への感情の名前。 恋から変容した、新しい名前。「好きだった」の先にある、「ありがとう」。


日下部が 「ありがとう」で着地した。告白しない形で。 俺も 「ありがとう」で着地するのか?


違う。 日下部は「好き」を言わなかった。俺は 「好きだった」を言わなければならない。過去形でも。 言って、その上で 「今はありがとうに変わった」と。


翻訳が 完了した。


志帆への感情。 「好きだった。今は、ありがとうに変わった。でも 忘れない。消さない。お前がいてくれたこと。お前が俺を見てくれたこと。 全部、俺の恋路だ」


これが 俺の言葉だ。翻訳ではなく。設計でもなく。 高瀬恒一の、本文。


ノートを開いた。ver.2のノート。最後のページ。 余白に、書いた。


「志帆へ。 好きだった。過去形だ。でも否定じゃない。好きだったことは事実で、今も消えてない。ただ、形が変わった。恋から 感謝に。お前がいたから俺はここにいる。 ありがとう。これが、俺の翻訳じゃない、俺の言葉だ」


書いた。 ペンが震えなかった。


ノートを閉じた。 明日、志帆に連絡する。会いたい と。話がある と。


スマホを取り出した。志帆の名前を 連絡先から呼び出した。メッセージを打った。


「志帆。 会いたい。話がある。設計じゃなくて 俺の言葉で。 来週、時間をくれ」


送信した。


心臓が 速い。だが 痛くはなかった。痛みは 無害化されている。怖さは残っている。だが 怖いだけじゃない。その先に 着地がある。


返信は 五分後に来た。


『待ってた。 ずっと。来週 いつでもいい。恒一の都合に合わせる』


待ってた。 志帆は待っていた。十一月の告白から 一ヶ月以上。「待つよ」と言って 本当に待っていた。


『日曜。 中学の近くの公園。午後二時。 前と同じ場所で』


『うん。 行く。待ってる』


スマホを閉じた。


工作室の窓の外は 暗い。十二月の夜。海は見えない。 だが、海がそこにあることは知っている。見えなくても ある。


朝が来れば 凪が訪れる。波のない、穏やかな海。 朝凪。


俺は 朝凪の向こう側に、歩き出す。


翻訳者のフリは もういい。設計書は 要らない。


自分の言葉で。 本文で。


志帆に 会いに行く。


来週の日曜日。 俺の恋路が、着地する。


工作室の鍵を閉めた。帰り道。堤防沿い。十二月の夜。 寒い。息が白い。星が多い。オリオンが 南の空に高く上がっている。


冬至の前夜。一年で最も暗い夜。 だが、明日から 日が長くなる。少しずつ。


これからは 明るくなるだけだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ