援軍
赤黒い毛並みを持った一体の巨大な猿が、口からだらだらと涎を撒き散らしながら突進する。
だが、その猿の視界の端で何かがゆらゆらと揺れ動き、猿の注意を引き寄せる。
反射的にそちらを振り向く巨猿。それはほんの一瞬の隙でしかなかったが、戦場においては十分すぎる隙でもあった。
ゆらゆらと幻惑するように揺れる旗に思わず見入り、突進の勢いの鈍った巨猿の懐に儚げな印象の森妖族の少女が果敢に飛び込む。
そして手にしていた幅広剣で、下から勢いよく猿の腹を斬り上げた。
鋭い刃は巨猿の赤黒い毛皮を斬り裂き、毛皮と同じ色合いのどす黒い血を撒き散らす。だが、その傷が巨猿の動きを妨げることはないようだ。
今しがた自分の腹を斬り裂いた小柄な少女を、巨猿がじろりと睨み付ける。
「あ、あら……? 思ったより効果なかったッスね……? や、やっぱりお怒りでいらっサル? なんちゃって……」
引き攣った笑みを浮かべる少女に、巨猿は容赦なくぞろりと生えそろった鋭い爪を振り下ろした。
ぎぃぃぃぃぃん、と耳障りな音が響く。
少女が装備した円形の盾で、巨猿の爪を受け止めたのだ。盾の表面に、猿の爪痕が深々と刻まれる。
ひいいいいっ、と情けない悲鳴を上げながら、少女──コルトはばたばたと巨猿の足元から逃げ出した。
逃げ出しつつ周囲を見れば、彼女の仲間たちもまた、別の巨猿たちと戦っていた。
ヴェルファイアは二体の巨猿を相手取り、真っ正面からぶつかり合っている。
ソリオも二体を牽制しつつ、時折紋章術で仲間を支援している。先程は手にした戦旗で、コルトが相手にしている巨猿の注意を引きつけてくれた。
どうやら、仲間たちも手一杯のようだ。少なくとも、目の前の巨猿は自分が相手をするしかないだろう。
そう改めて覚悟を決めたコルトの視界の端に、不敵に腕を組みながら悠然と立って戦場を見ている黒衣の女性の姿が入る。
敵の首魁ともいうべき獣の女王は、戦いを生み出した猿たちに任せて自分は高みの見物を決め込むつもりのようだ。
「おのれ、黒女め! 自分は背後に控えて大物気取りッスかっ!? その高慢ちきな鼻っつらをすぐにへし折ってやるッスよっ!!……………………………………………………………………………………ソリオ様かヴェルさんのどっちかがっ!!」
「自分でやるんじゃねえのかよ……」
二体の巨猿を相手取りながら、ヴェルファイアが疲れたような声でぼそっと突っ込みを入れた。
コルトはそう言うものの、獣の女王が高みの見物を決め込んでくれているのはありがたい、というのが正直な状況だった。
それほど、現在対峙している巨猿たちは強敵なのだ。
先程『真っ直ぐコガネ』が獣の女王相手に善戦できたのは、三対一という数の有利があったからこそである。
だが、現在はその数の有利も失われた。この状況で巨猿よりも手強い獣の女王まで参戦されれば、『真っ直ぐコガネ』はあっさりと敗退していただろう。
と、ソリオは目の前に迫った二体の猿どもを相手にしながら、冷静に戦況を分析していた。
一番有効な打開策としては、さっさと敵の数を減らすことだろう。そして、再び数的優位を以てして獣の女王を追い込む。
だが、獣の女王が生み出した巨猿たちは強敵である上に五体もいる。現状は『真っ直ぐコガネ』の方が数的に不利な状況に追い込まれていた。
「こちらの攻撃を集中させて、各個撃破が理想的なんだけど……」
自分目がけて振り下ろされる巨猿の爪を、戦旗で受け流しながらソリオは考える。だが、分断されたにも等しい現況では、それも難しい。
──せめて、こちらにもう少し戦力があれば。
『真っ直ぐコガネ』の最大のアドバンテージでもあるソリオの紋章術。だが、今の状況で紋章術を乱発すれば、あっと言う間に魔素が尽きてしまう。
巨猿を倒せなくてもいい。せめて足止めできる実力を持った味方があと三人いれば、巨猿を各個撃破していくことも可能なのに。
ソリオが内心でそう思っていた時。
「ソリオ様っ!! 危ないッスっ!!」
突然横合いから聞こえてきたコルトのせっぱ詰まった声。
その声に思わず振り向けば、すぐ傍まで一体の巨猿が迫っていた。どうやらコルトが相手をしていた猿が、突然標的を変更してソリオに襲いかかったようだ。
さすがのソリオもこれには反応が遅れた。更には戦況を分析し、不利を思い知らされていた真っ最中である。
彼でなくとも多少は苛つきを覚え、注意力も薄れてしまうようなこの状況。
そんな穴を巨猿は意図的に突いたのか、それとも単なる偶然か。真相は不明だが、結果としてソリオは横合いから奇襲を受けてしまった。
既に巨猿は間近まで迫り、涎の滴る口を大きく開けて、ソリオの頭を齧り取ろうとする。
ソリオは咄嗟に戦旗の柄を掲げてこれを防ぐ。
だが、ぎりりりっという耳障りな音と共に、戦旗の柄は巨猿の鋭い牙と強靭な顎で噛み砕かれてしまう。
飛び散る木片に思わず顔を背けそうになりながらも、ソリオは迫る巨猿を見据えて身体を後方へと飛び退る。
ソリオの顔前すれすれを巨猿の鋭利な爪が通過する。もう一瞬でも遅ければ、彼の顔面に数条の溝が刻まれていたに違いない。
そして、敵の攻撃はこれで終わりではなかった。
ソリオは先程まで二体の巨猿と戦っていたのだ。当然、その二体もまた、武器を失ったソリオに猛然と襲いかかってくる。
「ソリオっ!!」
ヴェルファイアが彼の窮地に気づいて駆け寄ろうとするも、彼も二体の巨猿を相手取っている。巨猿たちはまるでヴェルファイアの後退を邪魔するかのごとく、猛然と彼に襲いかかっていった。
「ソリオ様っ!! すぐに助太刀するッスっ!!」
コルトが幅広剣で猿の一体を背中から斬りつけた。毛皮を斬り裂いて血飛沫が舞うが、巨猿はそれに構う様子もみせずにひたすらソリオを攻撃する。
「こ、この……っ!! こいつら、どうしてソリオ様ばかりを……っ!!」
「そやつらは……我が子たちは戦いながら学習したのよ。お主たちのボスがその御子かもしれぬ男子だとな」
コルトの問いにそう答えたのは、背後で戦況を見守っていた獣の女王だ。
「確かに見た目はただの獣じゃが、そうそう見縊るでないぞ? 痩せても枯れても妾が生み出した子らじゃからの。その能力はかなり高いと思うがよい」
見た目は凶暴なだけの猿のようなこの獣たちだが、その知能は獣の女王が言うように決して低くはない。ソリオが敵のリーダー的存在だと気づき、まずは頭を潰すために重点的に彼に襲いかかっているのだ。
戦旗を失ったソリオは、腰に佩いていた予備の武器である幅広剣を抜いた。これはコルトが使用している剣同様、クリノクロア伯爵から授剣されたものだ。
確かにこの剣は業物である。だが、獣の女王が生んだ猿たちは、獣の女王と同じように普通の武器ではダメージを与えられない。
三体もの敵に囲まれ、断続的に攻撃を浴びせられているソリオ。辛うじて剣で猿の爪や牙を防いではいるが、紋章術を展開している暇はない。
ただでさえ強敵である巨猿が三体。加えて、こちらは紋章術を展開できずに有効な攻撃もできない。
焦りと不安、そして疲労がソリオの内面にどんどんと降り積もっていく。
それでも意識を集中し、驚異的なそれでソリオは敵の攻撃を捌くことに専念する。
しかし、ソリオもヒトである以上、その驚異的な集中力もいつかは途切れる。そして、疲労もどんどんと積み重なっていく。
剣を持つ腕が重くなり、攻撃を避けるための足さばきも鈍くなる。
呼吸も荒くなり、額からは汗がどんどんと流れ落ちてくる。
左の視界の端に、巨猿の一体が腕を振り上げているのが見えた。
ソリオは前方の二体を牽制するために、左から右へと大きく剣を振り抜く。そして剣を振り抜いた反動を利用して右へと跳んで左からの攻撃を回避しようとした。
だが。
とうとう疲労が限界に達したのか、かくんと膝から力が抜けた。
跳ぼうとしても踏切が足らず、ソリオはその場に倒れ込む。慌てて起き上がろうとするが既に遅く。
倒れたソリオに覆い被さるように迫った巨猿が、その鋭い爪を上から下へと一気に振り下ろす。
ソリオの顔面に、巨猿の鋭い爪が突き刺さった。
空中に真紅の花が咲く。
血飛沫が宙に舞い、同時に爆発音が周囲に響いた。
空中に咲いた真紅の花の正体は、突然飛来した火弾だ。その火弾が巨猿の後頭部に命中し、その衝撃で猿の爪の軌道が僅かにずれた。
猿の鋭い爪はソリオの頬の皮膚と肉を抉り取る。決して浅くはない傷がソリオの左頬に刻まれて激しく出血するが、それでも致命傷には程遠い。
そして、それを皮切りに『真っ直ぐコガネ』と戦っていた巨猿たちに、様々な種類の攻撃魔法の集中砲火が襲いかかった。
炎が。水が。風が。氷が。岩が。弾丸となって五体の巨猿たちに襲いかかったのだ。
ソリオが何とか助かったことに安堵の息を零しながら、コルトは魔法が飛来した方へと振り返る。
「何とか間に合ったな、坊主!」
そこにいたのは、ヴェルファイア以上の巨漢。その巨躯をヴェルファイア同様に板金鎧で覆っており、僅かに覗く皮膚には薄緑の鱗が見て取れる。
「ヴォクシーおじさん……?」
何とか体勢を立て直し、攻撃魔法を受けて怯んだ猿たちから距離を取ったソリオは、頬から流れる血を手の甲で強引に拭いながら呟いた。
「遅くなって悪かったな。この街の腕に覚えのなる冒険者たちを集めていたら遅くなっちまったんだ」
にい、と大きな口を更に横に大きく歪めるアゲート侯爵。
その彼の背後には十人ほどの冒険者らしい人物が集っている。そのほとんどが身体のどこかに宝石──契約の石を帯びていることから、彼らが精霊師だということが分かる。
巨猿たちに先程魔法の集中砲火を行ったのは彼らに間違いない。そしてその精霊師の中には「幸運のそよ風」亭の常連でソリオたちとも顔見知りの者もいて、彼らは親しげに『真っ直ぐコガネ』に手を振っていた。
「坊主の話から、今回の敵には通常の武器は通じないらしいことが分かったからな。だから街中の冒険者の店に通達して、精霊師たちをかき集めたんだ」
アゲート侯爵は背後の冒険者たちを振り返り、よく通る声で指示を出す。
「さぁて、おまえらの出番だぜ! 契約の時にも言ったように、報酬は弾むからここらで一発おまえらの実力を見せてやれっ!!」
領主というよりは山賊の頭領のようなアゲート侯爵のかけ声に、冒険者たちも声を上げてそれに応じる。
そして同時に、精霊師たちの周囲に様々な精霊が姿を見せる。
現れた精霊たちは契約者の指示に従い、その力を解放させていく。
再び攻撃魔法の雨が巨猿たちへと降り注ぐ。猿たちもこれには無傷ではいられない。猿たちの巨体のあちこちに、火傷や裂傷、凍傷などの傷が次々に刻まれていく。
それでも強靭な生命力を有する巨猿たちは倒れない。
怒り狂った猿たちはその標的を『真っ直ぐコガネ』から冒険者たちへと移し、咆哮を上げながらアゲート侯爵が率いる冒険者たちへと躍りかかっていく。
「ふん。なんだかんだ言っても、所詮は猿だな」
アゲート侯爵が再び指示を飛ばす。
精霊師たちの背後に控えていた侯爵家に仕える兵士たちが、素早く精霊師たちの前に展開して装備している大盾を翳して防御体勢を整える。
「いいかっ!! おまえたちは無理に攻撃する必要はないっ!! 攻撃は魔法使いたちに任せて、壁役に専念しろっ!! 猿どもを一匹でも後ろに通すんじゃねえぞっ!!」
部下たちを激励しながら、侯爵自身も先頭に立つ。彼が持つ巨大なモールは、冒険者時代に手に入れた「魔法の武器」だ。普通の武器に耐性のある猿たちにも十分な脅威となる。
中にはごく僅かだが、同じように「魔法の武器」を所有する冒険者もいて、彼らも侯爵同様に武器を構えて迫る巨猿たちを迎え撃つ。
「坊主っ!! この猿どもは引き受けたっ!! おまえたちは獣の女王とやらを仕留めてこいっ!!」
アゲート侯爵はソリオたちにそう言うと、そのぶっとい親指をソリオたちに向けておっ立てた。
「無敵の盾」更新。
ソリオたちの戦いも一進一退といったところ。
次回は獣の女王が本性を現します。
では、これからもよろしくお願いします。




