第7話 - 私だって分かる?
次に目を覚ましたときには、朝になっていた。
カーテンの隙間から日差しが差し込んでいて、時計を見なくても分かった。
昨日よりも少し身体が軽くなっていたが、起き上がるのはまだつらかった。
手を伸ばして体温計を取り、熱を測った。
三十八度一分。
昨日の夕方は三十九度を超えていたから、数字だけ見ればよくなっている。
それでも、喉は相変わらず痛むし、頭も重い。
熱が下がったというより、少し落ち着いただけなのかもしれない。
考えが頭の中をぐるぐると巡るばかりで、結論は出なかった。
とりあえず、枕元に置いてある水を一口飲む。
ぬるい水が喉を通っていく。
ぼんやりしていると、インターホンが鳴った。
昨日よりは歩ける。
それでも、急ぐとめまいがしそうなので、壁に手を添えながら玄関へ向かった。
扉を開けると、買い物袋を提げた白石姉妹の一人が立っていた。
目を凝らしてみるが、やはり綴と紬の見分けはつかない。
ただ、今日来ると言っていたのは紬だ。
だから、目の前にいるのもきっと紬だろう。
「……おはよう。……紬」
「おはよう!体調どう?」
「さっき測ったら、三十八度一分だった」
「まだ高いじゃん。とりあえず、中に入るね」
そう言うと、紬は買い物袋を持ち直し、俺を寝室まで連れていった。
部屋へ戻ると、紬は袋からゼリー飲料とスポーツドリンクを取り出した。
「食べやすそうなもの買ってきた」
「わざわざ買ってきてくれたの?」
「うん!朝ごはん食べてないよね?とりあえずゼリーでも良いから食べて」
「ありがとう。もらうよ」
昨日よりも動けるようになった俺を見て、紬はほっとしたように表情を緩めた。
けれど、もう一度体温を測ると、その表情はすぐに真剣なものへと変わった。
「織くん、今日は病院どうする?」
「……まだ少し動くのがつらい」
「だったら、電話で相談だけでもしよ。土曜日に診てもらえるところがあるかとか、今の状態ならどうしたらいいかとか」
紬はスマートフォンを取り出し、近くの病院を調べ始めた。
昨日は俺の事情を察して、電話をかけるのをやめてくれた。
けれど、翌朝になっても熱が引かないため、今日は本気で病院に行かせたいのだろう。
俺は病院への電話を断ろうと、口を開きかけた。
何件か候補が見つかったらしい。
「保険などの書類が手元にないことも、聞いてみようか」
「うん……お願い」
紬は病院へ電話をかけ、俺の症状と書類の状況を説明した。
しばらく話したあと、電話を切って俺を見る。
「書類がそろってなくても診てもらえるって。ただ、今回はいったん全額自己負担になるみたい」
「……そうか」
「今から行く?私も付き添うよ」
「ありがとう。でも、今は手持ちも少ないし、歩くのもしんどい。薬を飲んで、動けそうだったら行くよ」
「……分かった。でも、もっと具合が悪くなったら、すぐに相談しようね」
「うん。ありがとう」
確認を終えると、紬は台所に向かい、買ってきたものを冷蔵庫にしまい始めた。
俺も手伝おうと立ち上がった。
しかし、途端にくらっとして、思わず足元がふらついた。
「座ってていいよ」
「いや、何もかも任せるのは申し訳ない」
「だめ!今日はちゃんと休んで。お昼ご飯作るから待ってて」
そう言われてしまい、おとなしく座って待つことにした。
しばらくして、紬が作ってくれた昼食を食べながら、テレビをつけてみた。
画面では、芸能人がおすすめの本を紹介する特集が流れていた。
「結が好きそうな番組だ!」
「気持ちは分かる」
「もう、織くんも結も本ばっかり!」
そう言いながら、紬は笑っていた。
「ねえ、織くん。結のことって、本当に一目で分かるんだよね?」
「分かるよ」
「何にもしてなくても?」
「うん」
「じゃあ、私と綴は?」
「話し方とか仕草で、ある程度は分かるけど、何もしてなかったら分からない」
「私か綴か分からないときは、どっちの名前も呼べないもんね」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないよ!だって、誰にでも分からないんだから。織くんだけ変なわけじゃないし」
俺が頷くと、紬は少し考え込んだ。
無理に話を変えるのも違う気がして、俺は黙って待った。
やがて紬が立ち上がり、鞄の中を探し始めた。
取り出したのは、二つの黄色いリボンだった。
紬は手鏡を取り出し、髪を低い位置で二つに分けると、それぞれリボンで結んだ。
慣れた手つきで形を整えると、こちらを向いた。
「どう?」
「似合っていると思うよ」
「違う違う!そうじゃなくて」
紬はリボンを指さした。
「これがあれば、私だって分かる?」
言われて、ようやく意味が分かった。
綴が同じリボンをつけていなければ、二人が並んでいても見分けられそうだ。
「うん。紬がそのリボンをつけてるなら、分かると思う」
「ほんと!?」
「ただ、顔で分かるようになったわけじゃないよ。リボンを外したら、綴と区別できなくなる」
「……そっか。じゃあ、外さなきゃいいんだ!」
「え?」
「これからは学校でもつけようかな。そうすれば、織くんが私に声をかけるとき、迷わず紬って呼べるでしょ?」
紬らしい発想だと思った。
顔を見分けられないことに腹を立てるのではなく、別の方法を探している。
俺が変わるべきところなのに、紬の方が工夫してくれている気がした。
「無理してつけなくてもいいんだよ」
「無理じゃないよ!私がつけたいの。それに、たまには違う髪型にするのもいいじゃん」
「……そうだな」
「はい!じゃあ、今日からこれが目印ね。今度は最初から紬って呼んでね?」
「うん。約束するよ」
嬉しそうに笑う紬を見ていると、少しだけ体のだるさを忘れられた。
出会ってまだ日も浅いのに、こうして親身になってくれることが、素直に嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夕方になり、紬が帰る支度を始めた。
「少しは休めた?」
「紬が来てから、だいぶ楽になったよ」
楽になったのは確かだが、話すとまだ少し喉が痛む。
紬はそれに気づいたのか、真剣な表情になった。
「ほんと、無理しないでね。あと、連絡先も交換しよ。昨日も今日も、織くんが困ってても私には分かんないから」
そう言って、紬はスマートフォンを取り出した。
「……そうだな。交換しようか」
「うん!」
連絡先を交換すると、すぐに紬から短いメッセージが届いた。
『ちゃんと寝ること!』
「これ、命令だな」
「おねがいだから、守ってね」
紬は笑いながら、玄関へ向かおうとした。
俺も見送ろうと立ち上がったが、紬に手で制された。
「明日も来るから。熱が上がったり、体調が悪くなったりしたら、すぐに連絡してね」
「分かった。紬も無理はしないで」
「私は元気だよ!」
そう言って胸を張る姿は、学校でよく見る紬そのものだった。
「じゃあね、織くん」
「紬、本当にありがとう。体調もそうだけど、心強かったよ」
「えへへ。じゃあ、ちゃんと寝ること!」
紬は笑顔で手を振りながら、玄関を出ていった。
扉が閉まると、昨日と同じように部屋が静かになった。
ただ、昨日とは違うことが二つある。
冷蔵庫には、紬が作ってくれた消化によさそうな料理が入っている。
そして、スマートフォンには、紬の連絡先が登録されていた。
俺はスマートフォンを手に取り、届いていたメッセージに返事をした。
『今日はありがとう。助かった』
すぐに返信が届いた。
『どういたしまして!おやすみ!』
画面を閉じ、ベッドに戻る。
体のだるさはまだ残っているし、喉も痛む。
明日には本当に治るのかも分からない。
それでも、今日は一人で何とかしなければと思う時間が、昨日よりずっと少なかった。
誰かに頼ることにまだ少し戸惑いはあるけれど、紬がいてくれたことが嬉しかった。
そんなことを考えながら、俺は目を閉じた。
* * *
体が熱く、世界がぐるぐると回るような感覚に襲われて目を覚ました。
目を開けても、視界が回っている。
体にかけている薄い布団さえ、重りのように感じられた。
喉が渇き、水を飲もうとテーブルに手を伸ばす。
しかし、そこにあるはずのコップが三つに見えた。
何とかコップを掴み、少しずつ水を飲む。
それだけの動作でも、ひどく疲れてしまった。
とにかく体が熱い。
紬が帰る前に熱を測るように言われ、そのときは三十七度八分まで下がっていた。
薬を飲んで寝ていれば落ち着くと思っていたのに、今は少し体を動かすだけで関節が痛む。
紬がサイドテーブルに体温計を置いてくれていたので、手を伸ばして熱を測ってみた。
三十九度三分。
体温計の表示を見て、思わず固まった。
昨日よりも、だいぶ熱が上がっている。
救急車を呼ぶべきなのか、それとももう少し様子を見るべきなのか。
頭がぼんやりして、考えがまとまらない。
そんなとき、ふと紬の顔が浮かんだ。
紬とのメッセージ画面を開いた。
『熱が三十九度まで上がった』
それだけ打ち込み、送信しようとしたとき、画面の時刻が目に入った。
午前四時。
こんな時間では、紬も寝ているだろう。
すぐに見てもらえるとは思えなかったが、とりあえず送信した。
やっぱり救急車を呼んだ方がいいのだろうか。
そう考えながら、電話をかけようとした。
しかし、次第に意識が遠のいていく。
スマートフォンを握ったまま、俺は目を開けていられなくなった。




