第6話 - 三女は放っておけない
中間考査の前日の朝、いつものように紬が話しかけてきた。
白石三姉妹は高嶺の花と呼ばれているが、紬は普段から気さくに話しかけてくる。
少なくとも紬に対しては、もうそんな感覚はなかった。
今日も挨拶とともに、当たり前のように俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
「おはよう、織くん!昨日、綴に教えてもらった箇所があるんだけど、綴の説明じゃ分からなくて。織くんにも聞いていい?」
「いいよ。あと、腕」
「最近、何も言わなかったじゃん。嫌?」
「……嫌じゃないよ」
「ならこのまま」
紬は腕を組んだまま、俺を自分の席まで連れていった。
紬は参考書とノートを開き、質問してきた。
ノートには文字がびっしりと書き込まれていた。
整った綺麗な字で、女の子らしい丸みのある紬の字とは違う。
結の字も見たことがあるが、それとも少し違っていた。
おそらく綴が書いたものだろう。
分からないところを一つずつ説明すると、紬は順番に理解していった。
紬の成績は、赤点になるかならないかの瀬戸際だと聞いている。
ただ、こうして教えている限り、地頭が悪いようには思えなかった。
単に勉強が嫌いなだけなのかもしれない。
授業の合間の休み時間にも、紬は毎回俺のところへやってきた。
勉強の質問をすることもあれば、ただの雑談で終わることもある。
気づけば、クラスで一番よく話す相手は紬になっていた。
「織くん、これで合ってる?……織くん?」
少しぼんやりしていて、返事ができなかった。
教科書と参考書に目を移し、紬の解答を確認する。
答えは間違っていたので、一つずつ説明していく。
その途中で、喉に少し痛みを感じた。
ただ、話せないほどではないので、そのまま紬に教え続けた。
「本当に織くんって、頭いいんだね!すごく分かりやすいよ」
「それはどうも」
「これなら休みの日も教えてもらえばよかったな。うちには綴と結がいるけど、織くんは兄弟いるの?」
「いない。一人っ子」
「そうなんだ。じゃあ、家族は三人? どんな感じなの?」
「今は一人暮らししてる」
「えっ、一人暮らしなの!すごい!家事とかできるの?」
「それなりに。バイト先で賄いを食べることもあるし」
紬は一人暮らしに興味津々で、次々と質問してきた。
考えてみれば、俺は大勢で暮らす生活を想像したことがなかった。
特に、三つ子の姉妹が一緒に暮らすのはどんな感じなのだろうと、興味が湧いた。
* * *
中間考査も最終日を迎えた。
朝起きたときから喉に痛みがあり、少し頭も痛かった。
それでも、学校を休むほどではない。
なにより、試験を受けないという選択肢はなかった。
頭痛を我慢しながら、何とか問題を解いていく。
休憩時間になると、いつものように紬が話しかけてきた。
ただ、次の試験についてではなかった。
「織くん、大丈夫?顔赤いけど。それに体も熱い気がする」
「大丈夫。あと一教科だし」
そう答えると、紬はそれ以上何も言わなかった。
最後の教科も頭痛に耐えながら、何とか乗り越えた。
痛みはひどくなっていたが、これまで勉強してきたおかげか、問題自体は普段どおり解くことができた。
「織くん、保健室行くよ。さすがに体調が悪そうだよ」
紬が心配そうに顔を覗き込んでくる。
この学校では、考査最終日も試験後に授業や行事の準備があるらしく、すぐには帰れなかった。
紬に腕を引かれ、保健室へ向かった。
熱を測ると、三十八度を超えていた。
その場で早退することになり、クラスメイトに荷物を持ってきてもらったあと、タクシーで帰宅した。
家に着くと、何もする気が起きず、そのままベッドに横たわった。
水分くらいは取るべきだと思ったが、体を起こすことすらできない。
結局、そのまま目を閉じた。
次に目を覚ましたのは、スマートフォンの着信音が鳴ったときだった。
画面を見ると、学校からの電話だった。
時刻はちょうど六限が終わった頃だった。
『もしもし、絹道か?体調は大丈夫か?』
「ゴホッ、ゴホッ……大丈夫です。たぶん」
『たぶんか。熱は何度ある?』
「保健室で測ったときは熱がありました。家に帰ってからは測っていません。ずっと寝ていたので」
『そうか。できれば病院に行ってほしいんだが、行けそうか?』
「ちょっと動けそうにないです。しばらく様子を見ます」
『分かった。水分だけは取るようにな。あと、今日の配布物と課題を届けたいって、白石が申し出てくれたんだが』
「……紬が?」
『そうだ。本人が届けてもいいか確認してほしいと言っていてな。絹道が了承するなら住所を伝えるけど、どうする?』
断る理由はなかった。
ただ、こんな状態で来てもらっても、ちゃんと応対できるだろうか。
「プリントだけなら……お願いしてもいいですか」
『分かった。じゃあ住所を伝えておく。無理そうなら玄関先に置いてもらうようにするから』
「ありがとうございます」
『保健室で測ったときに熱が高かったんだから、本当に無理するなよ。できれば病院にも行くようにな』
電話を切ってから、しばらく天井を見つめた。
こんな状態をクラスメイトの、しかも女子に見られるのかもしれない。
そう思いながら、また眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
インターホンの音で目が覚めた。
夢の中でも鳴っているような気がしていたが、三度目でようやく来客だと気づいた。
スマートフォンで時間を確認すると、放課後の時間をとうに過ぎていた。
布団から出ると、足元がおぼつかない。
壁に手をつきながら、何とか玄関へ向かった。
「……はい」
ドアの向こうから、聞き覚えのある明るい声がした。
「織くん?紬だよ。プリント持ってきた!」
鍵を開け、扉を少しだけ開く。
その隙間から、紬が心配そうに顔を覗かせた。
「わざわざごめん。ありがとう」
声を出すと、喉がひどく痛んだ。
「……織くん?顔、真っ赤じゃん」
「熱があったから」
「何度?」
「分からない」
「えっ、測らないと。部屋に上がってもいい?」
断ろうとして、口を開いた。
わざわざ来てもらったうえに、さらに世話をかけるのは気が引ける。
けれど、今は一人でベッドまで戻る自信もなかった。
「……少しだけ、頼んでもいいかな」
「もちろん!」
紬は靴を脱ぐと、俺の腕を支え、歩幅を合わせながら寝室まで連れていってくれた。
寝室に着くと、ベッドを指さした。
「はい、寝て」
「その言い方、先生みたいだな」
「冗談が言えるなら、少しは元気なのかと思っちゃうでしょ!」
紬は眉を寄せたまま答えた。
いつものように笑い飛ばさない様子から、思っていた以上に心配をかけているのだと気づいた。
言われたとおり、ベッドに戻った。
俺が横になったのを確認すると、紬は封筒を机の端に置いた。
「今日のプリント。先生に頼まれたのはこれだけなんだけど」
「うん。助かった。……それより、どうして来てくれたの?」
「だって、学校にいるときからつらそうだったじゃん。一人暮らしって聞いてたし、ちゃんと帰れたかも心配だったんだよ」
「……そっか」
「うん!放っておけないよ!それより、水分は取った?」
「水は飲んだ……と思う」
「思うって何?」
紬は呆れたように聞き返してきた。
学校で接する紬とは、少し違う気がした。
紬は枕元にある空のコップに目を向けた。
「新しい水、持ってきてもいい?」
「台所にあるから」
「分かったよ」
部屋を出ていった紬の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
自分以外の誰かが家の中を歩いている。
ただそれだけのことが、少し不思議だった。
昨日までは、自分の足音しか聞こえなかったのに。
戻ってきた紬は、水の入ったコップを手渡してくれた。
「少しずつ飲んでね。体温計はあるかな?」
「机の引き出しの中」
紬は引き出しから体温計を取り出し、俺に手渡した。
熱を測ると、三十九度五分。
学校で測ったときよりも高くなっていた。
その数字を見た紬は、黙り込んだ。
「高い……」
「そうみたい」
「そうみたい、じゃないよ!」
声は明るいままだったが、いつもの軽さはなかった。
「……ねえ、病院に行こう」
「今から?」
「うん。この熱で一人は危ないよ。私、付き添うから」
「……行ける気がしない」
「だったら、先に病院へ電話して聞こうよ。どうしたらいいか」
紬はスマートフォンを取り出した。
「何か事情ある?」
「引っ越しで、保険などの書類がどうなったか覚えてない……受診して、いくら払うことになるのか分からない」
「でも、それって病院に確認すればいいんじゃない?それか、親御さんに連絡できないの?」
その一言に、喉とは別のところが詰まった気がした。
連絡先は知っている。
電話をかけようと思えば、かけられるはずだ。
それでも、母親の顔が浮かんだ途端、手が動かなくなった。
「……今は、ちょっと。親には頼れない」
それ以上はうまく言葉にできなかった。
紬も続きを聞いてこなかった。
「分かった。じゃあ、そこは聞かない」
思わず紬を見る。
いつもなら、気になったことはすぐに尋ねてくるのに。
「でも、熱が下がらなかったり、もっと具合が悪くなったりしたら、絶対に誰かを頼ってね。私だけじゃ分からないこともあるから」
俺が頷くと、紬はようやく少しだけ表情を緩めた。
紬はスマートフォンを持ったまま、少し考え込むように視線を落とした。
親に頼れないと言った俺の事情を、何か想像したのかもしれない。
それ以上は何も聞かず、画面を消してスマートフォンをしまった。
「じゃあ、今できることをやろう。何か食べた?」
「朝から何も」
「やっぱり。冷蔵庫、見てもいい?」
「……何もないよ」
「じゃあ、すぐに食べられそうなものを買ってくるね。鍵、借りるよ」
部屋を出ていく紬の姿を目で追った。
スマートフォンで時間を確認してから、再び目を閉じた。
◇ ◇ ◇
「織くん、起きられる?」
声に目を開けると、紬がベッドのそばにいた。
手には小さな器を持っている。
湯気が立ち上り、米の匂いがした。
「食べられそうな分だけでいいから」
食べられるものを買ってくると言っていたが、どうやら食材を買って作ってくれたようだ。
紬は器を机に置くと、俺が起き上がるのを手伝ってくれた。
紬から器を受け取り、ゆっくりとスプーンを口に運ぶ。
「……うまい」
「ほんと?」
「うん。ありがとう」
紬はほっとしたように息を吐いた。
「よかった。作ったことはあるけど、今日はちゃんとできたか心配だったんだ」
「買ってくるって言ってたのに、わざわざ作ってくれたんだ」
紬はいつものような笑顔を向けてくれた。
ゆっくり食べ終えると、紬が器を片づけてくれた。
「もう寝てて。洗い物もやっとくから」
「そこまでしてもらうのは……」
「今日の織くんは、そういうこと言わない」
ぴしゃりと言われた。
その言い方が少し綴に似ていて、思わず口元が緩んだ。
彼女は器を持って部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
しばらくして、紬が帰る時間になった。
時計を見ると、すでに二十一時を過ぎていた。
玄関へ向かおうとしていた紬が、もう一度ベッドのそばへ戻ってきた。
「織くん、明日どうする?」
「どうするって?」
「まだ熱があったらさ、一人じゃ大変でしょ」
「……様子を見るよ」
「じゃあ、様子を見に来る」
「えっ」
紬は何でもないことのように言った。
「また三十九度とか出てたら、ちゃんと相談して病院行こう。今より悪かったら、すぐ誰か呼ぶから」
「そこまでしなくても……」
「一人で倒れてたら、誰が気づくの?」
返す言葉がなかった。
紬は俺が黙ったのを見ると、少し声を和らげた。
「無理に返事しなくていいよ。嫌だったら断って。でも、心配なんだ」
いつもの明るい調子とは違い、真剣な声だった。
俺がゆっくり頷くと、紬にいつもの明るい笑顔が戻った。
「それじゃ、また明日ね。織くん」
「うん。また明日」
紬が帰ると、部屋は急に静かになった。
高熱のせいか、考えようとしても頭がまとまらない。
そんな中、帰り際に紬が言った言葉を思い出した。
『一人で倒れてたら、誰が気づくの?』
考えたことがなかったわけではない。
ただ、今までは考えないようにしていたのだと思う。
明日も紬が来る。
そのことに少し戸惑いながら、俺は再び眠りに落ちた。




