第5話 - 高嶺の花と呼び方
朝、教室に入るなり、相田に手招きされた。
机に鞄を置いたばかりだというのに、何事だろう。
「絹道、ちょっとこっち来い」
「何かあった?」
「いや、俺じゃなくて、こいつらがお前に聞きたいことあるらしい」
相田の隣には、先週も話した男子が二人いた。
そのうちの一人が、妙に真剣な顔をしている。
二人に何かした覚えはない。
そもそも、真剣な相談を持ちかけられるほど親しくなったわけでもない。
「お前、白石三姉妹と仲いいの?」
「三姉妹?」
「とぼけんなよ。昨日も一緒にいただろ」
「いたけど、それがどうした?」
「それがどうしたって……。あの三姉妹、入学したころからずっと目立ってるんだよ。三人とも美人だし、顔もそっくりだし。高嶺の花で、普通に話しかけるだけでも緊張するくらいなんだぞ」
確かに、三人とも目立つ容姿をしている。
教室で紬に勉強を教えていると、周りから視線が集まることがあった。
綴と廊下を歩いていれば、すれ違った生徒が振り返ることもある。
図書室では、結に話しかけようとしていた男子もいた。
ただ、俺が結の隣に座ると、諦めたように離れていった。
それでも、俺の方から三人に話しかけることは、そう多くない。
特に紬からは、よく話しかけられる。
綴は用事がなければ向こうから話してこないし、こちらからも話しかけない。
そう考えると、自分から話しかけるのは結くらいになるのか。
「紬は普通に話しかけてくるけど」
「それがすごいって言ってんだよ」
男子の一人が呆れたように言った。
「白石 紬は明るくて、誰とでも話すけど、誰にでも距離が近いわけじゃないんだよ。長女は成績優秀で近寄りがたいし、次女は図書室にいることが多くて、男子とはほとんど話さないって聞くし」
「俺、紬には勉強を教えてて、結とは本の話をしてるだけだ」
「ほら、その呼び方!いきなり下の名前で呼び捨てじゃん!」
正面にいた男子が、俺を指さした。
「紬はそう呼べって言ってきたし、結と綴は本人に確認を取った」
「そういう問題じゃないだろ!それにこの前、白石に下の名前で呼んでいいか聞いたら、断られたんだぞ」
俺は首を傾げた。
あのときのやり取りが思い浮かぶ。
確かに、元気よく断られていた。
「……そんなに変かな」
「変っていうより、羨ましい!」
あまりにはっきり言われたので、思わず笑ってしまった。
隣では相田も笑っている。
「まあ、絹道が何かしたわけじゃないだろ」
「それはそうだけどさ。転校してきたばっかなのに、もう三人と顔見知りって不公平だろ」
「じゃあ今度、三人と話す機会があったら挨拶すればいいだろ」
「それができたら苦労しねえよ」
男子は大きくため息をついた。
そんなに難しいことだろうか。
そう思ったが、俺はこの学校に来て、まだ十日も経っていない。
だからこそ、相手を変に意識せず話せるのかもしれない。
けれど、一年以上同じ学校にいて、今まで話す機会がなかった相手なら、かえって声をかけづらくなるのも何となく分かる。
話すきっかけを作るのは、人によっては勇気がいるものなのだろう。
* * *
午前の授業が終わり、図書室へ向かおうとしていた。
ただ、その前に飲み物を買っておきたい。
自動販売機へ向かう途中、階段の踊り場で二人の女子が話しているのが見えた。
綴と紬の二人だということは分かった。
ただ、どちらがどちらなのかまでは見分けられない。
名前を間違えるくらいなら、無理に呼ばない方がいいだろう。
「白石」
二人とも振り向いた。
「えっ、私?」
「私も白石だけど」
「ああ、悪い。どっちがどっちか分からなかったから」
すると、右側にいた女子が俺の腕を取った。
勉強を教えていたときもそうだが、随分と距離が近い。
「織くん!それって私を呼んだんじゃないの?」
「あ、こっちが紬か。いや、二人とも見かけたから挨拶しただけ」
「なんだ。私に用があるのかと思った」
紬はすぐに笑顔を浮かべたが、俺の腕から手を離そうとはしない。
もう一人が呆れたように口を開いた。
「紬、こんなところでそんなことしない。……それに、白石って呼んだら、二人とも振り向くに決まってるでしょ」
「だな。今気づいた。綴もこんにちは」
「最初から分かってたみたいな呼び方、やめてくれる?」
「今分かったんだからいいだろ」
「余計に腹立つわね」
紬が隣で笑いをこらえていた。
綴は紬を一度見てから、俺に向き直った。
「絹道くん、あなた、結と毎日図書室にいるの?」
「毎日ってほどでもない。転校してきたばっかりだし。昼休みや放課後、時間があるときに行ってるだけ」
「結、昨日からあなたの話ばかりするんだけど」
「俺の?」
「ええ。本の話よ。どの作品を勧めたとか、どこが面白かったとか」
横から紬が口を挟んだ。
「結があんなに楽しそうなの、珍しいよね!家だと一人で本を読んでることが多いからさ」
「そうなんだ」
「だからって、結ばっかりじゃなくて、私とも話してよ?」
「毎日話してるじゃん。最近は勉強まで教えてるだろ」
紬は笑ったあと、ふと思い出したように言った。
「そうだ。朝、相田くんたちと何か話してたの?私の名前が聞こえた気がしたけど」
「三姉妹と仲がいいって、羨ましがられた」
「えっ、そうなの?」
「うん。高嶺の花だって」
紬は一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。
一方、綴は冷静な表情を崩さなかった。
「綴、聞いた?高嶺の花だって!まだ言われるんだね」
「……別に、そんなつもりで学校にいるわけじゃないんだけど」
その言葉に、紬も少しだけ笑いを収めた。
確かに、周囲が話しかけづらいと思っていても、本人たちがそれを望んでいるとは限らない。
紬が俺の腕から手を離したところで、曖昧に頷き、その場を離れようと手を振った。
それに応えるように、紬が大きく手を振り返してくれた。
綴は小さく会釈しただけだった。
階段を降りながら、昨日の夜に考えていたことを思い返す。
二人とも、同じ顔をしていた。
それでも、話してみれば全然違う。
ただ、その違いを知っていても、顔を見ただけではやっぱり見分けられないのだった。
* * *
図書室に入り、結の近くまで歩いた。
俺が来たことには気づいていないらしい。
文庫本のページをめくる横顔を見て、さっきの綴の言葉を思い出した。
『結、昨日からあなたの話ばかりするんだけど』
いや、綴は本の話だと言っていたし、それなら俺も同じだ。
読んだ作品について話せる相手がいるのは、純粋に嬉しい。
結も、一緒に読んだ本の感想を言い合ったことを、家で話しているだけなのだろう。
「結、こんにちは」
「あ、絹道くん。こんにちは」
結は本を閉じ、机の上に置いた。
「昨日教えてもらった本、読みましたよ。気になって、家でも読んじゃいました」
結は楽しそうに感想を話し始めた。
主人公の何気ない台詞が、最後には別の意味を持つこと。
登場人物が気持ちを伝えずにいる場面が、以前読んだ作品と似ていたこと。
俺も自分の感想を返すと、結はそれを聞いて、また別の解釈を話してくれた。
「でも、絹道くんの言っていた場面、最初はよく分からなかったんです」
そんな話をしているうちに、ふと気になったことがあった。
「結、一ついい?」
「はい、何ですか?」
「俺のことも下の名前で呼んでよ」
結は目を丸くした。
いきなり踏み込みすぎたかと、少しだけ思った。
普段は、名前で呼ぶことも、呼ばれることも特に気にしない。
ただ、名字が『絹道』に変わってから、まだ日が浅い。
正直、まだ呼ばれ慣れていなかった。
「……下の名前ですか?」
「うん。俺は結って呼んでるのに、結はずっと絹道くんだろ。それに、事情があって、まだその名字で呼ばれるのに慣れてないんだ」
「それは、そうですけど……」
「本友だちなんだし、織でいいよ」
結はすぐに返事をせず、少し考え込んだ。
やがて目を伏せた。
その耳が赤くなっていることに気づいた。
「……織くん、でもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ……織くん」
結は確かめるように、ゆっくりと俺の名前を呼んだ。
返事をすると、結が小さく笑った。
そして、もう一度「織くん」と呼んでくれた。
たったそれだけのことなのに、呼ばれたこっちまで少し照れくさくなってきた。
下の名前で呼んでほしいと頼んだのは、特別な意味があったわけじゃない。
けれど、結が嬉しそうにしているのを見ると、悪い気はしなかった。
「そういえば、紬は早くから『織くん』って呼んでたな」
「紬は仲良くなるのが早いですから」
「綴はまだ警戒してるみたいだけど」
「綴は知らない人にすぐ心を開く方じゃないんです」
二人に対して俺が感じていた印象は、結の話とも一致していた。
* * *
考査週間に入っても、アルバイトのシフトは変えなかった。
試験範囲を確認したところ、普段どおり勉強していれば問題なさそうだったからだ。
カフェの仕事は立ちっぱなしで大変だが、忙しく働いていると時間が過ぎるのは早い。
帰宅後は、これまでと変わらず机に向かっていた。
一方、学校での過ごし方には少し変化があった。
昼休みに図書室へ行くと、結はいつもの文庫本ではなく、問題集を広げていた。
「今日は読書じゃないんだ」
「はい。試験が近いですから」
「結が勉強するなら、俺もそうしようかな」
それからは、昼休みに図書室へ行くと、互いに勉強することが増えた。
もう一つ変わったのは、紬との時間だった。
休み時間になると、紬が教科書やノートを持って俺の席へやってくる。
「織くん、さっきの授業なんだけど、ここってどういうこと?先生の説明だと途中から分かんなくなっちゃって」
「ここまでは分かる?」
「うん! そこまでは大丈夫!」
分からないところを一つずつ確認していくと、紬は素直に聞いてくれる。
理解できたときの反応も大きいので、教えていて退屈することはなかった。
そんなやり取りが日に日に増えていく。
そして、それに合わせるように、紬のスキンシップも増えていた。
最近では、教室を出ると当たり前のように腕を組んでくる。
「紬、腕」
「ん?どうしたの?」
「離れてくれない?」
「えー、いいじゃん!一緒に行こうよ」
「歩きにくいんだけど」
「じゃあ、これなら?」
紬は腕を組んだまま、少しだけ力を緩めた。
「……いや、離してほしかったんだけど」
「……嫌?」
「嫌ではないよ。……まあ、いいか」
結局、腕を組んだまま歩くことになった。
最初のうちは、こうして何度も離れるように言っていた。
ただ、紬はそのたびに腕の力を緩めたり、組み方を変えたりするだけで、なかなか離れようとしなかった。
無理に振りほどいて怪我をさせるのも怖い。
それに、何度も同じことを言うのが、だんだん面倒になってきた。
別の日も、廊下を歩いていると紬が隣に並び、いつものように腕を組んできた。
「……またか」
「えへへ。今日は何も言わないの?」
「言っても離れないだろ」
「うん!」
紬は楽しそうに笑っている。
まあ、歩けないわけでもないし、別にいいか。
そう考えるようになってからは、腕を組まれても何も言わなくなった。
最初のころは周りの男子から向けられる視線も気になっていたが、それも次第に意識しなくなっていた。
そんな日々を過ごすうちに、転校して初めての中間考査が目前に迫っていた。




