第4話 - 三姉妹との距離
六時間目が終わると、中間考査の範囲表が回ってきた。
ゴールデンウィーク明けに転校してきたばかりなのに、もう試験が近づいている。
前の学校とは授業の進み具合も違うだろうから、一通り目を通した。
右隣の席から相田が聞いてきた。
「絹道、前の学校って進学校だったんだろ?」
「一応な」
「じゃあ、今回のテスト余裕じゃん」
「たぶん。この程度の範囲なら」
「マジか。そう言い切れるのがすげえな」
相田は笑い、範囲表を鞄に押し込んだ。
反対側の席から、紬が勢いよく身を乗り出した。
「ねえ、織くん。ちょっと見て」
紬の机に置かれた範囲表には、数学の試験範囲が丸で囲まれていた。
「数学のこの範囲、全部出るのかな?この前の授業、途中から分かんなかったのに」
「分からなかったの、どこ?」
「えっと……」
紬は教科書を開き、何ページかめくった。
指さしたのは、計算の途中で式が変わっている部分だった。
「ここで急に数字増えるじゃん」
「急に増えたわけじゃなくて、前の式を整理してるんだよ」
俺は横から教科書を覗き込み、紬のノートに途中の計算を書き足した。
「こうやって一つずつ計算すれば、同じになるだろ?」
「ほんとだ!」
紬がさらに顔を近づけてきた。
机の端に置いていた俺の腕に、彼女の肩が触れた。
思わず少し身を引いた。
「……もうちょっと離れて」
「あ、ごめん。つい」
紬はすぐに身体を起こし、距離を取った。
「でも、織くん説明上手だね」
「今のは教科書にも書いてあるぞ」
「それが分かんなかったの!」
紬は続けて、別の問題についても質問してきた。
説明すると、素直に頷きながら真剣に聞いてくれる。
今度は少し距離を空けたまま、椅子を寄せてきた。
紬は問題を理解するたびに、嬉しそうに声を上げた。
こういう反応をされると、教える側も悪い気はしなかった。
◇ ◇ ◇
紬が自分の席へ戻る頃には、教室に残っている生徒も少なくなっていた。
「助かったよー。ありがとう、織くん!また分かんないとこ聞いていい?」
「どういたしまして。別にいいよ」
「やった!」
紬は鞄を抱え、廊下へ駆け出しかけて立ち止まった。
「そうだ。織くん、今日も図書室行くの?」
「少しだけ寄ろうと思ってる。バイトまで時間あるし」
「結に会いに?」
「読書しに、だよ」
「はいはい」
何が「はいはい」なのか分からないうちに、紬は手を振って出ていった。
◇ ◇ ◇
図書室へ向かう途中、職員室の方から本を抱えた女子が歩いてきた。
腕の中には厚い参考書が何冊も重なっている。
白石三姉妹の誰かだろう。
結ではないことは、一目で分かった。
ただ、綴と紬のどちらなのかは、顔だけでは判断できない。
紬とはさっき教室で別れたばかりなので、綴の可能性が高そうだ。
とはいえ、間違えて呼ぶのも申し訳ない。
「白石さん」
声をかけると、彼女が足を止めた。
「……何?」
少し警戒したような返事だった。
「ああ、綴?」
「今の返事だけで分かったの?それに、名前で呼ぶのね」
「ごめん。嫌だった?」
「いいわ。結と紬のことは名前で呼んでいるんでしょ。なら、私も綴でいいわ」
綴は一瞬だけ目を細めたが、それ以上は追及してこなかった。
「反応で見分けられるのは、あまり気持ちのいいものではないわね。まあ、間違えられるよりはいいけど」
そう言って、抱えている本を持ち直す。
「それ、重そうだな。どこまで持っていくの?」
「教室。先生に頼まれたの」
「半分持つよ」
「いい。自分で持てるから」
綴はすぐに答え、歩き出そうとした。
その拍子に、一番上の参考書がずり落ちかけた。
俺はとっさに手を伸ばし、床に落ちる寸前で受け止めた。
「……ありがとう」
「これだけ運ぶよ」
綴は少し迷ったあと、俺が持っている参考書を見て頷いた。
「じゃあ、それだけお願い」
並んで歩く間、会話はほとんどなかった。
気まずいというほどでもないが、綴は前を向いたまま歩いていた。
しばらくして、綴が口を開いた。
「さっき、紬に勉強を教えてたんでしょう」
どうして知っているのかと驚き、すぐには返事ができなかった。
そんな俺の反応を見て、綴が続けた。
「紬、本人から聞いたのよ」
「なんだ、テレパシーとかシンクロニシティかと思った」
冗談を言ってみたが、綴は表情一つ変えなかった。
まるで何も聞かなかったかのように、俺の返事を待っている。
「……数学が分からないって言うから」
「それで?」
「教科書の式を説明しただけだよ」
綴は少し考えてから、短く頷いた。
「紬は、苦手なところをそのままにしがちだから。助かったわ」
意外だった。
もっと嫌味の一つでも返ってくるかと思っていた。
綴とはまだほとんど話していないが、これまでのやり取りでは警戒されている印象が強かった。
「紬のこと、よく見てるんだな」
「別に。テスト前に騒ぐから、嫌でも分かるのよ」
言葉はそっけないが、紬のことはよく見ているらしい。
以前も感じたが、妹たちを心配しているのが伝わってくる。
教室の前で預かっていた参考書を綴に返すと、彼女は改めて俺に向き直った。
「一つ聞いてもいい?」
「何?」
「私が何も言わずに立っていたら、紬とは区別できないのよね」
綴は視線を落とした。
俺の返事を待たずに続ける。
「なのに、結だけは分かる」
確かめるような口調だった。
「そうなるな」
「……変なの」
綴はそれだけ言って、参考書を教室へ運び入れた。
どうやら、納得はしていないらしい。
ただ、詳しく説明しろと言われても、違って見えるからとしか答えようがない。
それ以上でも、それ以下でもないのだから。
* * *
図書室では、結が前と同じ窓際の席にいた。
文庫本に目を落としていたが、俺には結だと分かった。
さっき綴に尋ねられたことを思い出す。
もしここに座っていたのが綴か紬なら、近づいて声をかけるまで分からなかっただろう。
「こんにちは、結」
声をかけると、結は顔を上げた。
「絹道くん。こんにちは。今日は遅いですね」
「来る途中で綴に会って、参考書を運ぶのを手伝ってたから」
結は何か思い当たったらしく、小さく笑った。
「たぶん、先生に頼まれたんですね。綴、そういうこと断らないので」
「手伝うって言ったんだけど、断られたよ」
「……それも綴らしいです」
結は笑ったまま、少しだけ視線を落とした。
「何か言われませんでしたか?」
「ほとんど話してない。別れ際に、どうして結だけ分かるのかって聞かれたくらい」
「やっぱり」
結は本を閉じた。
その表情は、どこか寂しそうに見えた。
しばらく視線を落としていたが、やがて顔を上げ、俺と目を合わせた。
「私たち、昔からよく間違えられるんです。三人まとめて呼ばれることも多くて」
「そうなんだ」
「はい。名前で呼ばれても、間違えていることに気づかずに話し続けられることもあります」
結は軽い調子で話していた。
けれど、その言葉を聞いて、さっきの綴の表情の理由も少し分かった気がした。
「それは面倒そうだな」
「慣れてはいますけどね。だから、廊下で絹道くんが私に話しかけてくれたとき、びっくりしました」
「そんなに?」
「そんなに、です」
少しだけ力を込めて答える。
「何も言わなくても、私だって分かったんですよね」
「うん」
「……そうですか」
数秒の沈黙があったが、不思議と気まずくはなかった。
「まあ、綴と紬には申し訳ないけど」
俺がそう言うと、結は首を傾げた。
そして、はっきりとした口調で答えた。
「絹道くんが謝ることじゃないですよ。分からないものは、仕方ないですから」
「ありがとう」
「でも、二人とも私と違うところ、たくさんありますよ」
「それはもう分かってるよ。綴には警戒されてるし、紬はよく話しかけてくる」
「それ、二人が聞いたら怒ると思います」
「特に綴にはな」
「そうですね」
会話が一段落すると、結は時計を確認した。
「絹道くん、お時間は大丈夫ですか?」
もう少し話していたい気もしたが、アルバイトに遅れるわけにはいかない。
よくよく考えると、今日は放課後に紬、綴、結の三人それぞれと時間を過ごしていた。
これを相田たちに話せば、またやっかみを買うだろう。
「続きは、また明日でも」
「楽しみにしてます」
その言葉に頷いて、図書室を出た。
* * *
アルバイトを終えて店を出る頃には、すっかり外が暗くなっていた。
帰り道にスーパーへ寄り、夕飯の材料と飲み物を買って帰宅した。
玄関の脇には、まだ荷ほどきの済んでいない段ボール箱が二つ残っていた。
先に夕飯を作って食べた。
洗い物を済ませると、課題に取りかかるため、ようやく机に向かった。
問題を解いていると、ふと今日の綴の言葉を思い出した。
『まあ、間違えられるよりはいいけど』
自分が誰かと間違えられるのは、確かに気分のいいことではないだろう。
それでも綴は、紬が勉強に困っていたことを知り、俺に礼を言ってくれた。
警戒されているのは分かるが、悪い人だとは思わない。
紬もそうだ。
明るくて距離が近いから、時々驚かされる。
けれど、分からないことは素直に聞いてくるし、教えれば喜んでくれる。
二人とも、結とは違う。
顔では区別できないのに、話してみればそれぞれ違う人間だと分かる。
結だけは、話しかける前から分かる。
それに、結と本の話をしているときは、余計なことを考えずに済んだ。
自分の意見を話して、考え方が違っていても、もう一度考えればいい。
そんなやり取りを当たり前にできる相手が、今の学校にはいる。
「……本友だち、か」
自分で口にすると、少しおかしかった。
誰かと親しくなればなるほど、いつか自分が相手を傷つけるのではないか。
そう考える気持ちは、今もなくなっていない。
ただ、結と話している間は、その不安を忘れていたことに気づいた。
理由はよく分からなかった。
課題を終え、寝る支度を済ませる。
明日も学校がある。
そう思って考えるのをやめ、部屋の明かりを消した。




