第10話 - 白石家
白石家は、住宅街の中にあった。
外から見ただけでも、周囲の家より一回り大きいことが分かる。
ただ、見上げようと顔を上げると頭が痛むため、家の全体像までは確認できなかった。
玄関に入ると、家の奥から足音が聞こえてきた。
「お帰りなさい」
奥から姿を見せたのは、優しそうな表情をした女性だった。
おそらく、紬たちの母親だろう。
「絹道 織です。このたびは、お世話になります」
俺が頭を下げると、女性は慌てたように首を振った。
「そんなにかしこまらなくていいのよ。大変だったでしょう。私は白石 早苗です。よろしくね」
「……ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「部屋は用意してあるから、まずは休みましょう。お話はあとでもできるわ」
俺は案内された和室に入り、用意されていた布団に腰を下ろした。
きれいに整えられた布団には、清潔なシーツがかかっている。
枕元には水と体温計が置かれ、窓からは夕方の柔らかな光が差し込んでいた。
「夕飯は食べられそうなものを用意するから、何かあったら呼んでね」
早苗さんはそう言って、静かに襖を閉めた。
一人になると、改めて部屋を見回した。
知らない家で寝泊まりすることになるなんて、まだ実感が湧かなかった。
紬も結も、ここで暮らしている。
家族が過ごす場所に、自分だけが入り込んでしまったような気がして、どうにも落ち着かない。
そんなことを考えていたはずなのに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
◇ ◇ ◇
廊下から聞こえてくる話し声で、目が覚めた。
枕元に置いていたスマートフォンで時刻を確認すると、すでに夕方を過ぎていた。
俺はゆっくりと体を起こし、布団から立ち上がった。
まだ熱っぽさが残っていて、体も重かった。
スマートフォンと財布を手に取り、襖を開けた。
話し声のする方へゆっくりと歩いていくと、リビングにたどり着いた。
リビングでは、結と紬がソファに座っていた。
俺が声をかけるよりも先に、紬がこちらに気づき、小走りで駆け寄ってきた。
「織くん!もう起きて大丈夫なの?」
「うん。ちゃんと休んだ。直哉さんはいるかな?」
「今、少し出てる。何かあった?」
「そろそろ帰ろうかと思って」
言い終える前に、紬が顔をしかめた。
「ええっ!何言ってるの?」
「熱も下がってきたし、これ以上迷惑をかけるわけにもいかないから」
「今日、四十度もあったんだよ?まだ一人じゃ無理でしょ」
「でも、もう歩けるし」
「歩けるのと治っているのは違うよ!帰ってほしくない……」
そう言って、紬が一歩近づいてきた。
いつものように腕に掴まってくるかと思ったが、手を伸ばしかけたところで踏みとどまった。
それが少し意外だった。
紬は真剣な表情で俺を見つめている。
「また一人で熱が上がったら、どうするの?」
俺は何も答えられず、紬から目をそらした。
そのとき、結が読んでいた本を閉じた。
「私も、もう少し休んでいってほしいです」
静かな声だったが、はっきりとした強さが感じられた。
「紬から話を聞きました。織くん、具合が悪くても一人で何とかしようとしていたんですよね」
「……そうだね」
「元気になったら、また一緒に本の話ができます。だから、今は休むことを優先してほしいです」
そう言って、結は俺に笑顔を向けてくれた。
その表情は、病院で見たときとはまるで違っていた。
「読みたい本があるなら、あとで持ってきますから」
「……そんなことまで」
「私も、本の話ができる相手に早く元気になってほしいんです」
結はそう言って、優しく微笑んだ。
すると、紬がもう一度俺の名前を呼んだ。
「織くん。お願い。もう少しだけ、ここにいて」
二人の顔を見つめた。
誰かの好意に甘えれば、いつかその人を傷つけてしまうかもしれない。
けれど、今ここで断ることが、必ずしも相手のためになるとは限らない。
それは分かっている。
それでも、簡単には頷けなかった。
返事をためらっていると、背後から声が聞こえた。
振り返ると、早苗さんがこちらを見ていた。
「どうしたの?」
紬が俺の肩越しに早苗さんへ目を向けた。
「織くんが帰ろうとしているの」
「……すみません。もう少し動けるようになったので」
「そう。でも、まだ顔色がよくないわね」
早苗さんは責めるようなことは言わず、心配そうに俺の顔を見つめた。
そこへ、直哉さんもリビングに入ってきた。
「絹道くん、無理はしないでくれ」
「……はい」
俺の返事を聞くと、早苗さんが直哉さんの方を向いた。
「直哉さん、部屋はこのまま使ってもらって大丈夫よね?」
「ああ、もちろん。お医者さんから言われたこともあるし、数日は誰かがそばにいた方がいい」
早苗さんは改めて俺に目を向けた。
「体調がよくなるまでは、ここにいなさい。学校もここからなら近いしね」
押しつけがましい言い方ではなかった。
ただ、ここにいてもいいのだと、当たり前のことのように言ってくれた。
「元気になってから、帰ることを考えればいいわ。今すぐ決めなくても大丈夫」
早苗さんは穏やかな口調で続けた。
「嫌なことがあったら、遠慮しないで言ってね。私たちも気をつけるから」
その言葉に、思わず驚いた。
世話になっているのは俺の方だ。
それなのに、早苗さんの方から気をつけると言ってくれる。
どう返せばいいのか分からず、しばらく言葉が出なかった。
「……ありがとう……ございます」
その言葉を聞いて、早苗さんは優しく微笑み、紬もほっとしたように息を吐いた。
結は何も言わず、静かに俺の目を見つめていた。
早苗さんが、もう一度俺に声をかけた。
「……帰るなら、ちゃんと治ってからにしてね」
「はい。そうします」
そう答えると、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。
◇ ◇ ◇
夕食には、早苗さんが消化のよさそうな料理を用意してくれた。
ダイニングテーブルで白石家のみんなと一緒に食べたが、まだ喉が痛く、あまり話すことはできなかった。
それでも、疎外感を覚えることなく食事の時間を過ごせた。
夕食を済ませ、和室に戻ろうとしたところで、早苗さんに勧められて湯拭きをすることになった。
そういえば、病院に運ばれる前、紬が汗を拭くためのタオルを用意してくれていた。
結局、最後まで体を拭けず、それから今まで風呂にも入れていなかった。
浴室の外から声が聞こえた。
頭がぼんやりしていて、最初は誰の声なのか分からなかった。
「織くん、大丈夫?」
「……えっと……」
「紬だよ。声だけだと分からないよね」
「いや……ちょっとぼーっとしてて」
「倒れたりしない?無理しないでよ」
心配そうな声だった。
今の話し方では、頭がはっきりしていても、結や綴と聞き分けられなかったかもしれない。
それくらい、いつもの紬とは違っていた。
「大丈夫。座りながらやってるから」
「あのさ……ちょっと気になったことがあるんだけど。……織くんって、入れ墨とか入ってるの?」
何だ、急に。
どうしてそんな疑問が出てきたんだろう。
答えずにいると、紬が言葉を続けた。
「えっと……スウェットをめくろうとしたとき、二回とも止められたから。あんなにつらそうだったのに……」
「そんなことないよ……。中学以降、水泳とかもなかったし、異性の前で肌を見せることもなかったから、恥ずかしかっただけだよ」
半分は本当で、半分は嘘だった。
中学時代にも水泳の授業はあった。
ただ、俺はすべて欠席している。
親が学校に頼み、成績に影響が出ないようにしていた。
「そっか。よかった。あ、入れ墨に偏見があるわけじゃないよ。ただ、ちょっと気になっただけだから」
それには特に返事をせず、紬の話を聞きながら体を拭き続けた。
拭き終わるまで、紬は浴室の外で待っていてくれた。
そのあとも俺の体調を気遣いながら、一緒に和室まで戻ってくれた。
廊下の向こうにあるリビングから、家族の話し声が聞こえてくる。
何を話しているのかまでは分からない。
ただ、その声を聞いていると、今は一人きりではないのだと感じられた。
ここにいていい、と言われた。
その言葉を信じることは、思ったより難しかった。
それでも今日は、帰らずにいることを選んだ。
廊下から聞こえる声を遠くに感じながら、俺は目を閉じた。




