悪の名を選ぶ朝
春の最初の雨が降った。ルーヴェルの橋には新しい石が敷かれ、渡し場の泥は少し減っていた。修繕工房から出たシオンは、黒い外套の襟を整え、河畔に立った。足首には寒い夜に傷めた痕が残り、長く歩けば痛んだ。それも自分の選択が残したものだった。
町会の掲示板には、関税返金の最終手続きが告知されていた。調査は終わったが、損を取り戻せない者もいる。書記は別の部署へ移り、靴工房は借金を少しずつ返している。シオンが返した一枚の記録で全てが元通りになったわけではない。
市場を歩くと、子供が黒い花の絵を描いていた。昔なら怒っただろう。今日は立ち止まって、花弁を一枚直した。子供は「変なの」と言って走り去った。恐れられる名を作るには、他人の声を奪うことではなく、揺るがせぬ事実を積むことが要る。その意味が少しだけ分かってきた。
北門ではトアが新しい荷札を結び、ヨエルが夜警の交代を告げた。二人は自分の務めへ向かう。シオンを見ても特別な顔はしない。英雄がどこから生まれるのか、彼はまだ知らない。ただ、誰かが自分の前に立つ日が来るなら、逃げずに向かい合える悪でありたいと願った。
石工たちは橋の欄干の最後の欠けを埋め、春の通行検査に備えていた。完成の日程はまだ定まらない。増水が来れば工事が延びるかもしれず、王都の資材も予定通りとは限らない。橋を渡る人々は、完成していない部分を避けながら歩く。シオンはその慎重さを見て、何事も一足飛びには終わらないと知った。
シオンは川面に映る自分の姿を見た。美しい悪を目指すと決めたあの夜から、何一つ思い通りにはいかなかった。それでも憧れは消えていない。彼は黒い花の木版を懐へ収め、橋を渡った。川は雨を運び、町はまた新しい一日を始めていた。




