名を告げぬ責任
パンの配給所では、朝から人々が長い列を作っていた。貧しい者だけではない。来週の仕入れに不安を覚えた商店主も並ぶ。トアは荷車で粉袋を運び、衛兵バルトは順番を巡る争いを止めていた。シオンが顔を隠して見に行くと、配給係が一つ一つの袋に重さを書いていた。
列の端で老人が倒れた。原因は空腹ではなく持病の発作だったが、噂はすぐ『パンを奪い合って人が倒れた』に変わった。シオンが掲示した数字は、そんな噂の燃料にもなった。彼は何も訂正せず、配給所から遠ざかった。
ネラは帳場で、噂に関する出費を記していた。臨時雇いの賃金、秤の貸借、早馬の費用。シオンは匿名で金を置こうとしたが、ネラは受け取らない。「金で黙ってもらいたいなら、相手を間違えてる」。彼女は被害を正確に知りたいなら、列の最後まで歩いて来いと言った。
彼は言われた通り、夕方まで配給所を見て回った。文句を言いながら並ぶ者もいれば、隣人の代わりに二度運ぶ者もいる。混乱は彼一人の仕業ではないが、彼の判断が油を注いだことは確かだった。
配給所の列には、自分の順番を若い母親へ譲った老人がいた。母親は礼を言い、受け取った粉の一部を後ろの家族へ分けた。列が長いからこそ生まれる小さな助け合いもある。シオンはその光景を温かなものだと認めたが、だからといって自分の行為が良くなったわけではない。良い結果が一つ混ざるだけで、悪事が美しくなるわけでもなかった。
夜、シオンは自分の帳面に、最初の一行を残した。『名を明かさずとも、結果から免れることはできない』。それは反省文ではなく、これから悪を名乗る者が逃げ道を作らぬための誓いだった。




