役者の偽名
一座の悪王役が、夜の酒場で別の名を使っていた。舞台ではギレオン王、素顔ではアリスという小柄な男で、普段は安い靴を履いている。シオンは偶然同じ卓につき、なぜ悪王の名を捨てて歩くのか尋ねた。アリスは驚いてから、明日は荷を積む役者なので、その名では誰も雇ってくれないと答えた。
彼は悪王の歩き方を教わるため、一冬を掛けて膝の動きを直したという。力のあるように見える姿勢には、倒れないための裏側の工夫がある。シオンが試しに立つと、上体ばかり反って椅子にぶつかった。アリスは声を上げて笑い、茶をこぼさぬうちに座れと言った。
アリスは胸の内側から小さな針入れを出し、指の腹についた古い傷を見せた。悪王の衣装には長い裾があるため、戦う場面では自分で裾を畳んで足元へ留めるのだという。見せかけの威厳の裏に、転ばないための不格好な手当てがある。シオンがどうしても黒衣を脱ぎたがらないと知ると、アリスは暑い土地で倒れるなよと忠告した。役を終えれば着替えられる自分とは違い、青年はいつでも黒い布に閉じ込められているように見えたのだ。酒場の給仕は二人の杯を下げ、宿の閉店を告げた。
シオンは、演じる悪と生きる悪の違いを問うた。役者は酒杯を机へ置き、「わたしは人に帰り道を渡す」と答えた。恐怖の後に明かりのある道が残るから、人は明日また金を払って見に来る。そこを奪う者は客を失うだけでなく、舞台の約束を破るのだという。
答えが気に入らず、シオンは席を立った。酒場の外では雨が上がり、一座の若者が幕の縄を干している。悪を目指す男には帰り道を渡す義務などない。それでも、いままで自分の名を恐れた人々には、彼を見た後の暮らしが続いていた。シオンは黒衣の袖を払った。舞台の悪王にできることが、自分にはまだできないと認めたくなかった。




