花を名乗る前夜
港の夜明けは白く、倉庫の屋根から水蒸気が上がっていた。シオンは一人仕立場の窓を開け、久しぶりに黒い外套を干した。濡れた裾を整えれば、初めて橋の欄干に立った時よりずっと着心地がよくなっている。汚れも傷も、幾度も直した痕だった。
町会の掲示板には、新しい橋の通行時間が記されていた。魚屋の荷車は以前と同じ時刻に通り、港では術灯の点検が始まっている。偽の警告で止めた半日の流れは戻った。だが誰もが忘れたわけではない。黒い花を見て戸を閉める人もいた。
午後、仕事の合間にバルトが新しい橋の図面を届けに来た。北門から運ばれる皮革の量が増えるため、修繕の依頼があるかもしれないという。二人は短く仕事の話だけをした。衛兵が去る時、シオンはあの日の問いを思い出した。何になりたいのか。答えは変わらない。ただ今は、自分が誰かの障害になることも、ただの笑い者で終わることも知っている。そんな未熟さを抱えたまま、黒衣の青年は次の朝を迎えようとしていた。
シオンは自分の名を覚えた人々を思い、満足したい気持ちと向き合った。たしかに恐怖は生まれた。けれど彼が夢見た崇高な悪ではなく、疑わしい札を立てる若者への警戒だった。その違いを受け止めなければ、また同じ失敗を繰り返す。
彼は工房の机へ二冊の帳簿を置いた。一冊は修繕仕事の収支、もう一冊は自分の行いが残した損失だ。どちらにも他人の名前があり、紙の端へ勝手に黒花を押すことはしなかった。
昼過ぎ、北門から遠い山村へ向かう荷の修理依頼が入った。シオンは代金を確かめ、納期を約束する。遠い土地にはまだ知らぬ人も制度も、英雄と呼ばれるにふさわしい者もいるかもしれない。彼はその世界に出会うために、まず目の前の袋を縫い始めた。




