帳簿の余白にある名
ネラはロマス商会の返金台帳を閉じた。全員の支払いが終わったわけではないが、証言を得られない者や転居した者の名を別紙へ移したという。誰かの損失を数字にする仕事は、記録から漏れた者を探す手間に支えられていた。
シオンは台帳の余白へ、最初に会った老婦人の名がないか尋ねた。夜市で銅貨三枚を差し出された時の話だ。ネラは笑い、あの人は自分の客であって商会とは関係がないと答えた。彼は自分の最初の失敗が、いまの帳簿と何もつながらないことを奇妙に感じた。
ネラの机には、返金先の住所を探すための地図が貼られていた。引っ越した人の家には別の家族が暮らし、古い手紙は時に宛先不明で戻ってくる。相談員は港を離れた荷役人の名を読み上げ、知っている者がいないか確かめた。シオンは一人も知らなかった。ロマスの悪に怒った自分が、被害者の大半と会ったことさえない。名を残すため他人の痛みを使うなら、その知らなさはどれほど大きな傲慢になるのだろう。
ネラは旧商会の会計係が、新しい港務所で再雇用を断られたと知らせた。脅迫状を受けた男も、怪しい金の流れを見逃した責任を調べられている。加害と被害が一人の中に同居することは珍しくない。
シオンは帳簿の端に残った空白を見る。悪人を裁くという言葉では、一人ひとりの仕事や暮らしを括れない。自分が欲しいのは裁きではなく、恐怖によって知られる名だ。そう口にすると、ネラは筆を置いた。
「なら、いつか私もあなたを告発するかもしれない」。その声は脅しではなかった。長い付き合いの友人が、互いに越えられぬ線を指で示したようだった。シオンはその線を踏まぬまま、部屋を出た。




