奪われた署名
朝市の書記台で、ひとりの小作人が震える手で署名していた。地主から借りた水車の利用権を延長するためだ。しかし契約には、収穫の二割を追加で納める条項が小さく書き込まれている。小作人は読み上げられた箇所だけを聞き、そこに気づいていなかった。
通りかかったシオンが条項を指すと、地主の代理人は迷惑そうにした。契約は法に従っていると言い、同意しないなら別の水車を探せと告げる。村に使える水車は一つしかない。シオンはその困窮を利用していることが、印の上から分かった。
小作人の息子は粉挽きの道具を手入れしていた。水車が止まるとは知らず、壊れた歯車の替えを木工所へ頼んだばかりだという。父親の契約が変われば、修繕費を払うかどうかも決め直さなければならない。シオンは自分の言葉が動かしたのは地主だけだと思っていた。ところが木工所へ行けば材料代の約束があり、村には小麦を挽く順番を待つ家々があった。嘘は口から離れた瞬間、知らない人の仕事へ入り込んでいた。
小作人は一度契約を断り、村の人へ相談に戻った。代理人は腹を立てて台を片付けた。シオンはその背後に立ち、耳元で黒花の名を告げた。相手は知らないと答える。さらに彼は、地主の帳簿にあるかもしれない脱税を匂わせた。証拠など持っていなかった。
代理人の顔色が変わった。シオンは自分の言葉が通ったことに満足し、相手を去らせた。しかし昼過ぎ、地主は小作人の契約そのものを取り消した。水車は閉じられ、村の粉挽きが止まった。
村人が抗議に来た時、シオンは自分がしていない嘘まで口にした。「あの男は罪を隠している」。根拠のないその言葉に、何人かが顔を見合わせた。シオンはもう言い直さなかった。黒い花の名を得るため、誰かの仕事を賭けたのは自分自身だった。




