黒紙の差出人
シオンが宿へ戻ると、机に黒い紙が置かれていた。封はなく、『美しい悪はどこへ行った』とだけ書かれている。宿の女将は、昼に若い旅商が預けたと言った。差出人の名は残していない。シオンは久しぶりに、自分以外が黒花を気にすることに胸を躍らせた。
翌日、紙問屋へ持ち込むと、主人エーレンは店の商品ではないと答えた。墨を染み込ませた安い紙で、誰でも作れる。裏には麦粉の粉が付いており、宿の厨房に置かれていた可能性もある。謎は急に小さくなった。
学生たちの一人は、王都で人気の芝居から黒い台詞を覚えたと話した。演じているのは勇者を倒そうとして毎度失敗する役だという。笑われる理由を知りたい半面、シオンにはその芝居の入場料を払う気が起きなかった。宿の女将は若者へ夜更けの騒ぎを注意し、翌日には皆が畑の手伝いへ向かった。彼らにとって黒衣の男は一晩の余興に過ぎない。シオンは模造の紙を指で畳み、笑われたことが消えないうちは、本当に恐れられる資格などないのだろうと思った。
帳場で働く娘が、町の学生たちが黒衣の旅人をからかっていると教えてくれた。彼らは市場で一度シオンの名乗りを聞き、芝居の真似事だと思ったらしい。シオンは怒りよりも、名前が伝わったことに浮かれた自分を恥じた。
その夜、宿の裏手から笑い声が聞こえた。若者が黒い布を顔に巻き、悪王の台詞を叫ぶ。シオンは怒鳴って止めることもできたが、彼らが飽きれば終わる遊びを、重大な敵意へ変える理由は見つからなかった。
黒紙は捨てずに残した。人から笑われる苦しさを忘れれば、また衣装だけの悪へ戻ってしまう。だがその紙を見た晩、シオンは誰かを笑い返したいのではなく、いつか言葉を奪いたいと思っている自分に気づいた。




