夜渡しの契約
北へ向かう運搬隊は、川の増水で橋を使えず夜渡しを選んだ。舟は二艘しかなく、船頭の組合は荷車を先に渡すか旅人を先に渡すかで揉めた。イルダは薬箱の一部だけを下ろし、翌朝まで残りを待つ判断をした。
渡し場で働く青年は、船頭から古い借金の肩代わりを迫られていた。彼の父が壊した舟の修繕費だという。書面には確かに署名があるが、修理代は三年前に保険から支払われていた。シオンは帳面を見てその二重取りに気づいた。
若い船頭は客が少ない昼の渡し賃を下げ、その代わり夜には割増しを求めていた。川の底を知る者ほど、暗い時刻に舟を出す危険を理解しているからだ。シオンは借金の問題だけを見ていたが、台帳には水夫たちの正当な賃金も載っていた。ひとつの不正を暴くために全ての取り決めを壊せば、誰の舟も出なくなる。青年は受領書の写しを手に、自分で抗議へ行く覚悟を固めていた。
夜、彼は船頭の事務所に入り、保険金の受領書を机の上へ置いた。払い戻しを命じる黒封を書こうとして、ふとやめた。公領の法務官には同じ記録が届けられており、青年自身が請求の取り消しを申し立てていたからだ。
「お前は何者だ」と船頭が問う。シオンは黒い花の名を名乗った。しかし相手は聞いたことがないと笑った。よその町へ一歩出るだけで、あれほど悩んだ黒花の意味は消える。シオンは怒らず、保険金の額を読み上げて部屋を出た。
翌朝、青年は請求書の写しを懐へ入れ、仕事を始めた。借金の問題はすぐには消えない。シオンは渡し場から見える対岸の灯を眺め、名前の通じぬ土地に長く留まれば、自分の悪は最初から作り直せると考えた。




