最初の嘘の練習
宿の一室でシオンは、告発状を模した白紙へ架空の罪を書いた。代官が水を隠し、村人を飢えさせたことにする。実際には水師の到着が遅れているだけだ。それでも大きく書けば、知らぬ町の人は信じるかもしれない。墨が乾く前に紙を破り、また書いた。
若い頃の彼は、黒いマントを着れば恐れられると思っていた。今なら分かる。人は黒い布より、明日の水がなくなるという噂を恐れる。言葉一つで村の仕事を止められるなら、その方がはるかに大きな悪だ。
宿の女将は、深夜に灯が残る部屋を見て水差しを取り替えに来た。机の紙へは目を向けず、翌朝の食事時刻だけ尋ねる。シオンは反射的に文書を袖で隠した。自分が隠したのは偽の告発状だけではない。何の恨みもない人々を争わせたいと思った気持ちを、見られたくなかったのだ。女将が去った後、彼は破いた紙を炉へ入れたが、火の中で文字が縮むまで見届けた。袋に残す一枚の方が、はるかに重かった。
廊下で宿の女将が、代官の訪問を待っている村人たちへ茶を運んでいた。彼らは疲れ切っているが、互いに交代しながら井戸の清掃を続けてきたという。シオンは書きかけた二枚目を裏返した。使えば本当に争いが始まるだろう。代官だけでなく村人同士まで疑い合う。
彼は虚偽の書状を捨てなかった。袋の底に畳み、次の町へ持って行くことにした。いつでも悪になれるという安心を、手放したくなかったのだ。だが悪を選ぶ日のために誰かを壊してよいのか、答えはまだない。
翌朝、イルダが出発の合図を出した。村長は水師の到着日が決まったと知らせ、運搬隊へ短く礼を言った。シオンは礼を受け取る理由がないまま、馬車へ乗った。袖口に付いた墨の黒さだけが、昨夜の思考を残していた。




