谷間の医師
谷の宿場では医師のベルタが、旅人の足を診ていた。春雨で古い傷が痛む者が増え、診察室には長い列ができている。隊長イルダは荷にある薬瓶を早く届けるよう求めたが、医師は先に負傷した荷運びを診た。荷主の急ぎと患者の痛みは、同じ秤には載らない。
シオンは医師に頼まれ、包帯を切る小刀の柄を直した。工房で習った革巻きを使うと、ベルタは喜んで硬貨を渡した。彼女は黒衣について何も聞かない。ひび割れた手の動きを見れば職人かどうか分かるという。
避難した人々は、宿の台所に集まり、濡れた靴を火の近くへ並べた。女将は薬箱が濡れないよう棚の上へ置き、子供には熱い鍋に近寄らぬよう声を掛ける。シオンは戸口で乾いた布を配り、誰からも命令されなかったことに気づいた。医師のベルタは自分の薬を守るためではなく、今夜ここへ集まった人々が朝を迎えるために働いている。そうした生の手触りを、彼は悪王伝の頁から一度も得たことがなかった。
宿場の娘が診察室へ飛び込み、上流の橋で水が増えたと知らせた。旅人たちは荷を移し、橋守は通行止めの板を立てた。ベルタは誰を避難させるか、年寄りと歩けない者から決める。イルダは荷を守りたいが、先に馬を安全な小屋へ動かした。
シオンは橋で人を脅す想像を思い出した。ここで一言命令すれば誰かが従うだろう。しかし皆はすでに自分の役目を選び、動き始めている。黒衣の出番はなかった。
夜、雨が弱まるとベルタは疲れた顔で椅子へ座った。「助かったよ、職人さん」。その呼び方がシオンには妙に遠く感じられた。自分が望む名は、誰かの役に立つ肩書きではない。それでも包帯の小刀を握り直す医師の手には、彼が崩したくない確かさがあった。




