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第六楽章 2

言葉がないまま先に動いたのは佳那だった。


佳那は手にしていた小皿を絵茉へ無言で差し出した。


「え…」


フルートを手にしたまま、一言だけを発して固まってしまう絵茉。

佳那もそのまま動かないし、言葉も発さない。


店内は焼きたてクッキーを皮切りに、再び談笑が弾んでいる。


静と動のコントラストに、ステージ付近の沈黙が際立ってしまう。


「あの…佳那ちゃん?」


その沈黙に耐えられなくなった奏が佳那の名前を呼ぶと、佳那は少し泳がせていた目線を絵茉へと合わせた。

そして「絵茉」と名前を呼ぶ。

俯き加減だった絵茉もゆっくりと顔をあげ、少し不安そうな顔で佳那を見た。


それでもまだ会話はない。


その様子を見守っていた奏と絵茉の母親は心中穏やかではない。


助け舟をくれとばかりに音弥に視線を向けると、音弥の目線が奏に向いた後に窓際へと動いた。


そこは先程佳那が座っていた席だ。


何か意味があるのかと思いながらも素直にその席を見ると、異質な存在がそこにいる事に気付く。

え?と驚き思わずまた音弥に視線を向けると、音弥は僅かに微笑み小さく頷いた。


ナニかがいる。


奏も音弥がCと認識した楽器の姿を見つけた。


今すぐにでもステージを降りて音弥の所に駆け寄り、どういう事だと聞きたい衝動に駆られたが、自分が取り乱す訳にはいかない。


ふとステージ脇にFの姿も確認した。


絵茉のフルート。

そして佳那のクラリネット。


それぞれの化身がここにいると言う事は、何かが起きるという事だ。


ならば二人に任せてみようという音弥の真意に気付いた奏は、母親の背中を軽く叩いて共に一歩後じさった。


大人の圧が消えたからか、佳那はすうっとゆっくり息を吸い込み、吐いた。それから唇が少しずつ動いていく。


「歯ブラシ」


ようやく動いた口から聞こえたのは単語のみ。

絵茉だけでなく奏や母親も「え?」と目を丸くした。


「絵茉、歯ブラシ持ってるんでしょ?」


さすがに言葉足らずと思ったのか、佳那は続けて話しを始めた。

一音発した事で少し佳那の緊張も溶けたのだろう。


「え…うん」


絵茉も慌てて何度か頷きながら返答する。


すると佳那はまた持っていた小皿を絵茉に押し付けるように差し出した。


「食べて」

「え…」


ようやく佳那の真意が見えてきた。


「甘い物食べれば緊張も解れるから。これ、食べて」


ここまで言葉を吐き出せた佳那の緊張はすっかりなく、普段のように絵茉に接する。

ありがとうとお礼を言って絵茉がクッキーを受け取ると、ふうっと安堵の息を吐き出した。


それから奏の前に行きこんにちはと頭を下げる。


「奏先生、絵茉を少しだけ借ります」

「へ?あ、あぁ、いいけど…」

「ありがとうございます。絵茉、こっち」

「え?」


奏から許可をとるとにっこり笑い、絵茉には有無を言わせず腕を取って歩き出した。


楽器を持っているので気をつけながら足を進める。


「座って」


そして自分が座っていた窓辺の席へと絵茉を誘導すると、そこに座らせた。


「楽器、落とさないように置いて。それからクッキー食べて」

「あ、うん」


静かな物言いではあるが佳那の勢いに押されながら絵茉は頷いてその通りにした。


パクリと小さな一口をクッキーに落とすと、美味しいと口元を綻ばせる。


焼きたての温かなアメリカンクッキーが口の中で解け、チョコチップが踊り出す。

少しずつ咀嚼を続けると、ガチガチだった絵茉の緊張が解け、口元同様顔全体にもチョコチップのようなコロコロとした笑顔が戻ってきた。


そんな絵茉を見てから佳那はバックから櫛を取り出し、絵茉の後ろに立った。


「髪、乱れてるから少し直すよ」

「うん?」

「いいから、食べてて」

「うん」


一度背後の佳那へと振り向きかけた絵茉は、佳那に制されて前へと向き直りまたクッキーを食べ進めた。


「絵茉は素材がいいのにちゃんとしなすぎ。ここの跳ねとか直したら、フワフワの髪が可愛くまとまるの」


少し癖のある絵茉の髪に櫛を通しながら、跳ねる毛先を整える。


絵茉はフルート腕同様自分の容姿にも自信がない。

だから大きめの身体をいつも小さく丸める様にして教室でも音楽室でも隅にいる。


それを知ってか知らずか、佳那に窘められて丸まり気味の背中が更に小さくなった。


「フルートもそう」

「え…」

「素敵な楽器を持ってるのにちゃんと吹こうとしてない。そんなの楽器も可哀想」

「あ…ごめん、なさい…」


佳那が何を言いたいかを悟った絵茉は思わず目尻を下げた。


その瞳には涙が浮かびつつある。


ごめんなさい。

下手くそなのに貴女からフルートをとりあげてごめんなさい。


入部直後の胸の痛みが絵茉に再来した。

ギュッと締め付けられる苦しさに、思わず胸の前で拳を握る。


小さく震え始めた絵茉の背中を佳那が溜息を吐き出してからポンと叩いた。


「違うよ」

「え?」


驚く絵茉の背中を、佳那はもう一度軽く叩いた。

それは痛みを伴う暴力ではなく、緊張を解くために体温を分け与えるように優しい振動。


「そりゃ私だってやれるならフルートがよかったよ。でも楽器ないもん。学校のフルート、あんまりよくないって先輩言ってたし。それにクラならコンクールが終われば引退する三年生が使ってたいい楽器が借りられるって。それならクラが吹きたいじゃない」


ね?と佳那が絵茉に笑顔を見せると、一気に絵茉の胸の蟠りが昇華する。


これまで佳那と対峙するとどうしても身体が強ばってしまっていた。

原因は言わずもがな。

先輩からは心無い事を言われ、次第に同学年の中にも見えない溝が出来ていたように感じていた。


だがフルートを巡り生まれた諍いは、佳那の中では時間経過と共に薄れていたようだ。


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