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第三楽章 8

店内には相変わらずフルートの音色が流れている。


それは音弥がかけたLP盤のレコードからだったが、それに共鳴するようにFも歌い始めている。


Fの声はフルートの音色そのものだ。


流れているのはグノーのアヴェ・マリア。


Fはゆっくりと歩き、やがて絵茉の後ろへと立った。

そして両肩にそっと手をのせ、それからゆっくりと彼女を抱きしめた。

その表情はさながら聖母マリアのようで、美しく優しい、穏やかな母親のようだ。


ふと、絵茉が顔をあげた。微かに視線が動いたのは、無意識にFを感じているからだろうか。肩が小さく丸くなり、抱きすくめられているかのようだ。


そんな光景に目を奪われたのは音弥と奏だ。

慈愛に満ちたFが絵茉を暖かな光で包み込んでいる姿は、宗教画のようにすら感じられる。

Fから溢れる音色はアヴェ・マリアだが、大丈夫と絵茉に歌いかけているようだ。


大丈夫

貴女は独りじゃない

幸せに満ちた祝福が貴方を未来で待っている

音楽と共に…


自然と頭の中に流れ込んでくる。


音弥と奏が向き合い頷きあう。


ミューズの祝福が得られた今、きっと上手くいく。


「絵茉ちゃん」


音弥は歩みを進めて絵茉の足元へと座り込んだ。

彼女の顔を笑顔で覗き込み小さく首を傾ける。


「俺や奏と一緒に演奏してみませんか?」


え?と驚いたのは絵茉。

それと母親だ。


音弥は「奏」と呼びかけて立ち上がり、楽譜を出してもらうように促した。

そして自分は楽器の準備を始めると、同じように音弥にもそれを依頼する。


「絵茉ちゃん、これはね、音弥さんが君のために書いたんだ。今から吹いてみるから、聞いてくれる?」


驚きながら頷いたのは母親だ。

肝心の絵茉は驚きの感情が強いのか、瞬きを繰り返して二人のやり取りをただ見つめている。


二人ともリードを咥え、音弥は楽器のスタンバイを。

奏は取り出した楽譜を絵茉に渡し、もう一つの楽譜を顧問へと渡した。


「そんなに難しいアレンジではないんですが、弾けますか?」


それを受け取ると顧問は早速譜面に目を落とす。

一通り目を通してから顔をあげると、いけると思いますと頷いた。


オーボエは中学吹奏楽でも使われる事はある。

だが絵茉たちの学校の編成ではオーボエに割ける生徒はなく、楽器すら用意されていない。


恐らく初めて間近で見るオーボエに興味津々なようで、二人の音出しをじっと観察していた。


やがて譜読みが終わった顧問が店の片隅にあるピアノに視線を向けたので、音弥の指示で支度をした海月が顧問を手招く。

顧問は礼を言ってピアノの前に腰を下ろすと、早速楽譜と向き合ってピアノを鳴らし始めた。


即席の演奏会に、絵茉も母親もワクワクした様子が隠せない。

やはり二人とも音楽が大好きなようだ。


「先生、Aの音もらえますか?」


音弥がそう言うと、顧問はポーンとラの音を響かせる。

それに音弥も奏も音を合わせ始め、チューニングが終わると三人共顔を見合わせて頷いた。


奏は絵茉の方を見ると、笑顔を浮かべて彼女の前に置かれた楽譜に手を添えた。


「絵茉ちゃん、この曲はメヌエットと言って、フルートソロではとても有名な曲なんだ。フルートがとても綺麗な旋律で、きっと絵茉ちゃんも気に入ると思う。今日は俺がフルートのパートをオーボエで吹くから、聞いててね」


そう言われて頷く絵茉は少し不安そうな表情に戻ってしまっている。

母親も同じような顔をしているのは、きっとこの曲を知っているからだろう。


確かに、普通にこの曲をフルートソロで演奏するには、今の絵茉には難しい。

だがそれを考慮した音弥のアレンジだ。


本来ならば一人で演奏する旋律を、オーボエがサポートする形で作られている。


それを感じて欲しくて、奏は絵茉の傍で楽器を構えた。


それは始まりの合図。


もう一度三人で視線を交わして頷きあうと、最初の音を奏でる顧問が深呼吸をした。

すっと手が持ち上がり、鍵盤の上にしなやかに落ちる。左手でE♭の音を鳴らすと、次いで右手がアルペジオを奏で始める。柔らかなピアノの音が店内に響くと、Fも姿勢を正して胸元に手を当てた。


二小節のアルペジオの後、二本のオーボエがユニゾンでメロディを彩り始めた。

だがただのユニゾンではない。奏の音は音弥よりも少ないのだ。


これが音弥の秘策。


同じメロディを奏でているようで、完全なメロディラインを演奏しているのは音弥のオーボエ。

確かにメロディを吹いているはずの奏の音色は、幾分音符が少ない。

だが奏だけの演奏でも成り立つ程度に音を飛ばしてあるだけ。


それは主題が移り変っても同じようなアレンジで、細かく音が動く部分は全て音弥が吹いている。


それに気付いた母親が少し安堵した表情で絵茉の肩を抱いた。

まだ不安そうな絵茉に微笑みかけ、もう一方の手で楽譜に触れて小節を指差し始めた。

絵茉もまだ不安そうながらも、懸命に楽譜の音符を追いかけている。


柔らかな音色で美しい旋律が響き渡る。


全てが優しい世界に包まれているようだ。


不思議と、店内が明るい光を感じる。


ピアノ、オーボエの音色に加えて、どこからとなくフルートの音色も聞こえてくる気がする。


Fだ。


いつの間にかFもメロディを歌い始めていた。


まるで「大丈夫よ」とFの声が絵茉の中訴えかけるように、彼女の中に浸透していく。


そうして演奏が終わる頃には、絵茉からは悲しそうな表情は消えていた。

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