第三楽章 7
「あの…」
すると今まで黙ったままだった絵茉の母親が控えめに声を発してきた。
「フルート、私が大好きなんです」
大人たちはそれを聞いて「そうなんだ」といった具合で小さく頷いた。
ただ絵茉だけが驚いた表情を浮かべて母親を見つめている。
「でも私の家はあまり音楽をやる事に理解が得られなくて、フルートは疎かピアノも習わせてもらえなかった。できる事といえば音楽で使うリコーダーや音楽室でオルガンを弾いたりする事だけ。でもね、そうやって音楽室に通ってるうちに、先生がカセットテープに素敵な曲をいれて私にくれたの。それが私の宝物になった。だからね、先生が私に音楽をくれたように、絵茉が音楽に興味をもったらすぐにでも何かしてあげようって思った」
恐らく絵茉にとって、初めて明かされる母親の心なのだろう。
絵茉は黙ってそれを聞いているが、僅かに瞳が潤み始めている。
「絵茉、覚えてるかな?」
急に呼びかけられ顔を上げた絵茉は、何の事だろうと首を傾げた。
絵茉の仕種を見て、母親は懐かしそうに目を細めて話し始める。
「幼稚園でピアノ教室の募集があって、希望者は幼稚園が終わったあとに先生が来てくれてレッスンを見てくれることになったの。絵茉は仲良かったお友達がやるからって理由で、一緒にやりたいって。でもそのお友達はすごく上手で、絵茉はあんまり練習もしないからすぐに差がついたよね。だけど音楽は好きみたいだったから、やめなかった。代わりに他の楽器にも興味を持ったみたいだから、一緒に色んなのを聞きに行ったね」
母親の話を絵茉も覚えているのだろう。
小さく頷きながら母親の話を聞いている。
「小学校の時の学校の移動音楽教室の日、絵茉はすごく興奮して帰ってきた。県内のオーケストラが演奏する学校行事だけど、小学生向けの選曲だったのよね。きっとプレーヤーの皆さんも気難しさのない人が来ていたんだと思う。だから人見知りの絵茉も沢山話せたのよね。フルートのお姉さんとお話したって、それは目をキラキラさせながら私に話してくれたの。いつかお姉さんと一緒に吹く約束したのよって、とても嬉しそうに。それから、サランラップの芯とかに丸を沢山描いてフルートを作って遊んでた」
可愛らしい子供のエピソードに、当の本人は少し恥ずかしそうにはにかんでいる。
けれど俯いたりはせずに母親の話を聞いている姿が、当初の自分に自信のなさそうな女の子の印象とは違ってきている。
「だからある日私が聞いたのよね。フルート吹きたい?って。そしたら絵茉、大きい声で『うん!』って。でも当時の絵茉には腕の長さ足りないだろうなって思って、高学年になるのを待ってプレゼントしたの」
その時のことを鮮明に覚えているのだろう。
絵茉も懐かしそうな表情を浮かべている。
「でもね…」
急に母親の声がトーンダウンした。
一同、その変化に首を傾げる。
そして絵茉は僅かに俯いた。
「喜んだのは最初だけだったね。今はフルートを持つのも辛いみたい…」
それは現状。
母親も絵茉も肩を落として、寂しそうな顔で唇を結んだ。
「絵茉」
名前を呼ぶと同時に、母親の表情がフッと和らいだ。
それは穏やかな微笑みなどではなく、少しだけ悲しい笑顔。
けれどどこか慈愛に満ちていて、絵茉への愛情の深さが窺える。
「フルート、やらなくてもいいんだよ?」
優しい声母の声に、絵茉は驚き顔を上げた。
まさか絵茉は、母親からそう言われるとは思ってもいなかったのだろう。
慌てて小刻みに何度も首を横に振る。
絵茉の瞳には薄く涙も見えた。
だが唇は結ばれたまま、何も言わない。
けれど痛い程気持ちが伝わってくる。
フルートをやめたいわけじゃない。
そんな絵茉を見て、母親が「絵茉」と深い声でもう一度名前を呼んだ。
絵茉の瞳がとうとう決壊した。
俯いたままの顔。
目蓋はぎゅっと瞑られているのに、傍から雫が溢れてくる。
声を出さないようにと唇は結ばれたまま。
何度も鼻をすすりながら、肩を動かして泣き続けた。
その時だ。
音もなくFが立ち上がった。
えっ、と思わず声を発しそうになった奏を見て、音弥が口元にに一本指をあてる。
Fが見えているのは音弥と奏の二人だけ。
音弥は奏に視線を向けて小さく頷いた。
それを受けて奏も一度頷く。
見守ろう。彼女達のストーリーを。




