第三楽章 3
ドリンクのオーダーを海月がとってきたので、グラスや氷の準備を彼女に頼んで音弥はコーヒーの準備を始めた。
オーダーはアイスコーヒーとアイスカフェラテが一つずつ。
それに黒糖ラテが一つだ。
オーダーはないが奏と海月にも淹れてやろうと、コーヒー豆をオーダー数プラス一で用意してそれをミルにかける。
鼻の効く海月が音弥の手元を覗き込んできたので、グラスをあと二つ用意して四人に出してくるように指示し、店外のプレートを準備中に変えるようにも頼んだ。
海月はいい返事をして音弥の指示に従って動き始めた。
その間に音弥が手際よくドリンクの用意を進めると、店内は瞬く間にコーヒーの芳しい香りで満ちていく。
それはまるで絵茉の心の中の重い蟠りと入れ替わるように、鼻腔を通じて彼女の肺の中を満たしていった。
それでもいきなりこんな場所に連れてこられた事に気後れしているのか、表情は晴れない。
店内では顧問の先生と絵茉の母親が世間話に興じている。
肝心の絵茉は完全に置いてけぼりを食らっていて、テーブルに置かれている黒猫のオブジェを見つめていた。
すっと手を伸ばしそれに触れようとした時、ドリンクがすべて出来上がり海月がそれらをテーブルに置き始めたので、絵茉は慌てて手を引いた。
「絵茉ちゃん、ここの黒糖ラテはね、俺と音弥さんが沖縄に行った時に買ってくる黒砂糖を使ってるんだ。だから終わったらおしまい。メニューから消えちゃうんだ。これに出会えた絵茉ちゃんはラッキーだよ」
「そう、なんですね」
ラッキーという言葉に僅かに絵茉の口元が綻ぶ。
ここに来て初めて見る事のできた絵茉の笑顔に、大人たちが一斉に脱力したのがわかった。
音弥はそのやり取りの最中、パンケーキの準備を始める。
ふとカウンターを見ると、Fの口元にも優しい笑みが浮かんでいるのを見つけた。
その笑顔は絵茉によく似ていて、二人が通じあっている事が分かる。このFは、絵茉にとても大切にされているのだ。
綺麗に楽器の手入れをしている事は、Fの身なりを見ればよく分かる。
楽器を愛し、大切にしている。
なのに自分ではそんな愛しい楽器を活かしきれていないもどかしさ。
もしかしたらまだ絵茉にはそんな感情すら芽生えていないのかもしれない。
大好きな楽器を前に、自信が持てずに愛する事にも二の足を踏んでいる状況なのかもしれない。
音弥はFを見て「大丈夫」と気持ちを込めて頷いた。
するとFもまた小さく頭を下げた。
絵茉だけじゃない。
Fも絵茉を大切に想っているのだろう。まだ始まったばかりの彼女の音楽人生を導く一番手になりたいと、Fは小さく「お願い」と唇を動かした。
その時だ、絵茉が顔を上げた。それはまるで、Fの囁きが聞こえたかのように。
その様子を目の当たりにした音弥は、ほほうと感心したように眉を動かし、このミッションが上手くいく事を確信した。




