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第三章 牙を剥く檻と、共鳴する咆哮

 地下牢の泥混じりの床で、シャールはゆっくりと瞼を開けた。全身を刺すような激痛。昨日、貴族席の護衛兵から叩き込まれた棍棒の打撃痕が、紫色の惨めな痣となって肌を覆っている。肋骨に罅が入っているのか、息を吸うだけで胸の奥が熱く疼いた。「……ッ……」小さな呻き声を漏らし、体を起こそうとした瞬間。視界の端で、巨大な緑色の影が動いた。「グ……」ボルだ。ボルは巨躯を丸めるようにしてシャールのすぐ傍に座り込み、不器用な手つきで冷たい水に浸した布、看守の服の切れ端を、シャールの痛む額や肩にそっと当てていた。三メートルを超える怪物。かつて村を襲い、人間を食い殺すと恐れられていたゴブリン。そのゴツゴツとした岩のような手が、壊れものを扱うかのように慎重に動いている。「……ボル」シャールが呼びかけると、ボルは片目の傷を細め、短く「グオ」と応えた。昨夜、半分の黒パンを分け合った夜から、二人の間の空気は一変していた。そこにあるのは、互いを利用し合うだけの冷酷な損得勘定ではない。絶望の底で互いの傷を知り、同じ怒りと悲しみを抱える者同士の静かな絆だった。シャールはボルの大きな手の甲に自分の小さな手を重ねた。「あの男……昨日、上から私を見下ろしていたあの軍服の男は、アストルだ。私の全てを奪った奴だ」ボルは静かに耳を傾けている。言葉の意味は分からずとも、シャールの声に宿る激しい憎悪と深い傷を、肌で感じ取っているようだった。「あいつの命令ひとつで、私の村は燃やされた。お父さんも、お母さんも……みんな殺された。私は復讐するために生きてる。あいつの首を刈るまでは、絶対に死ねない」シャールは握りこぶしを強く握りしめた。爪が皮膚に食い込み、血が滲む。「でも……昨日は届かなかった。自分の無力さが、死ぬほど悔しい」その時、ボルがゆっくりと自分の右手をシャールの目の前へ差し出した。白く盛り上がった古い傷痕。ボルは自分の胸を拳でどんと叩き、それからシャールの胸を太い指先で優しく指した。



お前だけじゃない。俺も同じだ。言葉なきメッセージが、シャールの胸に直接響いた。シャールは微かに唇を震わせ、そして力強く口元を歪めた。「……そうだな。私には、お前がいる」ガチャンッ!重い金属音が地下牢に響き渡り、乱暴に鉄門が蹴り開けられた。武装した数人の警備兵が、不気味な笑みを浮かべながらなだれ込んでくる。「おい、死に損ないのガキと化け物!時間だ、出ろ!」看守は鞭をしならせ、威嚇するように壁を叩いた。だが、昨日のようにシャールを蹴り飛ばそうと足を出した看守の前に、ぬっとボルの巨躯が立ちふさがった。「ヒッ……! な、なんだその目は……っ!」ボルの黄色い片目が、鋭い殺気を放っている。看守は思わず一歩後退り、怯えたように短剣を引き抜いた。「触るな」シャールは冷ややかな声で言い放ち、痛む体を押し通して自力で立ち上がった。「行くぞ、ボル。今日の死場へ」白日に晒された大都コロシアム。だが、今日の砂場はいつもと様子が違っていた。広大な中央広場には、高さ十メートルを超える無数の巨大な石柱が乱立し、まるで複雑な迷宮のようになっていた。さらに地面の随所からは鋭い鉄杭や罠が飛び出しており、足場は極めて悪い。



 「さあさあ!本日の演目は特別ルール!“死の迷宮デストラップ・ラビリンス”だーっ!」司会者の拡大魔法が響き渡る。観客席からは、仕組まれた新たな趣向に歓喜の怒号が上がっていた。「連勝を重ねる異色のタッグ!だが、コロシアムの支配者層は甘くない!本日は狭く見通しの悪いこの迷宮で、多重の試練を与えられることとなったぁーっ!」貴族席の最上段。シャールは石柱の隙間からバルコニーを見上げた。そこには、寸分の隙もない軍服に身を包んだ男――アストル将軍が立っていた。冷徹で深みのない瞳で砂場を見下ろしている。その表情には怒りも不快感もなく、ただ厳格な規律と、計算された処理プロセスを実行する冷ややかな無感情だけがあった。(あの男……私たちが邪魔になったか)シャールは鋭く察知した。ただの罪人と怪物の使い捨ての余興のはずが、民衆の熱狂を集め始め、さらに昨日は貴族へ刃を向けた。王国の規律と統制を絶対とするアストルにとって、計算外の熱狂を生むシャールとボルは、速やかに「消去」すべき排除対象に過ぎないのだ。感情的な憎悪ではなく、冷徹なコスト計算とリスク管理として、生きて出られない完璧な処理場が用意された。ギギギ……と反対側の壁が上がり、放たれた刺客たちの姿が現れる。現れたのは、通常の魔獣ではない。身軽な動きで壁を這う凶悪な影蜘蛛の群れ数十頭。そして、その後方から重厚な全身鎧を纏い、巨大なタワーアックスを携えた罪人出身の処刑人部隊五名。「ヒハハハ!あのガキとゴブリンを殺せば、自由と金貨が手に入るんだ!」「バラバラにして殺してやるぜ!」処刑人たちが下劣な笑い声を上げ、影蜘蛛とともに迷宮へとなだれ込んでくる。「くっ……障害物が多すぎる!」シャールは短剣を構えたが、乱立する石柱のせいでボルの巨躯は思うように動けない。狭い通路ではボルの圧倒的なパワーが殺され、身軽な影蜘蛛たちの絶好の狩場となってしまう。シャアアアッ!天井の石柱から、一頭の影蜘蛛がシャールの背後へ飛びかかってきた。毒液の滴る鋭い大顎が、シャールの首筋に迫る。「シャール!」ボルの叫びのような咆哮。ボルは自分を繋ぐ鉄枷の鎖を石柱に巻き付けると、力任せに引っこ抜いた。ドガァンッ!巨大な石柱が根本からへし折れ、崩落する岩の塊が影蜘蛛を押し潰す。間一髪で難を逃れたシャールは、崩れた石盤を蹴って空中へ跳び上がった。「ボル!狭い場所で戦うな!石柱を破城槌にしろ!」シャールの意図を、ボルは瞬時に理解した。言葉による複雑な指示ではない。シャールの視線と身体の動きだけで、何を求めているかが手に取るように分かった。



「グオオオオオンッ!!」



 ボルは咆哮し、倒れた巨大な石柱の破片を丸太のように抱え上げた。三メートルを超える腕力が爆発する。ボルはそのまま、迷宮の壁や石柱をなぎ払いながら強引に突進を開始した!ドカァァン!ズガァァンッ!緻密に組み上げられた迷宮が、ボルの規格外の怪力によって一瞬で崩壊していく。身を隠していた影蜘蛛たちが悲鳴を上げ、瓦礫の下敷きとなって潰れていった。「な……なにぃいいっ!?迷宮そのものを破壊している!破天荒な破壊力だーっ!」「バ、化け物め……!」迷宮を破壊され、姿を晒された処刑人たちが青ざめる。だが、彼らもまた死線をくぐってきた手練れだ。体勢を立て直すと、重装の巨躯を生かしてボルを取り囲んだ。「ゴブリンの動きを止めろ!ガキから殺せ!」二人組の処刑人が、無防備なシャールを目がけて両手斧を振り下ろす。肋骨の痛みが走り、シャールの動きが一瞬鈍った。(マズい……っ!)回避が遅れる。迫る斧の首筋。その時、シャールの視界を暗闇が覆った。ガキィィィンッ!!甲高い金属音が轟く。ボルが背後から滑り込み、己の太い腕に嵌められた鉄枷を盾にして、二振りの巨大な斧を同時に受け止めたのだ。火花が激しく散り、鉄枷に深い亀裂が入る。「ボル……!」ボルは攻撃を防ぎ切ると、そのまま頭突きを叩き込み、処刑人の一人の頭骨を粉砕した。だが、もう一人の処刑人が隙を逃さず、ボルの無防備な脇腹へ深々と槍を突き立てた。「グッ……!」鮮血が吹き出す。ボルが苦悶に顔を歪めた。「ボルに手を出すなああああっ!!」シャールの瞳が激怒に染まった。全身の激痛など忘れていた。シャールは地を誇るような超低空のステップで踏み込むと、ボルの脇腹に槍を刺したままの処刑人の膝裏へ短剣を突き立てた。「ガハッ!?」膝から崩れ落ちる処刑人。シャールは躊躇なくその首筋へ滑り込み、刃を横一文字に切り裂いた。舞い散る鮮血。残る処刑人は三人。彼らは恐怖に怯え、一歩後退った。目の前にいるのは、ただの少女と魔物ではない。互いの傷を庇い合い、欠点を補い合い、命を預け合う「完成された一対の牙」だ。「モンスター……あいつら、二人で一つのモンスターだ……!」「来いよ」シャールは血塗られた短剣を構え、凶暴な笑みを浮かべた。その背後で、腹から血を流すボルが、地響きのような咆哮を上げる。「生き残るのは……私とボルだッ!!」シャールが走り出す。ボルがそれに続いて地を蹴る。二人の影が重なり合い、残された敵へと襲いかかった。勝負は一瞬だった。シャールが敵の視界を攪乱し、死角からボルが豪腕を叩き込む。逃げ場を失った処刑人たちは、相次いで砂の上に倒れ伏し、二度と動かなくなった。コロシアムを支配したのは、完全な静寂だった。複雑な迷宮は跡形もなく破壊され、仕掛けられた罠も、送り込まれた刺客も、すべて返り討ちにされた。崩れた石柱の頂点に立ち、血塗られた短剣を掲げる少女。その横で、地を揺るがす勝ちどきの咆哮を上げる巨大なゴブリン。一瞬の静寂の後。ウオォォォォォォォンッ!!!!地鳴りのような、これまでで最大の大歓声がコロシアムを揺らした。貴族も、民衆も、もはや二人が「罪人」か「魔物」かなどどうでもよくなっていた。目の前で繰り広げられた圧倒的な死闘と、言葉を超えた美しいまでの連携に、誰もが狂喜乱舞していた。「勝者!シャール&ボルッ!!誰もが絶望した死の迷宮を、二人は暴力と絆で粉砕したぁぁぁーっ!」シャールは荒い息を吐きながら、貴族席のアストルを強く睨みつけた。アストルの顔には、取り乱した様子も不快感すらも浮かんでいない。ただ、提出された作戦計画書に予想外のエラーが生じたかのように、静かで淡々とした観察の眼差しを注いでいる。その動じない姿勢こそが、彼が己の公務と王国の絶対的秩序に確信を持っている証であった。



(見ろ……お前がゴミのように切り捨てた村の生き残りと、化け物と蔑んだゴブリンだ。私たちは絶対に死なない)



 シャールは短剣の先端を、まっすぐにアストルへと突きつけた。明確な宣戦布告。隣に立つボルが、傷ついた腹を押さえながら、シャールの肩にそっと大きな手を置いた。「……帰りましょう、ボル」シャールがつぶやく。暗く不快な地下牢へ戻る足取りは、もはや重くなかった。そこに待っているのは絶望ではない。共に戦い、共に生き残った相棒と過ごす、束の間の温かな時間だ。二人の復讐と自由をかけた戦いは、コロシアムという檻を越えて、王国全体を揺るがす大きな渦となっていこうとしていた。


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