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最終章 地図に刻む名前

 大都コロシアムの最深部。地下牢の静寂は、冷酷なまでに静まり返っていた。昼間の戦いでコロシアムの死の迷宮を粉砕し、観客を熱狂させたシャールとボル。しかし、支配者層にとって、その勝利は単なる不都合な異物でしかなかった。静かな靴音が石畳を響かせる。 鉄門の向こうに現れたのは、漆黒の軍服を隙なく着こなした男。アストル将軍だった。腰には装飾の美しい細身の西洋剣。その佇まいは冷徹でありながら、隙のない美しさと品格を漂わせている。背後には、静歩で控える重装騎士団。「……夜分遅くにすまないね」アストルは穏やかな、しかし感情の籠もらない通る声で静かに語りかけた。その瞳には過度な蔑みも無駄な怒りもなく、ただ粛々と業務を遂行する官僚のような冷徹さだけがあった。「シャール。そして……名もなきゴブリン。君たちのコロシアムでの戦いぶりは見事だった。だが、不都合なのだよ。民衆が罪人と魔物の絆に希望を見出すことは、王国の秩序において看過できない」「……アストル」シャールは刺さるような視線で男を睨みつけた。激痛を押し殺して立ち上がる少女の手足には、さらに太く重い鉄枷が嵌められている。「なぜ……あの日、私の村を消した。お父さんも、お母さんも……なぜ殺した」アストルの表情はピクリとも動かない。彼は哀れむようにほんの少し首を横に振った。「私情はない。君の村があった地には、王国の発展に必要な資源が眠っていた。国家の安寧と繁栄のため、歴史の影に消えてもらった……ただ、それだけだ。私は課せられた忠義を果たしたに過ぎない」悪意すらない、完璧な「公務」としての残虐さ。それが何よりもシャールの胸を深くえぐった。「今夜、ここで君たちの処刑を執り行う。苦しみを与えぬよう、一閃で終わらせよう」アストルが静かに西洋剣を抜き放ち、騎士たちへ合図を送った。その瞬間。「グオオオオオンッ!!」地鳴りのような咆哮とともに、巨大な緑色の影が跳ね上がった。




 ボルだ。ボルは首の鉄枷を自らの首筋が血で染まるのも構わず、壁の留め具ごと力任せに引きちぎった。太い鉄鎖を死神の鎌のように振り回し、鉄格子を一撃で破砕する!ドガァァァンッ!!「……チッ。やはり一筋縄ではいかんか」アストルは顔色一つ変えず、静かに後退りながら剣を構え直した。「全兵、構えよ。逃亡者は容赦なく討ち取れ」吹き飛ぶ石畳と鉄格子の瓦礫の中、ボルはその巨躯でシャールを抱え上げると、崩れ落ちた壁の隙間から地下通路へと猛スピードで突き進んだ。「追うのだ。彼らを外界へ逃がしてはならない」アストルの冷静な指示のもと、館内に緊急事態の鐘が鳴り響く。薄暗い地下通路を、ボルは破竹の勢いで突き進んだ。立ち塞がる警備兵を豪腕でなぎ払い、鉄扉を体当たりで破り壊していく。「ボル、右だ!観客席下の通路から地上に出られる!」ボルの背中にしがみついたシャールが鋭く叫ぶ。二人は地上へ続く大階段を駆け上がり、月光の照らす無人の砂場へと飛び出した。だが、脱出口となる巨大な鉄門の前には、すでに先回りしていた騎士団と、愛馬に跨ったアストルが静かに待ち構えていた。「言ったはずだ。ここから逃がすわけにはいかない」月光に照らされるアストルの西洋剣。その静かな威圧感は、これまでのどんな魔獣よりも重くシャールにのしかかった。



「……殺す」



 シャールの瞳が、灼熱の赤に染まった。倒れた警備兵から奪った一振りの剣を両手で強く握りしめる。「お前がどれだけ澄ました顔をしていようが関係ない!私の全てを奪ったお前を……ここで殺すッ!!」激痛も、逃亡の理由も、すべてが復讐の炎の中に吹き飛んでいた。シャールは弾丸のように地を蹴り、アストルを目がけて突進した。「復讐に狂った刃など、届きはしない」アストルは馬上で冷ややかに見下ろし、神速の一閃を繰り出した。ガキィィィンッ!鋭い金属音。アストルの流麗な剣技がシャールの雑な突進をあっさりと受け流し、その刃がシャールの肩を深く浅く切り裂いた。「くあッ……!?」膝をつくシャール。だが、彼女は血を吐きながらも立ち上がり、鬼気迫る形相でアストルの首筋を睨みつけた。「まだだ……まだ……! お前の首を斬るまでは……っ!」シャールは再び剣を振り上げ、自暴自棄な間合いでアストルへ飛びかかろうとした。自身の命などどうでもいい、ただこの男に一刃報いることだけを考えた、自滅覚悟の突撃。アストルは静かに剣先をシャールの喉笛へ合わせた。「終わりだ、少女」だが、シャールの身体が浮き上がった。ガシッ!巨大な緑色の手が、飛び出そうとしたシャールの襟首を力任せに掴み、強引に引き戻したのだ。「な……放せ、ボル!放せッ!」シャールはボルの手の中で暴れた。「あいつが目の前にいるんだ! 私の村を消した奴が!ここで殺さなきゃ……私は何のために生きてきたんだよッ!放せえぇぇっ!!」涙と血でぐしゃぐしゃになった顔で叫ぶシャール。しかし、ボルは首を横に振った。「グ……」ボルの黄色い片目が頑固なほど強い意志を持ってシャールを見つめていた。 ボルは片手でシャールをしっかりと抱え込むと、自分の胸を叩き、そして破られたコロシアムの大鉄門。その向こうに広がる夜の森を指差した。「死ぬな。復讐のためにここで死ぬな」かつて地下牢で、シャールが彼に教えた「生き残る」ということ。復讐の狂気に取り憑かれ、自ら死地へ飛び込もうとする少女を、言葉を持たない怪物が全力で引き止めていた。「……ボル……」シャールの手が、だらりと垂れ下がった。 ボルの温かい胸の鼓動が伝わってくる。ここでアストルと相打ちになれば、自分は満足するかもしれない。だが、ボルはどうなる?自分を庇い、一緒にここで殺されるだけだ。



(私は……一人じゃない)



 胸の奥の復讐の炎が、ボルの体温によって静かに静まっていった。 シャールはアストルから視線を外し、深く息を吐いた。「……すまない、ボル。……逃げるぞ」ボルは喉を鳴らし、そのまま大鉄門へ向かって全力で地を蹴った。「追え!討ち取れ!」騎士たちが一斉に槍を構えて押し寄せる。ボルは迫る騎士たちの突撃を己の巨躯で弾き飛ばし、大鉄門の重い扉に体当たりをかました。ドドォォォンッ!!悲鳴を上げて吹き飛ぶ大鉄門。月明かりの下、外の世界の自由な風が二人の頬を撫でた。「アストル将軍!追いましょうか!?」副官が焦ったように馬を寄せる。アストルは西洋剣の血を半紙で静かに拭い、鞘へと収めた。その視線は、夜の森へと消えていく少女とゴブリンの背中を、どこまでも冷静に見つめている。「……いや、深追いはするな。夜の森で彼らと戦うのはリスクが高すぎる」「しかし、あのまま逃がせば王国の脅威に……!」「構わない」アストルは微かに細い目を細めた。不快感ではなく、一人の軍人として彼らの「生き汚さ」を冷たく評価するように。「罪人と魔物が、どこまで国家の手から逃げ延びられるか……見ものだな。報告書類には『逃亡、捜索継続』と書いておけ。いずれ、また交わる時が来る」アストルは翻したマントとともに馬の口づけを返し、静かにコロシアムの奥へと消えていった。



 大都の喧騒を遠く離れ、二人は湿った夜の森の奥深くへと辿り着いていた。静まり返った深い森。梢の隙間から差し込む青白い月光が、傷だらけの二人を静かに照らしている。ここまで来れば、王国の追手もすぐには届かないはずだった。ふと、シャールは立ち止まった。自分の着物の裾を握りしめ、前を行くボルの背中をじっと見つめる。かつて自分は一人で生き、一人で死ぬはずだった。ゴブリンとも、ただコロシアムを生き残るためだけに割り切った共犯関係を結んだに過ぎない。脱獄は成功した。もう、この怪物に自分を縛り付けさせる理由はない。



「……ここまででいい」



 シャールは掠れた声でぽつりと言った。ボルが重い足取りを止め、ゆっくりと振り返る。シャールは視線を少し低く落としながら、あえて冷ややかに口元を歪めてみせた。「追いかけてくる追手からは、別々で逃げた方が生存率は上がる。お前はもう自由だ。好きなどこか遠くの山にでも帰れよ」シャールは背を向け、一人で別の道へ歩き出そうとした。



「……じゃあね」



 言葉短く言い捨て、足を踏み出したその時。ずしん、と大きな足音が一つ。シャールの目の前に、見慣れた巨大な緑色の手がそっと差し出された。シャールは足を止め、怪訝そうにその手を見上げた。ボルは表情を変えず、不器用な動作で自分の広い肩を太い指先でぽんと指さした。「ここに乗れ」という合図。



「……乗れってこと?」



 シャールが呆れたように呟くと、ボルは力強く、一度だけ首を縦に振った。別れなど最初から許すつもりはないと言わんばかりの、頑固で温かい無言の主張。シャールは呆れたように小さく溜息をついた。けれど、その瞳からは自然と涙が溢れ出していた。



「……バカ」



 シャールは差し出された大きな手によじ登り、ボルの丸く頑丈な背中へと体を預けた。ボルの背中は、固くて、温かくて、驚くほど広かった。今まで誰も自分を守ってくれなかった。村が燃えたあの日からずっと、世界中のすべてが敵で、一瞬たりとも気を緩めることなどできなかった。いつ背中を刺されるか、いつ殺されるか怯え、泥をすすりながら死に物狂いで牙を剥き続けてきた。だが、この背中の上にいる。トントン、とボルの巨躯が静かな歩調で森の奥へと歩みを進め出す。その揺れは、まるで小さなゆりかごのようだった。シャールの重い瞼が、ゆっくりと閉じていく。傷の痛みも、全身の疲労も、復讐の炎さえも、いまだけは遠い幻のように薄れていった。



(……あたたかい……)



 シャールはボルの首元に顔をうずめ、深く、深い息を吐いた。村が消えてから三年。彼女が生まれて初めて、何の恐怖も感じずに、心から安心して眠りに落ちた瞬間だった。規則正しい少女の寝息が、背中から伝わってくる。ボルは眠ったシャールを起こさないよう、足音を殺して静かに夜の森を歩き続ける。言葉を持たない怪物。名前を奪われたゴブリン。けれど彼には、もう名前があった。世界でたった一人、あの小さな少女がくれた「ボル」という大切な名前が。月明かりが照らす森の道。無言で歩む巨大な怪物と、その背中で静かに眠る少女の影は、どこまでも深く、どこまでも強く、新しい明日に向かって溶け込んでいった。





【エピソード一 完】


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