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第二章 殺し合う二人、生き残る二人

 大都コロシアムの朝は、血と鉄の匂いとともに明ける。すり鉢状の巨大な観客席からは、地鳴りのような歓声と怒号が湧き起こっていた。だが、その歓声の性質は数日前とは明らかに異なっている。単なる悪趣味な処刑劇を楽しむ嗜虐的なものではなく、異様な熱狂と期待、そして未知の興奮に満ちた咆哮だ。「さあ、やってまいりました!今や大都コロシアムの最注目株!“血濡れの紅蓮”シャールと、巨大ゴブリン”の異色タッグだーっ!」司会者の拡大魔法による声が場内に響き渡ると、観客席の熱気は最高潮に達した。「おい、今日もあのガキと化け物が組むらしいぞ!」「あり得ねえだろ!人間と魔物がタッグを組むなんて聞いたことがねえ!」「最初は一瞬で噛み殺されると思ってたのに……昨日の暴走から一転、あの二人の連携、マジでバケモノなんだよ!」重々しい鉄門が、ギギギ……と甲高い音を立てて引き上げられる。まばゆい陽光のもとへ足を踏み出したのは、小さな手に短剣を握りしめた赤髪の少女・シャールと、その背後で圧倒的な存在感を放つ巨躯のゴブリン、ボルだった。シャールの足首と、ボルの首筋には、相変わらず逃亡防止のための重い鉄枷が嵌められている。しかし、二人の佇まいにはもはや餌としての悲壮感は微塵もなかった。昨夜、冷たい地下牢の中で「ボル」という名前を与えられ、固いパンを分け合った二人。言葉は交わさずとも、互いの存在を背中に感じ取り、呼吸を合わせる準備は整っていた。



「……行くぞ、ボル」



 シャールが短く呟くと、背後でボルが低く「グア」と胸を鳴らした。反対側の格子扉から解き放たれたのは、王国軍が捕獲した大型魔獣・重甲角獣アイアン・ライノ二頭。全身を削岩機のような硬質甲殻で覆われた、体長五メートルを超える巨獣だ。突進されれば、並の人間など一瞬で肉塊へと変えられる。グオオオオオンッ!地響きを立てて、二頭の重甲角獣が猛スピードで突進してくる。ターゲットは、前線に立つ小さな少女・シャールだ。「12歳のガキだぞ!?あんなの食らったら一瞬で潰される!!」「逃げろ!死ぬぞ!」悲鳴にも似た観客の叫び。しかし、シャールは避けない。激突のコンマ数秒前。シャールは地面を強く蹴り、垂直に跳躍した。重甲角獣の巨大な角を間一髪で踏み台にし、さらに上空へ舞い上がる。獲物を見失い、一瞬だけ足を止めた重甲角獣。その隙を、巨大な影が逃さなかった。「グ……ガアッ!!」ボルが巨木のような両腕を伸ばし、突進の勢いが殺された重甲角獣の頭部を左右から挟み込むようにガッチリと掴み上げた。地を揺るがす肉と甲殻の激突音。三メートルを超えるボルの怪力が、巨獣の突進エネルギーを正面から完全に受け止めたのだ。「な……なにぃいっ!?魔獣の突進を素手で止めたぁ!?」観客が目を丸くする中、ボルはそのまま全身の筋力を躍動させ、巨獣の巨体を力任せに持ち上げた。「……グオッ!」豪快な咆哮とともに、ボルは一頭目の重甲角獣を、横から迫っていた二頭目の重甲角獣に向けて投げ飛ばした。ドガァァァンッ!!二頭の巨獣が空中で激突し、凄まじい衝撃波とともに砂煙が舞い上がる。そして、空中に舞っていたシャール。彼女は落下しながら、旋風のごとく身を翻した。激突の衝撃で脳震盪を起こし、甲殻の隙間(首筋の柔らかい皮膚)を無防備に晒した重甲角獣を目がけて、まっ逆さまに落ちていく。「はあああぁぁっ!!」一閃。錆びついた短剣が正確に急所を貫く。シャールは着地と同時に刃を引き抜き、滑り込むようなステップで二頭目の首元へも短剣を柄まで深く突き立てた。噴き出す大量の鮮血。二頭の巨獣は、ほとんど同時に地響きを立てて倒れ伏し、二度と動かなくなった。静寂がコロシアムを包み込む。 わずか数十秒。言葉のやり取りなど一切ない。シャールが隙を作り、ボルが圧倒的な力で体制を崩し、シャールが流麗な一撃で仕留める。完璧な無言の連携。「なんだ……あいつら……」「凄すぎる……!ガキとゴブリンが、重甲角獣を瞬殺したぞ……!」一瞬の静寂の後、雷鳴のような大歓声がコロシアムを揺らした。観客たちは総立ちとなり、かつて「ガキ」と「化け物」と蔑んでいた二人に対して、惜しみない拍手と金貨を投げ入れ始める。「決まったぁぁぁーっ!圧倒的!完璧な連携!殺し合うはずの人間と魔物が、今日生き残ったのはこの二人だぁぁーっ!!」血塗られた短剣を拭いながら、シャールは荒い息を吐いた。横に並び立つボルが、フッと鼻から荒い息を吐き出す。互いに視線すら交わさない。だが、二人には分かっていた。この死場で生き残るために、互いが不可欠な存在になっていることを。



 熱狂に沸き立つコロシアム。だが、シャールは観客たちの歓声など耳に入っていなかった。ふと、刺さるような視線を感じて見上げた。すり鉢状の客席の頂点。特別に設えられた貴族専用のバルコニー席。豪華な衣装を着た国王や高官たちが、酒杯を傾けながら自分たちを見下ろしている。その国王のすぐ隣。漆黒の軍服を纏い、腰に飾りのついた細身の西洋剣を下げた一人の男が立っていた。冷酷そうな細い目。整えられた髭。男はまるでゴミ屑でも見るような蔑みの目で、砂の上に立つシャールとボルを見下ろしていた。シャールの息が、ピタリと止まった。ドクン。心臓が、跳ね上がるような不快な音を立てた。視界が真っ赤に染まっていく。忘れようとしても、脳裏に刻みつけられて離れないあの日の光景が、鮮烈に蘇る。三年前のあの日。 焼け落ちる自分の村。炎の中で泣き叫ぶ母。刃に倒れる父親。そして、村を包囲し、「歴史から消せ」と無慈悲に命じていた指揮官の男。あの黒い軍服。胸に刻まれた鷲の紋章。あの冷徹な眼光。(……あいつだ)全身の血が逆流するような感覚。生存本能だけで生き渡ってきたシャールの心の中に、抑え込んでいた怒りと殺意が爆発的に吹き出した。「あいつ……あいつだ……ッ!!」歯が折れるほど強く噛み締められた唇から、鮮血が滲む。シャールは瞳の焦点を完全に男へ合わせると、周りの制止も聞かず、一直線に貴族席の下にある高壁へ向かって走り出した。「おい!シャール!何をしている!?」通路の影にいた看守たちが焦った声を上げる。シャールは壁の突起に足をかけると、まるで野猫のような身軽さで数メートルの石壁を垂直に登り始めた。手には、まだ魔獣の血が滴る短剣。「殺す……!お前だけは……絶対にお前だけは許さないッ!!」喉がちぎれんばかりの叫び。 観客たちが異変に気づき、悲鳴を上げる。貴族席にいた男。指揮官は、登ってくるシャールに気づいた。しかし、その顔には驚きも恐怖もない。ただ、不快そうに眉をひそめただけだった。「チッ……薄汚い野良犬が。誰だ、あんな生き残りを生かしておいたのは」指揮官が静かに手を挙げると、貴族席の護衛を務める重装騎士たちが一斉に身構えた。「シャール!!」背後から、ボルの焦ったような低い咆哮が響いた。ボルは異変を察知し、シャールを止めようと巨躯を動かそうとする。だが、足首に繋がれた巨大な鉄球と鎖がそれを阻む。シャールは壁の頂点に手をかけた。あと一歩でバルコニーへ飛び込める。短剣を振り上げ、男の首筋を目指して跳躍した。「死ねぇぇぇっ!!」だが。ガァンッ!!重装騎士の放った巨大なタワーシールド(大楯)が、空中のシャールを容赦なく叩き伏せた。



「グハッ……!?」



 強い衝撃が全身を走り、シャールの小さな身体は勢いよく弾き返された。十メートル以上の高さから、容赦なく砂の上へと落下していく。ドサッ!鈍い音を立てて砂に叩きつけられるシャール。肋骨が軋み、視界が途切れ途切れになる。血を吐き出しながらも、彼女は必死に手を伸ばし、指揮官を睨みつけた。「……あ……が……っ……!」「下劣な犯罪者が。身の程を知れ」指揮官は冷ややかに言い捨てると、翻したマントとともに興味を失ったように背を向けた。周囲から群がってきた警備兵たちが、動けないシャールの背中を踏みつけ、容赦なく棍棒を振り下ろす。「このガキ! 貴族様に刃を向けやがったな!」「殺せ!いや、痛めつけて牢に叩き込め!」ガンッ!ガンッ!と暴行の音が響く。シャールの意識は、暴行の痛みと、届かなかった怒りの悔しさの中で、急速に深い闇へと沈んでいった。静まり返った地下牢。鉄格子の隙間から差し込むわずかな月光が、石畳の上に倒れるシャールを照らしていた。全身が痛む。叩きのめされた背中も、打撲した関節も、激痛で動かすことができない。短剣は取り上げられ、手首の枷はさらに重いものに付け替えられていた。呼吸をするたびに、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。「……くそ……っ……」シャールは壁に頭を預け、悔しさに歯を食いしばった。届かなかった。目の前に敵がいたのに、自分の力不足のせいで一傷負わせることすらできなかった。自分の無力さが、何よりも憎かった。ガチャン、と重い金属音が響く。隣の牢との壊れかけた仕切りから、巨大な影がゆっくりと這い出してきた。 ボルだ。ボルは全身の鎖をジャラジャラと鳴らしながら、怪我だらけで動けないシャールのすぐそばまで近づいてきた。その片目の傷跡が、月光に濡れて悲しげに光っている。ボルは大きな手を伸ばし、シャールの頭の近くにそっと置いた。まるで、「無茶をするな」となだめるかのように。「触るな……!」シャールは刺すような視線でボルを睨みつけた。「私は……あいつを殺さなきゃいけないんだ!私の村を消した……私から全部奪ったあいつを……! 助けなんて要らない!私は一人で……っ!」激昂するシャール。しかし、ボルは怒ることも、立ち去ることもなかった。ただ、静かに自分の胸元に抱えていたものを取り出した。それは、今日の戦いの後に看守から投げ与えられた、カビの生えた硬い黒パンだった。ボルは巨大な手の中で、そのパンをじっと見つめている。そして不器用な手つきで、パンを小さく二つに割り取った。ボルは半分になったパンを、静かにシャールの目の前へ差し出した。言葉はない。だが、その黄色い瞳は、激怒し、傷つき、絶望に震えるシャールをまっすぐに見つめていた。



「奪い合って死ぬか、分け合って生き残るかだ」



 かつてシャールが彼に投げつけた言葉。ボルはそれを覚えていたのだ。一人で復讐に囚われ、自滅しようとする少女に対して、彼は「まず生きて、食え」と無言で語りかけていた。シャールは差し出されたパンと、ボルの顔を交互に見た。胸の奥の固く冷たい塊が、少しずつ解けていくような感覚。世界中の誰もが自分を否定し、消し去ろうとしても、この言葉を持たない怪物だけは、自分の味方でいてくれる。シャールは掠れた声で、小さく呟いた。「……食べる?」ボルはゆっくりと首を振った。そして、シャールが持っている方のパンを指差し、それから自分の口にパンの欠片を放り込んだ。「お前が食べろ」という合図。シャールは震える手で、差し出されたパンを受け取った。初めて、ボルが自分から分け与えてくれた食べ物。そして、二人が自発的に分かち合った絆の証。シャールは涙をこらえるようにパンを口に押し込み、強く噛みしめた。粗悪でカビくさいパンの味が、喉を通って全身に染み渡っていく。「……美味いな……これ」コロシアムの砂の上で流された血と、奪われた平穏。だが、この暗い地下牢の中で、少女と怪物の絆は、決して切れない鋼のように強固なものへと変わっていた。復讐の炎は消えていない。だがいま、シャールには隣に立つボルという相棒がいた。二人で生き残り、二人でこの絶望の檻をぶち破るための力が、静かに満ち始めていた。


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