第一章 言葉のない共犯者
白日に晒された闘技場は、狂気と熱気に包まれていた。すり鉢状に広がる観客席を埋め尽くすのは、煌びやかな衣装を纏った貴族や、酒に酔いしれた大都の民衆たちだ。彼らは眼下の砂に撒き散らされる血と絶望を糧にして、咆哮のような歓声を上げている。「さあさあ、本日のメインイベント! 罪人どもと魔物の惨劇ショーだ!」中央の高台から響く司会者の声が、魔法で増幅されて響き渡る。「まずは一組目!地図から消えた裏切り者の村……その生き残りにして、大人三人を返り血で染めた殺人少女!シャール!!」重々しい鉄門が軋んだ音を立てて引き上げられた。まばゆい陽光の下へ引きずり出されたシャールは、眩しさに細めた瞳をすぐに鋭く研ぎ澄ませた。右手に握らされているのは、刀身の短い錆びついた短剣一本。防具など一切ない。破れたドレスから覗く肢体には、昨日負った傷と泥が残っている。「なんだあのガキ! 骨と皮だけじゃねえか!」「一瞬で噛みちぎられるぞ!金返せ!」観客席から罵声と食べ残しの果物が飛んでくる。シャールはそれらを身を軽く捻ってかわすと、正面の闇を見据えた。反対側の鉄門が開く。「対するは、飢えた砂漠の狂狼三頭!噛み砕け!喰い散らかせ!」姿を現したのは、馬ほどもある巨大な三頭の狼だった。涎を垂らし、赤く血走った目でシャールを凝視している。数日間生肉を与えられていない、飢餓状態の魔獣だ。グオオオッ、と一頭が跳躍した。「……フっ」シャールは恐怖するどころか、冷ややかに息を吐いた。彼女にとって、ここは見せ場でも処刑場でもない。ただの狩場だ。襲いかかる狼の爪を、最小限の紙一重でかわす。すれ違いざま、短剣が狼の目を正確に貫いた。ギャンッという悲鳴とともに一頭が崩れ落ちる。「な……なに!?」「速い!ガキの動きじゃねえぞ!」観客の罵声が一変して、動揺のどよめきに変わる。シャールは倒れた狼の背を足場にして跳躍すると、残る二頭の隙を突いて旋風のように舞った。低い体勢から踏み込み、二頭目の前脚の筋を叩き切る。間髪入れずに三頭目の喉笛へ、短剣を柄まで深く突き立てた。勝負は一瞬。鮮血が砂を黒く染め、三頭の巨躯が物言わぬ肉塊となって転がった。静まり返るコロシアム。シャールは血塗られた短剣をダラリと下げ、静かに息を整える。
(次は何だ。早く来い。殺して、ここを出る……)
だが、その時だった。「ぐっ……!?」右太ももに、走雷のような激痛と麻痺が走った。 昨日受けた毒矢の影響だ。激しい運動によって血流が早まり、残存していた痺れ薬が全身に回ったのだ。シャールの膝が、ガクリと砂に崩れる。「おっとぉ!?殺人少女、ここで動けない!毒が回ったかーっ!?」司会者の煽り声とともに、仕掛けられた罠のように別の鉄門が開いた。現れたのは、巨大な鉄球を振り回す、身長ふたつ分もある大型の甲冑戦士グラディエーター。処刑専門の処刑人だ。「ハハハ! 運が尽きたな、ガキが!」重装兵が凶悪な笑みを浮かべ、頭上で巨大な鉄球をブンブンと振り回す。シャールは必死に腕へ力を込め、立ち上がろうとした。しかし、指一本すら満足に動かない。死が、鉄球の影となって彼女の視界を覆っていく。
(動け……動けッ……!私の体だろ……!こんなところで……!)
鉄球が、風を切る重低音とともに振り下ろされた。シャールの死を確信し、歓声を上げようとした観客たち。次の瞬間——ドグォォォンッ!!!!コロシアム全体を揺るがすような、凄まじい衝撃音が轟いた。砂煙が舞い上がる。だが、粉砕されたのはシャールの頭骨ではなかった。振り下ろされた巨大な鉄球。それを、むき出しの素手でガッチリと受け止めている巨躯が存在した。「……!?」シャールが目を見開く。眼前に立ちふさがっていたのは、昨夜、地下牢の隣にいたあのゴブリンだった。三メートルを超える圧倒的な背中。太い鎖を引きちぎり、片目の傷を真っ赤に濡らした怪物が、シャールを庇うように仁王立ちしていた。「な、なんだぁぁーっ!?隣の牢から自力で鎖をちぎって乱入してきたぞ!暴走だ!あの巨大ゴブリンを殺せ!」重装兵が青ざめた顔で鉄球を引き戻そうとする。だが、ゴブリンの手は岩のように微動だにしない。「グ……ガ……ッ!」ゴブリンは咆哮一発、鉄球ごとチェーンを力任せに引き寄せた。体勢を崩した重装兵の懐へ踏み込み、丸太のような丸い拳を叩きつける。ズガァンッ!重厚なプレートアーマーが、まるで紙屑のように内側へ陥没した。重装兵の巨体が弾丸のように吹き飛び、数十メートル先の石壁に激突して動かなくなる。静寂。観客席の誰もが、息をすることすら忘れていた。ゴブリンはゆっくりと振り返り、砂の上にへたり込むシャールを見下ろした。その黄色い瞳には、敵意も殺気もない。シャールは息を荒らしながら、噛みつくような視線で巨躯を見上げた。「……なんで助けた」声が震えていた。怒りか、困惑か、自分でも分からない。「お前なんかに庇われなくたって……私は、自分で……っ!」ゴブリンは答えない。言葉を知らないのだから当然だ。ただ、彼は大きな体をかがめると、シャールの上に落ちてくる観客席からの石コロを、自らの広い背中で静かに遮り続けた。まるで、かつて大切だった何かを守るかのように。
その日の夜。コロシアムの騒動は、二人の圧倒的な強さによって「異色のタッグ戦」として大盛況のうちに収束し、二人は再び同じ地下牢へと戻されていた。二人の牢を隔てる鉄格子は、今日の戦闘で壊れかけ、半ば崩落していた。実質的に同じ空間に押し込められているようなものだ。ガチャン、と重い音を立てて、通路から小さな粗末な皿が差し入れられた。 中に乗っているのは、カビの生えた固い黒パンが一つだけ。囚人二人に対する、今日一日の全食料だ。シャールは無言でパンを拾い上げた。お腹が鳴っている。全身の傷が痛み、体力を回復させるためには一粒の麦すら惜しい。ふと横を見る。巨大なゴブリンは、壁に背を預け、片目を閉じて静かに座っていた。三メートルもある体躯に対して、このパン一つでは到底足りないはずだ。だが、彼はパンを見ようともせず、シャールから視線を外している。シャールは眉をひそめた。(横取りしようとしない……?魔物のくせに?)生きるために奪い合うのが、この世界の絶対のルールだ。特にコロシアムの牢獄では、食料の奪い合いで殺し合う囚人など日常茶飯事のはずだった。シャールは黒パンを両手で強く握りしめると、メリメリと音を立てて半分に叩き割った。そして、半分になったパンを、巨大な顔面へ向けて乱暴に投げつけた。ペシッ、と小さな音を立ててパンが胸に当たる。ゴブリンは驚いたように片目を開け、膝の上に落ちたパンと、シャールを交互に見た。「……食えよ」シャールは膝を抱え、不機嫌そうに顔を背けた。「食わないなら捨てる。私は、お前みたいな化け物に借りを作ったままにするのが気に入らないだけだ。今日の助けてもらった分だ」ゴブリンは困惑したように首を傾げた。大きな手を動かし、パンをシャールへ押し戻そうとする。「いらないって言ってるだろ!」シャールは鋭く叫び、ボルの手を跳ね返した。といっても、シャールの小さな手では、ボルの太い指をわずかに揺らすことしかできないが。「食べろ!奪い合って死ぬか、分け合って生き残るかだ!私は……お前に死なれたら、明日の戦いで困る!」照れ隠しの暴言。だが、ボルはその言葉の奥にある少女の頑なな優しさを理解したようだった。ボルはゆっくりとパンを拾い上げた。彼の巨大な手の中では、半分に割ったパンなど豆粒のように小さい。それを口に運び、不器用そうにゴクリと飲み込んだ。「……ふん」シャールは鼻を鳴らすと、残りの半分のパンを口に放り込み、ガリガリと噛み砕いた。噛めば噛むほど酸っぱい、粗悪なパン。だが、一人で死体から掠奪して食べていた干し肉よりも、なぜか胸の奥が温かくなる味がした。
夜が深まり、地下牢に冷たい静寂が満ちていく。シャールは冷たい石畳の上で横になり、浅い眠りにつこうとしていた。背中越しに、ゴブリンの体温が微かに伝わってくる。巨大な体格のおかげで、牢特有の隙間風が遮られていた。ふと、シャールはゴブリンの手に目を留めた。ゴブリンの皮膚は、岩のように硬く緑色だ。しかし、彼が力を抜いて広げている右手の掌から手首にかけて、不自然な白く盛り上がった古い傷跡が残っていた。それは、刃物や爪で付けられた傷ではない。農作業の鎌や、生活の中でつくような。かつて人間が持っていた傷の痕跡。(……え?)シャールがその傷跡を見つめた瞬間。一瞬だけ、脳裏に「何か」が流れ込んできた。パチパチと爆ぜる、炎の音。「お父さん!」と叫ぶ、見知らぬ子供の泣き声。温かいスープの匂いと、小さな木造の家。それを焼き尽くす、黒い鎧を着た王国兵たちの笑い声。(いまの、何……?ゴブリンの……記憶……?)シャールは跳ね起き、息を呑んでゴブリンを見た。ゴブリンは静かに目を閉じ、深い呼吸を繰り返している。その巨大な顔には、怒りも憎しみもなく、ただ悲痛な面影だけが影を落としていた。言葉を持たぬ怪物。 名前を失ったゴブリン。しかし、その胸の奥には、確かに何か「人間と同じもの」が眠っている。シャールは自分の胸に手を当てた。 地図から消され、家族も村も奪われ、ただの猛獣として生きようとしていた自分。そして、名前も過去も奪われ、怪物として鎖に繋がれているゴブリン。
「……お前も、全部奪われたのか」
暗闇の中、シャールの呟きは誰にも届かず消えた。だが、ゴブリンは眠ったまま、ゆっくりと巨大な手を伸ばし、シャールの小さな身体を庇うように、そっと近くへ引き寄せた。言葉のない夜。二人の歪な共犯関係は、静かに、けれど固く結ばれ始めていた。
「……ボル。お前の名前は今日からボルだ……」
静寂な牢獄に静かに響き渡った。




