序章 地図から消えた村
風が吹くと、黒く煤けた灰が舞い上がる。
かつてそこには、数百人の人々が身を寄せ合って暮らす静かな開拓村があった。だがいま、眼前に広がるのは無残に焼け落ちた家々のアラと、見渡す限りの見渡す限りの不毛な瓦礫の山だけだ。王国の公的な公式文書から、その村の名前はすでに抹消されていた。「存在しなかった場所」戦争のどさくさに紛れ、国境線の不都合を覆い隠すために、自国の軍勢によって丸ごと焼き払われた地。地図から消されたその焦土のなかを、一人の少女が這うように進んでいた。
シャール、十二歳。
肩下まで伸びた髪は、遠目からでも鮮烈に目を引く血のような赤。その髪は泥と埃で汚れ、着ている白い麻のドレスは破れ、黒ずんだ血痕がびっしりとこびりついている。
「……ッ」
膝を擦りむく痛みなど意にも介さず、シャールは崩れた民家の軒下に落ちていた鋼鉄の短剣を拾い上げた。鞘は焼きちぎれていたが、刃にはまだ鋭利な輝きが残っている。彼女は手慣れた手つきで柄の感触を確かめると、腰のボロ布で固く縛りつけた。悲しみも、絶望も、彼女の心には残っていない。三日前、目の前で身内や村人が皆殺しにされたとき、涙は枯れ果てた。いま彼女の全身を突き動かしているのは、ただ一つ。「今日を生き抜く」という、野生動物のごとき苛烈な生存本能だけだ。シャールは転がっていた王国の歩兵の死体に歩み寄ると、躊躇なくその胸元を探った。カビの生えた硬い干し肉の切れ端を見つける。そのまま口に押し込み、あごが痛むほど強く噛みちぎった。喉が焼けるように乾いていたが、ツバを吐くことすら惜しい。(死んだ奴に食料はいらない。生きている私が食う)冷徹な感情。生き延びるためなら、死体から掠奪することも、泥水を啜ることも意に介さない。そのとき、耳が捉えた。焦土の先を通る街道から、微かな馬蹄の音と、車輪が軋む音が近づいてくる。
シャールは息を殺し、素早く近くの大木の陰へ身を躍らせた。
街道を進んでくるのは、二頭立ての大型馬車が一台。周囲を甲冑に身を包んだ四人の王国兵が固めている。輸送部隊の生き残りか、それともこの残骸からまだ使える物資を回収しに来た掠奪兵か。馬車の荷台には、干し肉の詰まった袋と酒樽、それに予備の武器が見えた。「おい、こんな煙くさい場所に長居するなよ。軍上層部からは『この村の残骸すら速やかに撤去しろ』と命令が出ているんだ」「わかってるよ。だが、地図にも載ってねえような死に損ないの村だ。誰に見られる心配もねえだろ」兵士たちの下品な笑い声が風に乗って聞こえてくる。大木の上の太い枝。シャールは気配を完全に消し、枝に同化するように身を潜めていた。その瞳は、獲物を狙う猛禽そのものだ。(四人……。武器は槍がふたり、剣がふたり)シャールは腰から短剣を抜いた。村にいた頃から剣を握れば大人をあしらうほどの才を見せていたが、いまやその剣技は「殺さなければ殺される」という極限の生存本能によって、恐ろしい領域まで研ぎ澄まされている。馬車が木の下を通過する——その瞬間。音もなく、シャールは枝から舞い降りた。
「なっ——!?」
最後尾を歩いていた槍兵の首筋に、上空から落下してきた短剣が根元まで突き刺さる。 悲鳴すら上げる隙を与えない。シャールは着地と同時に倒れ込む兵士の首から短剣を引き抜き、その反動を利用して二人目の剣士の膝裏を薙ぎ払った。「グアッ!?」「敵襲! 敵襲ううっ!」崩れ落ちた剣士の喉輪へ、間髪入れずに短剣を突き立てる。一瞬で二人。「ガキ……!? なんだこの動きは!」前方を歩いていた二人の兵士が慌てて槍と剣を構える。だが、シャールは止まらない。血を浴びた赤髪を振り乱し、地を這うような低空のステップで間合いを詰める。「死ねッ!」振り下ろされた剣の軌道を、最低限の動きで紙一重かわす。すれ違いざま、短剣が兵士の腕の関節を破壊した。痛みに悶絶する兵士の背中に飛び乗り、首骨を正確に砕く。残るは、最後に立ち尽くしていた隊長格の兵士ひとり。
「ひ、ヒィっ……怪物……!」
男は腰を抜かし、尻もちをつきながら必死に手元の小さな小弓をシャールへ向けた。シャールは無表情のまま、血塗られた短剣を構えて歩み寄る。勝負はついた。男を殺し、食料を奪って再び潜伏する——はずだった。カチャン、と鈍い金属音が響く。
「しまっ——」
男がパニック状態で引き金を引いた矢は、狙いすら定まっていなかった。しかし、地面の瓦礫に足をとられたシャールの一瞬の隙をつき、その黒い小さな矢は彼女の右太ももを浅く掠めた。ほんの掠り傷。だが——。
「あ……が……っ!?」
一歩踏み出そうとした瞬間、シャールの膝が崩れた。視界が急速に斑点状に暗くなり、全身の筋力が削ぎ落とされていく。「は、はは……効いたか! 馬鹿め、それは魔物用の痺れ毒だ!」生き残った兵士が、不快な汗をぬぐいながら立ち上がった。倒れたシャールの頭髪を乱暴に掴み上げ、顔を覗き込む。「けっ、よく見りゃクソ生意気なガキじゃねえか。……待てよ? この赤髪、それにこの尋常じゃない身こなし……まさか、先日『処分』されたあの村の生き残りか?」シャールは歯を食いしばり、男を睨みつけようとしたが、瞼が重くて持ち上がらない。指一本動かすことができなかった。「へっ、運がいいぜ。地図から消された村に生き残りがいたとなれば、上に報告すれば大金になる。……いや、大都のコロシアムに売っ払った方が儲かるか?血塗られた村の生き残り、殺人少女として出せば、見せ物として最高だ」兵士の卑屈な笑い声が、遠のく意識の中で歪んで聞こえた。シャールは薄れゆく意識のなかで、自分の無力さに呪いを吐くこともなく、ただ暗転する思考の底で短剣の柄を強く握りしめようとしていた。
冷たい。頬に伝わる湿った石畳の冷気で、シャールは目を覚ました。毒の麻痺は薄れていたが、全身を重い鉄の枷で繋がれており、動くたびにジャラリと不快な金属音が響く。臭い。酷い腐臭と、カビと、血と、尿の匂いが混ざり合った吐き気を催す空気。
「どこだ……ここ……」
掠れた声で呟き、シャールは身体を起こした。そこは、光の届かない巨大な地下牢獄だった。苔むした分厚い石壁と、太い鉄格子。通路の先からは、他の囚人たちの呻き声や、正気を失った笑い声が不気味にこだましている。「おい、目を覚ましたか、見せ物のガキ」鉄格子の外を通る看守の男が、嘲笑いながら鉄棒で格子を叩いた。カンカン、と高音が牢内に響く。「運がいいな。明日には大都のコロシアムでお披露目だ。貴族様たちが、お前みたいなガキが魔物に喰い散らかされるのを見て大喜びするのさ」シャールは看守の言葉を完全に無視した。怒りも恐怖もない。ただ、この枷をどうやって外すか、この鉄格子をどう突破するか、それだけを思考の檻の中で高速回転させている。(……足の枷は重い。だが、関節の隙間を脱臼させれば外せるか?鉄格子は固いが、看守が鍵を開ける一瞬を狙えば……)獣の瞳で脱出の機を伺うシャール。その時。ゴトリ、と隣の牢獄から巨大な何かが動く音がした。シャールの牢と隣の牢を隔てるのは、分厚い鉄の柵だけだ。暗がりの中から、圧倒的な「圧倒的な存在感」を持った影が、ゆっくりと姿を現す。
「……ッ!?」
シャールは息をのんだ。生存本能が、今まで出会ったどんな人間よりも危険な「怪物」の存在を告げて警鐘を鳴らす。そこにいたのは、三メートルを超える圧倒的な巨体を持つ存在だった。緑色の分厚い皮膚。岩山のように盛り上がった強靭な筋肉。全身には、苛烈な拷問を受けたのであろう生々しい焼き印や、刃物で切り刻まれた巨大な傷跡が幾重にも重なっている。首と太い両腕には、城門を閉ざすような太い鉄鎖が巻きつけられ、彼が動くたびに地鳴りのような音が響いた。片目は潰れ、大きな傷跡が縦に走っている。残されたもう一方の黄色い瞳が、暗闇の中で静かに光っていた。人間たちが蔑み、恐れ、討伐の対象とする存在。ゴブリン。だが、一般的なゴブリンとは明らかに異なっていた。尋常ではない巨躯と、そこに漂う圧倒的な威厳。そして何より、その瞳には知性の低い魔物特有の「狂暴な飢え」がなかった。「……怪物」シャールは小さく呟いた。巨躯のゴブリンは、鉄格子越しに下にいるシャールを見下ろした。普通なら、十二歳の少女であればその威容を見ただけで狂乱して叫び出すだろう。だが、シャールは違った。短剣を奪われた素手でありながら、全身の殺気を鋭く研ぎ澄ませ、いつでも相手の喉笛を噛みちぎれる姿勢でボルを睨み返した。血のような赤髪。泥と血にまみれた体。そして何より、その瞳に宿る「世界に対する深い絶望と、それでも消えない苛烈な生への執着」。ボルは、ゆっくりと片目を細めた。言葉は出ない。彼の喉からは、低く重い吐息が漏れるだけだ。しかし、その黄色い瞳は、目の前の小さな少女を「餌」としても「弱者」としても見ていなかった。
同じだ。
ボルの中に、言葉にならない感情が溢れる。名前を奪われ、故郷を奪われ、歴史から存在ごと消し去られ、人間たちから「存在してはならないもの」として鎖で繋がれた者。自分と同じ匂いがする。世界から捨てられた、同類の匂いが。シャールもまた、ボルの瞳の奥にある色を感じ取っていた。それは狂気でも害意でもない。途方もない孤独と、心の奥底に沈んだ静かな悲しみ。
(こいつ……私と同じ目をしてる)
人間と魔物。会話すら成り立たないはずの二人が、暗く汚臭の漂う地下牢の中で、静かに見つめ合う。鉄格子の向こうで、看守たちが嘲笑う声が聞こえる。「ハハッ!見ろよ、あの化け物ガキを睨みつけてやがる!明日のコロシアムが楽しみだぜ!」その嘲笑を余所に、少女と巨人は無言のまま、互いの存在をその瞳に焼き付けていた。地図から消された少女と、名前を失ったゴブリン。世界から拒絶された二人の出会いが、いま、静かに幕を開けた。




