第33話
戦が終わり、日が傾き始めた頃。
北条軍の本陣では、ようやく張り詰めていた空気が少しずつ緩み始めていた。
だが、陣の中央だけは静かだった。
そこには、一つの首が置かれている。
正木時茂――「槍大膳」と呼ばれた男の首だった。
綱成はその前に座り、黙って見つめていた。
やがて陣幕の外から声が響く。
「土方歳三、沖田総司。参りました」
「入れ」
綱成の声を聞いてから、二人が陣幕をくぐる。
沖田はいつものように飄々としていたが、土方の表情は硬かった。
綱成は二人を見る。
「二人ともよく来た」
「……はい」
「まず、これを伝えておく」
綱成は二人の前に向き直った。
「今日の戦での働き、北条軍として正式に認める」
土方が黙って頭を下げると沖田も続いた。
「お前たちには、まず俺の判断で恩賞を与える」
綱成は二人にそれぞれ恩賞を示した。
「ただし、これは当面のものだ」
「正式な恩賞については北条氏康様より、改めて沙汰が下る」
土方が答えた。
「承知しました」
綱成は頷いた。
「今日の勝利は、俺一人のものではない」
そして、首へ視線を戻す。
「こいつを討ったのは沖田だ」
沖田は黙っていた。
「だが、ここまで時茂を引き込んだ策を動かしたのは土方だ」
「……俺たちは、命じられたことをやっただけです」
「それができる者が、そう多くない」
綱成はそう言ってから、しばらく沈黙した。
やがて間宮康俊が口を開く。
「問題は、この首と遺体をどうするかです」
その言葉に陣内の空気が変わった。
「晒すか?」
誰かが言ったが、綱成は首を横に振る。
「いや」
即答だった。
「正木時茂は里見家の重臣だ」
「ここで辱めれば、里見は意地でも戦を続ける」
土方が黙って聞いている。
綱成は続けた。
「今は勝ったが、戦はまだ終わっていない」
「ならば――」
土方が口を開いた。
「遺体を返すべきでしょう」
土方の言葉に綱成が見る。
「理由は?」
「敵だからこそ、礼を尽くす」
土方は時茂の首を見る。
「それに、里見家に対して伝えられる」
「正木時茂は卑怯な手で殺されたのではない」
「正面から戦い、最後まで戦い抜いて死んだとな」
沖田も頷いた。
「僕が討ち取ったことも、弟の正木時忠にちゃんと伝えられます」
綱成はしばらく考えた。
そして頷いた。
「よし。時茂の遺体は清めよ」
「首も整えろ」
「武具も可能な限り残して、里見家へ返す」
間宮が頭を下げた。
「承知しました」
その時、綱成が土方と沖田を見る。
「お前たちに頼みがある」
「はい」
「返還の使者になってくれ」
沖田が少し目を見開いた。
「僕たちが?」
「時茂の最期を見届けたのは、お前たちだ」
綱成は土方を見る。
「土方は策を立て、沖田は直接刃を交えた」
「ならば、お前たち自身の口で伝えるのがいい」
土方は一瞬だけ時茂の首を見る。
「……分かりました」
「行きます」
沖田も頷いた。
「はい」
綱成は二人を見つめた。
「気をつけろ。里見にとって、正木時茂はただの武将ではない」
「その男の遺体を持って行く。それだけで、十分に重い役目だ」
「承知しています」
土方が答えた。
その夜、時茂の遺体を清める準備が進められていた。
二人が陣を出ようとしたところで、後ろから声がした。
「土方」
振り返ると、呼びかけたのは間宮康俊だった。
「少し、いいか」
「……何でしょう」
間宮はしばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
土方の目が細くなる。
「間宮殿?」
「すまなかった」
「……」
「昨日、俺はお前を疑い侮った」
間宮は顔を上げる。
「北条の家臣でもない」
「百姓上がりだ。そんな男に作戦の全てを託すことに、俺は反対した」
土方は何も言わない。
「だが――」
間宮は静かに続けた。
「お前は二百を一人も無駄に死なせなかった」
「そして、時茂をあの場所まで引きずり出した」
「今日の勝利に、お前の働きがなければ、あれほど上手くはいかなかった」
間宮はもう一度、頭を下げた。
「疑って悪かった」
土方はしばらく間宮を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……顔を上げてください」
間宮が顔を上げる。
「俺も、最初から信用されるとは思っていませんでした」
「それに――」
土方は苦笑した。
「この作戦の成否が俺に掛かっていることは、俺はこれでも怖かったですよ」
間宮が目を見開く。
「怖かった?」
「当たり前でしょう」
土方は淡々と言った。
「一人なら、斬り込めばいい」
「ですが失敗すれば、そうはいかない」
「一人の判断で、二百人が死ぬ」
「それを考えたら、怖くない方がおかしい」
間宮は黙って聞いていた。
土方はそのまま続ける。
「だから、考えた。どうすれば全員を戻せるか、ただそれだけです」
間宮は小さく笑った。
「……なるほどな」
そして土方の肩を軽く叩いた。
「お前なら、兵を預けてもいい」
「その言葉、覚えておきます」
隣で聞いていた沖田が笑う。
「土方さん、ずいぶん出世しましたね」
「うるせえ」
「二百人預かるのも、最初は嫌がってたくせに」
「誰が嫌がった」
「顔に出てましたよ」
「……斬るぞ」
「戦が終わったばかりなのに?」
「お前なら避けるだろ」
「もちろん」
二人のやり取りを見て、間宮は笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
陣の奥では、正木時茂の遺体を清める準備が進んでいる。
土方はそちらへ目を向ける。
「行きましょう」
沖田も頷いた。
「はい」
二人は歩き出す。
敵だった男を、敵の家へ返すために。
そしてその男が最後に戦ったことを、里見家へ伝えるために。
槍大膳、正木時茂。
その最期の戦いを見届けた二人の使者が、里見の陣へ向かうことになった。




