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第31話

翌朝、北条軍が動き出した。


昨日までとは軍の動きが違う。


その先頭に立っていたのは――北条綱成、その人だった。


「勝った!勝った!」


地黄八幡の旗が朝日に翻え、綱成が軍の先頭に立つ時に発せられる「勝った!勝った!」の言葉に続けとばかりに北条兵も士気を上げ綱成に付き従う。


だが、綱成はいつものように慎重に進んではいなかった。


前へ、さらに前へ。


まるで昨日までの警戒を捨てたかのように、北条軍は進軍していく。


その様子を、少し離れた高台から見ている男がいた。


里見義堯。


「……来たか」


側近が尋ねる。


「北条軍、昨日までとは動きが違います」


義堯は目を細めた。


「そうだな」


「綱成自ら、前へ出ております」


義堯はしばらく黙っていた。


やがて、口元をわずかに上げる。


「痺れを切らしたな」


「……!」


「庁南が落ちる寸前だと知ったのだろう」


義堯は戦場を見下ろした。


「三日間、俺は奴を止めた」


「だが、その間にも庁南は追い詰められた」


「ならば――」


義堯の目が鋭くなる。


「地黄八幡も、勝負に出るしかあるまい」


側近が問う。


「では……?」


側近の言葉に答えず、義堯は即座に命じた。


「時茂を右」


「時忠は左」


「義弘は正面だ」


三人を三方向へ綱成の進路を包むように配置している。


「三方から押せ」


「綱成を逃がすな。ただし、深追いはするな」


側近が頭を下げた。


「はっ!」


伝令が駆けていく。


やがて――。


戦場の三方向から、里見の旗が動き始めた。


里見軍の三つの軍が、北条軍へ迫る。


綱成はそれを見ていた。


「来たか」


馬上で、静かに呟く。


家臣が叫ぶ。


「右より正木時茂!」


「左にも敵!」


「正面、義弘隊です!敵は三方向からそのまま来ます!」


綱成は振り返らない。


「下がれ!」


「はっ!」


北条軍が後退を始める。


「急げ!」


「隊列を崩すな!」


兵たちは下がるが、綱成は決して慌てていなかった。


正木時茂の自慢の槍隊が綱成軍に迫る。


「北条を逃がすな!」


「押せぇ!」


正木時茂が吠え、槍隊がそのまま北条軍へ食らいつく。


北条兵が押されるが、綱成は絶妙なところで兵を引いた。


一歩、二歩、さらに一歩。


決して一気には退かない、時茂に悟られないように。


時茂が槍を振る。


北条兵が受ける。


そして、また下がる。


「追え!」


時茂が叫ぶ。


「敵は退いているぞ!」


その声を聞きながら、綱成は馬上から戦場を見ていた。


里見軍の三方から圧力を受けながら、それでも北条軍は崩れない。


「殿!」


家臣が叫ぶ。


「このままでは押し切られます!」


綱成は答えた。


「まだだ」


「しかし――!」


「まだだ!」


綱成の声が響く。


「退け!」


「だが、走るな!」


「隊列を崩すな!」


北条兵は必死に踏みとどまりながら後退する。


それは敗走ではなかった。


綱成自身が、退く場所を選んでいた。


「あと少しだ……」


小さく呟く。


後退する方向に二つの丘の間。


両側を森に挟まれた細い地形。


そこまで来ると、綱成は馬上から周囲を確認した。


「……ここだ」


家臣が振り返る。


「殿?」


綱成は答えない。


ただ、後方を見た。


綱成を追う正木時茂の旗が近づいている。


「敵、追ってきます!」


「よし」


「……?」


綱成は馬首を返した。


そして叫ぶ。


「さらに下がれ!」


北条軍が動くと時茂も追う。


「逃がすな!」


「押せぇ!」


正木軍が一気に前へ出る。


その勢いに、北条兵はさらに後退する。


「あと少し!」


綱成が叫ぶ。


そして――予定の場所へ入った。


綱成は馬を止めた。


一瞬、北条軍の動きが止まる。


「……?」


北条軍の動きに正木軍の兵が戸惑う。


綱成はゆっくりと後ろを振り返った。


その顔には、先ほどまでの苦しげな表情がない。


あるのは――戦場を読み切った将の顔だった。


「よし」


綱成が呟く。


「ここだ」


時茂が槍を構え、動きを止めている兵たちに叱咤する。


「お前ら何をしている!」


「敵を追い詰めたぞ!」


綱成は時茂を見た。


そして――。


「鏑矢を放て」


家臣が一瞬、目を見開く。


「はっ?」


「今だ」


「はっ!」


弓兵が前へ出て、弓を構える。


「放て!」


ヒュンッ!


一本、続いて――。


ヒュンッ!


二本目。


ヒュンッ!


三本目と。


朝の空に、鋭い鏑矢の音が響き渡った。


「何だ?」


時茂が北条軍から放たれた鏑矢を見て顔を上げる。


「鏑矢……?何のために⋯まさか⋯!」


正木軍の兵たちが周囲を見る。


その瞬間だった。


――森の奥が何かが動いた。


だがそれは、突然現れたのではなかった。


前夜、まだ戦場に闇が降りていた頃。


土方隊二百は、すでにこの森へ入っていた。


「ここから先は声を出すな」


土方が低く命じた。


二百の兵は、三十、百二十、五十ほどの小さな列に分かれていた。


先頭には斥候、中央に主力、最後尾には足跡を消す役目の兵を置く。


旗はない。


槍の石突きには布を巻いてある。


刀の鍔も布で押さえている。


甲冑の金具が鳴らないよう、紐を締め直し、必要な部分には布を挟んでいた。


誰かが咳をしそうになるが隣の兵が、すぐに手で口を塞いだ。


土方は振り返ったが声は出さない。


ただ、手を上げる。


止まれ。


二百人が一斉に止まった。


その先に谷を挟んだ向こう側に、里見兵の松明が見えた。


「……」


誰も動かない。


里見の斥候が、谷沿いを歩いている。


一人、二人と。


やがて、こちら側の森へ視線を向けた。


土方は木の陰に身を沈める。


兵たちも伏せる。


風が吹いた。


木々が揺れる。


里見の斥候はしばらく森を見たあと、何事もなかったように去っていった。


土方がゆっくり手を下げる。


進め。


二百人が再び動き出す。


そこから先は、さらに慎重だった。


土方は正木時茂の陣へ真っ直ぐ向かわなかった。


それでは途中で見つかる。


夜のうちに、まず北へ回る。


そこから細い沢へ下りる。


沢の水音で足音を隠しながら進み、敵の見張りが置かれている道を避ける。


やがて沢を離れ、斜面を上がる。


斜面の上には、二つの丘を結ぶ尾根があった。


その向こう側が翌朝、綱成が正木時茂を引き込む予定の場所だった。


土方は地形を確認した。


「ここなら、時茂の後ろが見えない」


隣の兵が頷く。


「はい」


「綱成殿が敵を引き込むまで、絶対に動くな」


「はっ」


「敵の斥候が来ても、戦うな」


「見つかれば?」


土方は短く答えた。


「逃げる」


「戦うより、隠れろ」


二百の兵は、森の中へ散った。


一つの大きな集団にはならない。


十人、二十人。


木々の陰、岩の裏、浅い窪地、倒木の陰。


互いの姿が見えなくなるほど離れてはいない。


だが、上から見れば森そのものに溶け込んでいる。


土方は中央の窪地に身を伏せた。


「ここを動かない」


夜が深くなり、寒さが増す。


誰も火を焚かない。


食事も音を立てない。


水筒の蓋を開ける音さえ、周囲を確認してからにした。


やがて東の空がわずかに白み始めた。


兵の一人が小さく呟く。


「……朝です」


土方は空を見る。


「まだだ」


「はっ」


「旗が見えるまで動くな」


朝霧が森を覆った。


やがて遠くから、鬨の声が聞こえてきた。


一度、二度だけでは無く、何度も。


そして、槍のぶつかる音。


土方は目を開いた。


「始まったな」


森の向こうでは、綱成が動いている。


土方は兵を見回した。


二百、誰も声を出さない。


「まだだ」


さらに戦の音が近づく。


北条軍が退いて、正木時茂が追っている。


土方はじっと待った。


「まだだ」


やがて。


「……近い」


木々の向こうに、正木軍の旗が見えた。


だが、土方は動かない。


時茂の兵が森の前を通り過ぎ、しばらくそれが続く。


土方のすぐ近くを、正木兵が通過するが、それでも土方は動かない。


そして兵たちも息を殺す。正木兵が完全に通り過ぎるが、まだだ。


正木時茂本人の旗が近づいてくる。


土方の目が細くなる。


「……来た」


時茂の本隊が、森の前を抜けていく。


その兵の大半が、綱成を追って前へ進んでいく。


土方は刀の柄に手を置いた。


しかし、まだ抜かない。


まだ、綱成からの合図がない。


やがて、森の向こうから、鋭い音が響いた。


ヒュンッ!


一発。


土方が顔を上げる。


続いて。


ヒュンッ!


二発。


そして――ヒュンッ!


三発。


土方の口元がわずかに上がった。


「来たぞ」


土方の指示に全員が刀を抜く。


槍を構える。


土方が立ち上がった。


「行くぞ」


土方の指示で二百の兵が、一斉に森から飛び出した。


正木軍にしたら、突然無数の人影が木々の間から現れるように見えた、それも自軍の背後に。


僅か二百の兵だが、突然現れた兵に正木軍には十分な恐怖を与えた。


「敵だ!」


「後ろだ!」


正木兵が振り返る。


だが、遅い。


土方隊はすでに距離を詰めていた。


「突っ込めぇぇぇ!」


勢いよく二百の兵が一斉に駆け出す。


「うおおおおおっ!」


大地が震える。


木々が揺れる。


槍が突き出される。


刀が閃く。


「押せぇ!」


「一気に崩せ!」


土方自身が先頭を駆ける。


「道を開けろ!」


「土方隊、突撃だ!」


正木軍の後方の隊列が大きく揺らいだ。


時茂が振り返る。


その目に映ったのは自分を背後から襲う二百の兵。


そして、その先頭で刀を振るう土方だった。


「小癪な!」


時茂が叫ぶ。


土方もまた、時茂を見た。


「正木時茂!」


二人の視線がぶつかる。


土方が笑った。


「ようやく会えたな、槍大膳」


時茂が槍を握り直す。


「貴様……!」


「逃げると思ったか?」


土方が一歩踏み込む。


「俺たちは――」


さらに一歩。


「お前の首を狙いにやって来た地獄の使者さ」


そして土方は刀を振り上げ、兵に激を飛ばす。


「さあここまで、お前らを連れてきたんだ!」


「突けぇぇぇ!」


二百の兵が更に一斉に押し込んだ。


正木軍の背後が崩れる。


前方では土方の奇襲成功を見て、綱成が反転する。


「今までよく我慢したな!今だ!」


北条軍もまた、向きを変えた。


さっきまで弱気になっていた兵たちが、一斉に槍を構える。


綱成が刀を抜く。


地黄八幡の旗が大きく翻った。


「反転!」


「攻め返せぇぇぇ!」


北条軍が動いた。


前後から挟まれた正木時茂隊。


それを見て、遠くの高台にいた里見義堯は、初めて表情を変えた。


「……何?」


側近が叫ぶ。


「申し上げます!」


「時茂様の軍の背後から、北条の別働隊が!」


義堯は目を凝らす。


「別働隊だと……?」


義堯の視線の先に正木軍の背後で、土方の二百が暴れている。


義堯の顔から、先ほどまでの余裕が消えた。


「……まさか」


綱成が自ら囮になった。


それは、義堯の読んだ通りだった。


庁南城が落ちる寸前に綱成が焦り、勝負に出た。


そこまでは義堯の読み通り。


だが、その「勝負に出る」という行動そのものが、綱成の仕掛けだった。


義堯は戦場を睨む。


「……綱成」


そして、その目が鋭くなる。


「お前……俺に、そう思わせたのか」


戦場では、綱成が刀を掲げていた。


「押せ!」


「時茂を逃がすな!」


その背後、土方もまた叫ぶ。

「止まるな!」


「今ここで――」


土方の刀が振り下ろされる。


「奴らの隊列を叩き潰せ!」


北条軍と土方隊。


二つの刃が、正木時茂隊を前後から挟み込んだ。


そして綱成は、初めて確信した。


――これでいい。


自分が餌になる。


義堯に「焦った」と思わせる。


三方向から攻めさせる。


そして、その三方向攻撃の一角――。


正木時茂を、狙った場所まで引き込む。


綱成は前方を睨んだ。


「土方――後ろは任せたぞ」


そして地黄八幡の旗が、再び大きく翻った。


今度は北条軍が、今迄の借りを返すとばかりに前へ出た。

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