第30話
夜。、里見軍の陣から離れた林の中を、二百の兵が音もなく進んでいた。
先頭を歩くのは土方歳三。
その後ろに、二百の兵。
だが、誰一人として旗を掲げていない。
鎧の金具には布が巻かれ、刀の鍔にも布が噛ませてある。
槍の石突きにも布。
歩くたびに鳴るはずの金属音を、徹底的に消していた。
土方が立ち止まる。
「止まれ」
先頭の兵が身を低くする。
その動きが後ろへ伝わり、二百の兵が次々と姿勢を落としていく。
遠くから、馬の蹄の音が聞こえた。
敵の斥候だ。
土方は手を上げた。
誰も動かない。
誰も息を荒くしない。
やがて蹄の音が遠ざかる。
土方が二本指を上げる。
前進。
二百の兵が再び闇へ溶け込んでいく。
その少し後ろを、沖田総司が歩いていた。
「……土方さん」
小声だった。
土方が振り返る。
「何だ」
「本当に、ここを通るんですか?」
「そうだ」
「道ではありませんよ?」
「だからだ」
土方は前を向いた。
「敵の斥候が探すのは、まず街道だ」
「人間は歩きやすい場所を道だと思う」
「だから、敵もそう考える」
沖田は少し目を丸くした。
「なるほど」
土方はさらに進む。
街道を外れ、細い畦道へ入る。
左右には田。
足元はぬかるんでいる。
兵たちは一人ずつ足場を確かめながら進んだ。
「ここなら足跡が残りますよ」
沖田が言う。
「残る」
土方は即答した。
「だから、戻って消す」
「……そこまで考えているんですか?」
「最後尾に五十置いてある」
「足跡を踏み荒らさず、目立たないように通る」
「必要なら、枝で軽く均す」
沖田は黙った。
しばらく土方の背中を見ていた。
やがて、小さく笑う。
「土方さん」
「何だよ」
「僕、少し驚いています」
土方が振り返った。
「何にだ?」
「こんなことまで考えていたんですね」
「こんなこと?」
「夜の行軍です」
沖田は周囲を見る。
「音を消すこと」
「敵の斥候がどこを見るか」
「街道を避けること」
「足跡まで考えること」
「川を渡る場所まで決めている」
沖田は少し首を傾げた。
「僕が知っている土方さんは、もっと……」
「もっと何だ?」
「剣を抜いて、敵に斬り込んでいく人でした」
土方が鼻で笑った。
「俺だって、いつまでもそれだけじゃねえ」
「いつからです?」
「さあな」
土方は少し考える。
「戦場で生き残ろうと思えば、嫌でも覚える」
「敵がどこを見るか」
「どこを警戒するか」
「どこなら見落とすか」
「そういうのを考えているうちに、こうなった」
沖田は静かに土方を見る。
「……新選組の頃より、ずっと考えるようになりましたね」
土方の足が一瞬止まった。
だが、すぐに歩き出す。
「今は兵がいる」
「俺一人が斬り込めば済む話じゃねえ」
「二百人を死なせないためには、剣より先に頭を使わなきゃならん」
沖田はその言葉を聞いて、少し笑った。
「なるほど」
「何だ」
「やっぱり土方さんですね」
「どういう意味だ」
「結局、昔と同じです」
沖田は前を見る。
「自分が一番危ないところに行く」
土方は答えなかった。
沖田が続ける。
「でも、今は違う」
「自分だけじゃなく、二百人を生かすために考えている」
土方は小さく笑った。
「……余計なこと言ってねえで歩け」
「はいはい」
二人は再び歩き出した。
しばらくして、川へ出た。
月明かりが水面を照らしている。
土方は川を見て、兵を止めた。
「ここを渡る」
「浅い場所を選べ」
兵たちが足袋を脱ぎ、荷物を高く持ち上げる。
槍は横にして運ぶ。
水音をできるだけ小さくする。
沖田が土方の横に立った。
「土方さん」
「今度は何だ」
「敵の陣が近いんですよね」
「ああ」
「怖くないんですか?」
土方は川の向こうを見た。
「怖いさ」
沖田が意外そうな顔をする。
「……土方さんでも?」
「馬鹿」
土方は笑った。
「怖くねえ奴なんかいねえ」
「ただな」
土方は刀の柄を握った。
「怖いから、考えるんだ」
「どうすれば生き残れるか」
「どうすれば敵を倒せるか」
「どうすれば、こいつらを生きて帰せるか」
「それを考え続ける」
沖田は黙っていた。
そして、ふっと笑う。
「やっぱり、変わりましたね」
「だから何だ」
「昔の土方さんなら――」
沖田は少し間を置いた。
「『斬れば分かる』って言ってそうです」
土方が吹き出した。
「……言ってたか?」
「言ってましたよ」
「そうだったか」
「はい」
二人は小さく笑った。
だが、笑い声はすぐに消えた。
土方が手を上げると全員停止する。
前方に、敵の見張りの松明が見えた。
土方は身を低くする。
沖田も刀に手を添えた。
だが土方は抜かなかった。
「戦わねえ」
小声で言う。
「今夜は戦うために来たんじゃねえ」
沖田が頷く。
「戦う場所へ行くため……ですね」
土方が沖田を見る。
「覚えてやがったか」
「さっき聞きましたから」
二人は再び身を伏せた。
敵の見張りが遠ざかる。
土方が合図する。
二百の兵が、また闇の中を進み始めた。
夜明けまで、まだ時間がある。
だが、土方には分かっていた。
朝になれば、綱成が正面で己を餌にする。
正木時茂は必ず食いつく。
そして、その背後には――二百の兵がいる。
土方は前を見た。
沖田が隣に並ぶ。
「土方さん」
「何だ」
「明日は、すごい戦になりそうですね」
土方は口元を僅かに上げた。
「ああ」
「だからこそ――」
土方は暗闇の先を見据えた。
「今夜は、一人も音を立てずに行くぞ」
二百の兵は、闇の中へ消えていった。




