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第29話

夜、北条軍本陣。


昼間まで激しく動いていた戦場も、今は静まり返っていた。


だが、本陣の中では綱成が地図を睨み続けている。


三日間、里見軍は退いては現れ、現れては退いた。


正木時茂が側面を突き、正木時忠が逆側から姿を見せ、里見義弘が正面から押してくる。


こちらが追えば伏兵。


こちらが止まれば、里見も止まる。


まるで戦場そのものを義堯に握られているようだった。


綱成はしばらく黙っていたが、やがて地図の上に指を置いた。


「……このままでは、義堯の思うままだ」


重臣たちが顔を上げる。


「ならば、こちらから戦場を変える」


綱成は正木時茂の位置を指した。


「狙うのは、こいつだ」


綱成の重臣、間宮康俊が地図を見る。


「正木時茂……槍大膳ですか」


「ああ」


綱成は頷いた。


「里見軍で最も強い。ならば、正面から倒そうとする必要はない」


指を動かす。


「背後を取る」


間宮が顔を上げた。


「背後を?」


「そうだ」


綱成は北条本隊の位置を動かした。


「まず俺が正面に出る」


「これまでのように罠を警戒して止まるのではない」


「明日は、こちらから強く押す」


「敵の前衛と激しくぶつかる」


「そして、俺自身が前線へ出る」


間宮が眉を寄せた。


「綱成様ご自身が……?」


「そうだ」


綱成は時茂隊へ視線を移した。


「俺が前へ出れば、義堯は必ず見る」


「綱成が焦っている」


「これまで慎重だった北条軍が、急に決戦を求めてきた」


「そう思わせる」


間宮が呟く。


「……囮」


「そうだ」


綱成は笑った。


「俺自身が餌になる」


地図の上で、北条本隊の駒を前へ進める。


「まず、時茂を正面に誘う」


「そして、俺は奴と戦う」


「だが、勝とうとはしない」


「むしろ――」


綱成の指が、北条軍の駒を少し後ろへ動かした。


「押される」


「わざとですか?」


「そうだ」


「俺が押されれば、時茂は追ってくる」


「一度追えば、二度目も追う」


「そして、こちらがさらに退けば――」


指が、戦場の奥へ進む。


「奴をここまで引き込む」


そこは左右を林と小高い丘に挟まれた場所だった。


間宮が地図を覗き込む。


「ここなら……」


「そうだ」


綱成が頷く。


「時茂は、俺を追って深く入る」


「その時、俺が反転する。そして正面から時茂を押し返す」


綱成は、時茂隊の背後へ指を伸ばした。


「その瞬間――別働隊が背中を突く」


間宮はしばらく黙っていた。


「ですが、別働隊を大きく動かせば、夜のうちに察知されます」


「分かっている」


「数百ですか」


「二、三百」


綱成は即答した。


「その程度なら、夜陰に紛れて動かせる」


「それ以上は無理だ」


「ならば、その指揮を誰に?」


綱成は黙った。


そして、ぽつりと言った。


「……土方だ」


間宮の顔が曇った。


「土方歳三ですか」


「ああ」


「綱成様」


「何だ」


「私は、反対です」


綱成は間宮を見る。


「理由を申せ」


「土方は確かに兵を率いております」


「戦場での判断も悪くない」


「ですが、北条の家臣ではない」


「しかも、百姓上がりです」


間宮は地図を見ながら続けた。


「今回の別働隊は、ただの奇襲ではありませぬ」


「敵の最強部隊の背後へ回り、土方の二百ほどの兵だけで突く」


「失敗すれば、全滅もあり得ます」


「その指揮を土方に任せるのは……」


綱成は黙って聞いていた。


やがて言った。


「ならば、作戦を伝える」


「それで、少しでも怯えが見えたら指揮官を変える」


間宮が顔を上げる。


「それでよろしいのですか?」


「それでいい」


「土方自身に決めさせる」


綱成は兵を呼んだ。


「土方を呼べ」


しばらくして。


「土方歳三、参りました」


幕が開く。


土方が本陣へ入ってきた。


「北条綱成殿」


「来たか、土方」


綱成は地図を広げた。


「お前に任せたい戦がある」


土方が地図を見る。


「正木時茂を知っているな」


「ええ」


「里見軍で最も強い部隊です」


「そうだ」


綱成は時茂隊を指した。


「明日、俺がこいつを正面に引きつける」


「その間に、お前は手勢を率いて夜のうちに回り込む」


「朝には、時茂の背後に出る」


土方は地図を見つめた。


綱成は言葉を続ける。


「俺は正面から時茂と戦う」


「だが、わざと押される」


「奴らに『綱成は崩れている』と思わせる」


「時茂が追ってきたら、さらに退く」


「ここまで引き込む」


綱成が指したのは、林と丘に挟まれた場所。


「時茂がそこへ入ったところで、俺は反転する」


「正面から押し返す」


「そして――」


綱成の指が時茂隊の背後へ伸びる。


「お前が突く」


土方は黙っていた。


間宮は、その顔をじっと見ている。


怯えるか、断るか。


やがて土方が口を開いた。


「……なるほど」


「何だ?」


「綱成殿が餌になるわけですか」


綱成の口元が上がる。


「そういうことだ」


土方は地図を見ながら考える。


「俺たちの手勢なら、夜のうちに動けます」


間宮が意外そうに見る。


「やるのか?」


土方は顔を上げた。


「やらない理由がありますか?」


「敵は正木時茂ですぞ」


「だから面白い」


土方の目に鋭い光が宿った。


「正木時茂は、強い」


「だから正面から相手にする必要はない」


「背中を取ればいい」


綱成が笑う。


「ハハハ、その通りだ」


土方は地図を指した。


「ただし、一つ条件があります」


「何だ」


「綱成殿が、本当に押されているように見せてください」


「中途半端では駄目です」


「時茂が『今なら綱成を崩せる』と思わなければ、追ってきません」


綱成は頷いた。


「分かっている」


「ならば、俺は遠慮なく押されよう」


土方はさらに地図を見る。


「そして、時茂をこの地点まで引き込んだら――」


「俺が反転する」


綱成が答える。


「その瞬間、俺たちが背後を突く」


「はい」


土方は頷いた。


「時茂隊は前に綱成殿、後ろに我ら」


「逃げようとすれば、隊列が乱れます」


「そこを叩く」


間宮は土方を見つめた。


「……本当に恐ろしくないのか」


土方は少し笑った。


「怖いですよ」


間宮が意外そうな顔をする。


だが土方は続けた。


「だからこそ、面白い」


「怖いと思っている方が、敵の動きをよく見られる」


綱成は笑った。


「よし、決まりだ」


土方を見る。


「明日の別働隊は、お前に任せる」


「承知しました」


「失敗すれば、敵中に取り残される」


「承知しています」


「戻れぬかもしれぬ」


土方は腰の刀を軽く叩いた。


「戦場に出て、戻れる保証なんぞ最初からありません」


そして土方は、正木時茂の駒を見た。


「ですが――」


その目に闘志が宿る。


「槍大膳の背中を取れるなら、やってみる価値はある」


綱成は満足そうに頷いた。


「よし」


「明日、俺は正面に立つ」


「時茂を俺に食いつかせる」


「奴が俺を追えば追うほど、土方、お前の仕事が楽になる」


「はい」


「そして時茂が最も深く入り込んだところで――」


綱成は自分の駒を反転させた。


「俺が牙を剥く」


その駒の背後へ、土方の別働隊を置く。


「前後から叩く」


「それが明日の戦だ」


土方が一礼する。


「では、準備に入ります」


土方が本陣を出ていく。


間宮は、その背中を見送りながら呟いた。


「……本当に、あの男に任せるのですか」


綱成は答えた。


「ああ」


「なぜです?」


綱成は地図から目を離さない。


「俺が餌になる以上、食いつく相手を選ばねばならん」


「そして――」


綱成の目が、正木時茂の駒に向けられる。


「その背中を取る男もな」


やがて夜が更けていく。


綱成は自らを餌とする。


土方は二百を率いて闇を行く。


そして翌朝。


正木時茂が綱成という餌に食いついた瞬間――


その背後から、北条の刃が突き立つ。


それが、地黄八幡が仕掛ける逆襲だった。

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